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早く出会いたい!:保健室事業を再開します

随分前に中止した「保健室事業」を再開することにしました。

今回は企業向け保健室。

診療所が企業に出向き、職員のみなさまのご相談にのります。

血圧測定をしたり医療的側面もありますが、相談内容としてはなんでもありです。医療のことや他のこと、自分のことや家族やともだち、とにかくなんでもありです。

なないろの「どこに相談していいかわからない外来」を、企業の職員の方々に無料で開放しているイメージです。

なぜ保健室事業か?

一言で申せば、「困っている方に早く出会うため」に尽きます。

「早く出会う」が、ぼくの二つある大きな原動力のひとつなんです。

(ちなみにもう一つは、「社会との接点をもつ」です)

だから、早く出会えるためにこちらから積極的に動こうということなんですね。

そして、なぜ企業向けか?

過去の経験から、保健室を開いて待っているだけでは本当に困っている方々はいらっしゃらないんです。いらっしゃらない理由はいろいろあると思うんですよ。

そこで「早く出会う」ためには、こちらから出向こうと。

出向くんだったら企業がいいなと思ったんです。「仕事が忙しい」を最大の理由として医療機関や相談機関に行けずにいる人が少なくないと考えたからです。

スタートは3月の予定で、すでに数ヶ月は埋まっています。

数カ月先以降は予定は埋まっていませんので、ご興味ある企業様がありましたら、ぜひお知らせください。大雑把な概要は下記です。

・日時:平日、1回2,3時間

・派遣スタッフ:医師、保健師、看護師、事務など数名

・相談内容:なんでも

・費用:無料 *企業様からもいただきません

その他お問い合わせはお気軽に!


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わたしが「早く出会う」ことに必死になるきっかけになった物語です。

(長文、失礼します)

<もっと早く出会いたかった>

「積極的」という言葉。

医師として、いつも違和感を覚えつつ仕方なく使っている言葉です。

例えば「積極的治療」のように。ガンの場合、癌を切り取る手術だったり、抗がん剤治療だったりを指します。一方で治癒が望めず、せめて苦痛だけでもしっかりとろうという趣旨の緩和ケアは「積極的医療」と呼ばないことが多いです。

天野さんのときもそうでした。

「積極的治療の適応ではなくなったので、あとはご自宅で緩和ケアを」と。大病院から私への紹介状の一節です。

まず、医師のこのコメントに一切の悪意がないことを強調しておきます。

しかし、患者さんの側からするとどうでしょう。

確かに、癌を治す治療はできないかもしれない。とはいえ人生は続く。続く限り、希望を捨てず、積極的でありたいと願われる患者さんは多いです。しかしながら、「積極的治療の適応ではない」と。医師としてはいわゆる事実を伝えているのみですが、このフレーズに相当なショックを受けられる患者さんが少なくないですし、見捨てられたと絶望の淵に立たされる患者さんもまた少なくありません。

自戒の念を込めて、私は、医師として、自らが発する言葉のインパクトを肝に銘じつつ、この「積極的」というフレーズ一つとっても、患者さんとの丁寧な語り合いを通じて、言葉の意味を共有できるように最善を尽くしたいと思います。

天野さんは、60歳前後の女性。盛岡で生まれ、盛岡で育ちました。10代終わりに上京し、東京で家族を持ちました。順風満帆だった人生に転機が訪れたのは50代半ば。癌が見つかりました。以降、様々な治療をしましたが、癌の勢いは止めきれませんでした。結局、ご自分の判断で積極的治療を断念。「最後は故郷で」と、家族を関東に残し、一人、40年ほどぶりに盛岡の実家に戻りました。関東に残った家族も天野さんの気持ちを受け止めてくださり、頻繁に盛岡に通ってこられました。

紹介状を受け取り、その数日後、天野さんが終の棲家と決めたご実家に伺いました。立ち上がるのもやっとというほどにやせ細った天野さんは、ソファーに横たわっていました。明らかに辛そうでした。何でしょう、生気とでも言うのでしょうか、表情からはまるで生気が感じられず、明らかに死がそこまで迫っているという印象でした。

