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町医者 松嶋大のおもい

この写真は、データによると2002年とあるから、初期研修がまもなく終わり後期研修が始まる頃です。

将来、どういう医者になろうなんて考えることもなく、ただひたすら仕事(研修?)していました。

あらためて振り返ってみますと、大抵のことは、この時期にほぼ決まっていたんじゃないかなと、今は思います。楽しい時期でした。



さて、ぼくは、2019年ころから、自分を「町医者」と呼んでいます。
自分で呼んでおいて何ですが、実は、違和感アリアリなんです。

というのも、「町医者」というわりに、看板もろくにかかげていない小さな診療所で、近所の人をたくさん診ているわけではないからです。

そんなぼくが、恥ずかしくもなく、堂々と、あえて、自分自身を「町医者」と呼ぶのは、ひとつの大きな夢があるからです。


それは、「医療の大衆化」。

医療が、特別なものではなく日常的であること

医療が、医師など一部が主導権を握るのではなく誰にとっても身近であること

医療が、患者と医師が手を取り合い一緒に歩むものであること

これらが、世の中で普通であること。
これを、ぼくは「医療の大衆化」と呼ぶことにしました。


では、これを、どうやれば実践できるだろうかと自問自答しました。

町の中に、ごく普通に、医者が存在しなければいけないと思いました。

高い壁(心理的、物理的)をもった医療機関のなかに居座るのではなく、いかにも医者という妙なオーラを出すのではなく、ごく普通に、地域の中にあるということ。そういう医者を、町医者と呼ぼうと、ぼくが勝手に決めたんです。

そこで、「医療の大衆化」が目標というか願いのぼくは、自分を町医者と名乗ることにしました。


偉そうなことを、つらつらと書いてはみたものの、単なる医師のぼくが、一人で何ができるのか、悩みます。


答えは、シンプルでした。
実践を積むだけです。

ぼくの信念「目の前の人に最善を尽くす」に従って、出会った患者さんに、一人の医師として、一人の人間として最善を届ける。

これに尽きるなと。


町医者松嶋大のおもい。

目の前の人に最善を届けるという実践をひたすら積み上げることで、「医療の大衆化」という一つのあり方を社会に提示したい。

ただ、ぼくは「医療の大衆化」が絶対的に正しいあり方だと確信は持っていませんし、もっといいあり方があるのではないかと自問自答もしています。

大衆が、社会が、このあり方にNOとあれば、また別のあり方を模索する勇気を常に持ち続けます。


困っている目の前の人に最善の医療を届けること。
これだけは揺るがずに、淡々と、粛々と、前進を続けます。

どうぞ、引き続き、町医者松嶋大をよろしくお願いいたします。


追記
ぼくの日々の活動は、尊敬する方の言葉を拝借して「終わりなき旅」と呼んでいます。同名の研修医時代のエッセイを文尾に掲載しておきます。


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「終わりなき旅」

 95歳と長命のみとりさんは、その年まで大きな病気もなく過ごされていました。ある時、食欲が無くなったと、珍しく病院の門をくぐりました。すぐに胃カメラを行いました。進行胃癌でした。年齢を考慮し、手術や抗がん剤はせずに緩和医療に徹することになりました。

 入院されたみとりさんには、進行癌とは思えないほどに静かに時間が流れました。
時は春、桜が咲き乱れる美しい季節。私はみとりさんをお花見にお誘いし、病室から連れ出しました。足腰が弱くなったみとりさんを車椅子に乗せ、車椅子を押しながら病棟非常口から外に出ました。一本の満開の桜が真正面に見えるところで、一緒に腰掛けました。

「先生の実験台でいいから、オレの胃、切ってけらいん(切ってちょうだい)」

「それはできません。手術をすればかえって具合が悪くなりますし、それに僕は外科医ではないから」

 突然の提案に私は戸惑うも、あっけなく断ってしまいました。無味乾燥というか、まるで無感情な最悪の返事でした。

 ところで、私は、みとりさんと一つだけ約束していました。一人は寂しいからずっと大部屋にいたいと。大部屋の他人の中で息を引き取ることは容易ではありません。私は、同部屋の方、お一人ずつお願いしてまわりました。ありがたいことに、皆さん、快諾してくださいました。

 花見から三ヶ月ほど立つと、みとりさんは起きあがることも、食べることもほぼできなくなりました。私は病室のベッド脇に座り、もはや目を開けることすら難しくなっていたみとりさんの手を握りしめ、大部屋だったので他の患者さんには聞こえぬように耳元でささやきました。


「残念ながらあと数日でお別れです。不安はないですか」
「ない。いい人生だった」と微笑みながらおっしゃいました。

 最期の日。私は約束を破ってしまいました。最期が近づき意識がなくなった頃、個室に移したのです。病院に詰めかけた家族の数が多すぎて、大部屋に入りきれなかったという言い訳です。個室への道すがら、「みとりさん、ごめんね」と何度も何度も謝りました。

 大勢の家族が待つ個室に入るとまもなく、みとりさんは95年の人生に幕を下ろしました。数日前、「いい人生だった」とおっしゃったときと同じ笑顔でした。

 あれから15年、私の部屋にはみとりさんと一緒の写真があります。悩みがあるとき、写真を眺めては自問自答を繰り返します。なぜ、みとりさんは余命数週間で私に「胃を切ってほしい」と懇願したのだろうか。研修医の私のために自己犠牲だったのか、それとも治りたい一心の叫びだったのか。私はみとりさんの気持ちを本当に聞けていたのだろうか。そして、約束を破ったことに、みとりさんは何とおっしゃるだろうか。永遠に解明されないこの謎の答えを探る旅の最中に、私は今もいます。まさに終わりなき旅です。

(盛岡タイムス掲載済み)


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