「今、一番治してほしいところは何ですか」

「とにかく寝たい。この半年、全く眠れていないの」

「えっ、それだけ!?難しくないですね。ちょっぴりお薬を調整しますから、きっといくらか眠られると思いますよ」

数日後に再訪。天野さん、初対面とはうって変わった表情で、笑顔でおっしゃいました。

「先生、ぐっすり眠られたわ。こんなことだったら、もっと早く先生に出会いたかった」

「それは良かった!同じく、私も早く天野さんに出会いたかった。僕が有名な医者だったら見つけられたでしょうに。無名ですみません」

お互い笑い合いましたが、一方で私は心中複雑でした。もっと早く天野さんに出会っていれば、いくらでも苦痛が和らぎ、もっと悪くない晩年を過ごしていただけたのかなと。このときの天野さんとのやり取りが、私が「暮らしの保健室もりおか」という街のよろず相談所の活動を加速させる原動力となりました。保健室についてはまた後ほど。

さて、もっとも苦しかった不眠がとれた天野さん。ここから、あらためて、天野さんと私の最後の物語が幕をあけました。積極的な緩和ケアという物語です。

積極的な緩和ケアが始まりました。

眠れない、だるい、痛い、食欲がない、苦しい・・・、様々な苦しみが天野さんに襲いかかっていました。神がいるのだとすれば、何を理由にこれほどの苦しみを一人の人間に与えるのか、私は、神を、そして運命を恨まざるをえないほどでした。しかし、誰を恨んでも仕方ありません。今、私の前には、ただひたすら苦しんでいる天野さんが横たわっている。私は、医師として、苦しんでいる方にひたすら力になりたいと強く思いました。

天野さんとの物語を進める前に緩和ケアの説明をいくばくかしましょう。世界保健機関(WHO)は緩和ケアを次のように定義しています。

「緩和ケアとは、生命を脅かす病に関連する問題に直面している患者とその家族のQOLを、痛みやその他の身体的・心理社会的・スピリチュアルな問題を早期に見出し的確に評価を行い対応することで、苦痛を予防し和らげることを通して向上させるアプローチである」

私はこの定義で二つに着目しています。QOLの向上、そして家族にも配慮していること。

まず、QOLの向上について。QOLとは生活の質のこと。痛みを例にとって考えてみます。痛みが和らぐことは生活の質の「維持」に役立ちます。しかし、それだけで自動的に質の「向上」につながるわけではありません。痛みがとれることで何かしら生活の質が向上すること、それが緩和ケアであると。つまり痛みがとれるだけでは物足りないわけです。

そして、患者のみならず家族にも配慮していること。苦しんでいる患者をみて家族も苦しむ。患者を見送った後も、残された家族の人生は続く。家族を残して先に去る患者にとっても、残される家族にとっても、患者が最晩年をいかに過ごすかはとても重要なのだと思います。

話を天野さんに戻しましょう。「悪くない人生だった」と、天野さんも、家族も思ってくださるよう、天野さんに積極的な緩和ケアを提供することにしました。QOLが向上し、かつ天野さんもご家族も納得がいくような。

あるとき、天野さんが犬に会いたいと話されました。天野さんも、ご実家でも犬は飼っていません。犬を飼っているスタッフがいましたが、その犬を連れて来ればいいという問題ではありません。「誰」が大切です。誰の犬が、誰が連れてきて、誰が何をするということがポイントです。関東に残った息子さんが犬を飼っていました。息子さんの次の休みに、息子さんが犬を連れて戻ってくることになりました。そして、息子さんの手で、お母様に犬を対面させようと。さて、当日。結果は書くまでもありません。天野さんの心は大きく満たされ、深く癒やされていました。

あるとき、お風呂に入ろう、という話になりました。看護師やヘルパーが介助することは簡単ですが、それだけでは物足りない。看護師が「ご主人と一緒に入ったらどう?」と粋な提案。関東に残ったご主人は頻繁に盛岡の妻のもとに駆けつけてくださいました。そのタイミングで天野さんの入浴。やはり結果は書くまでもありません。御本人にとっても、ご主人にとってもかけがえのない時間になりました。

本人の意欲、ご家族の愛情あふれる介護、ここに私たちの積極的な緩和ケアの効果もあり、始めてお会いした際に比べると苦痛も緩和され、また見違えるほど笑顔も増えました。しかし、病気は淡々と悪化し、確実に最期が近づいていました。(次号に続く)

本人が、家族が、医療者がどれほど願ったとしても病気は進行します。天野さんに確実にその日が近づいていました。やがて、耐え難い倦怠感が天野さんを襲います。あらゆる治療が無効でした。唯一、私に残されたのは「鎮静」のみ。

話を進める前に、緩和ケアの「鎮静」について説明します。日本緩和医療学会によると、「鎮静」とは、「患者の苦痛緩和を目的として患者の意識を低下させる薬剤を投与すること」、あるいは「患者の苦痛緩和のために投与した薬剤によって生じた意識の低下を意図的に維持すること」です。つまり、患者さんの意識を少しだけ低下させて、苦痛を自覚しづらくする(緩和する)治療法です。

話は天野さんに戻ります。

天野さんを襲った倦怠感は日増しに強くなりました。本人はもちろん苦しく、直近でその苦痛を見ているご家族もまた苦しみます。そして、何もできずにいる私たち医療者もまた苦しみます。

「先生、もう死にたいわ」

天野さんの一言に、私はただ沈黙する他ありませんでした。末期がんの耐え難い倦怠感、それは当事者にしか分からない世界であり、未経験の周囲が安易に共感できるほど、そんなやさしいものではないと思ったからです。

苦しむ天野さんを前に、私はやはり黙るのみでした。実に情けない医者でした。そんな私にできることは、もはや「鎮静」しか残されていませんでした。激しく悩みました。「鎮静をすべきかどうか」、いやその前に「鎮静の提案をすべきかどうか」です。同時にあの言葉が蘇えってきました。

「お前、神にでもなったつもりか」

私が、医師になってまだ2年目のとき、担当患者さんの治療法について、私は延命治療をすべきではないと指導医に上申しました。当時はまだ延命治療が大多数の時代であり、私は指導医から厳しく叱責され、前述の言葉を投げかけられました。

天野さんへの鎮静について考えが及んだとき、指導医の言葉が一気にフラッシュバックしました。私は今、神の領域に踏み込んでいるのではないだろうか。そんなことを私に提案する権利などあるのだろうか。私はもちろん神ではない。神ではないからこそ私は悩むし、天野さんと同じ人間だからこそ、私は天野さんのためにありたいと願いました。悩み抜いた結果、私は、天野さんとご家族に「鎮静」を勧めました。

一度きりしかない人生、その終幕に際し意識がどうであるか、それは本当に大事なことです。一晩、じっくり考えていただくことにしました。私が去ったあと、中村直子看護師が、悩みという深い渦に迷い込んだ本人とご家族に寄り添いました。私の前では気丈に振る舞っていたご家族も、中村看護師とともに泣きながら議論したのだそうです。

翌日、ご家族から、鎮静を選択する旨の連絡がありました。

ちなみに、中村看護師は、ご家族から「直子さんの家族だったらどうしますか?」と聞かれたのだそうです。私たち医者は、「自分の親や子どもにできることを、患者さんにもやりなさい」と教えられます。彼女が何と答えたかまでは聞きませんでしたが、きっと、天野さんを自分の親だと思って、ご家族と一緒にたくさん悩んだのでしょう。看護師である前に一人の人間として、ご家族とともに一緒に悩み抜いた中村看護師のあり方を、私は仲間の一人として本当に誇りに思いました。

さて、鎮静が始まりました。天野さんとご家族、そして私たちの旅もいよいよ終点が見えてきました。

幾分苦痛が和らいだのだと思います。日中もうつらうつらされていることが増えました。終点は間近でした。

「何かしておきたいことはありませんか」

後悔がいくらでも残らないことを願い天野さんにお尋ねしましたが、残念ながら御本人に答えられる力は残っていませんでした。

「盛岡の美しい空を、そして岩手山を見せてやりたい」

代わってご主人がおっしゃいました。

高校卒業後すぐ上京した天野さんは、人生の多くを東京で過ごしました。どれほど離れていても、どれほど時間がたっていても、ふるさと盛岡を想っていたのでしょうか。末期がんでもう治らないことを確信されたとき、天野さんは盛岡に戻ることを決断されました。最晩年を過ごす場として。

そして、妻が愛したこの盛岡の空と岩手山を最期に見せてやりたいと、妻を愛するご主人が願われたのです。

二つの課題がありました。

一つ目は時間。天野さんに残された時間を考えると、明日実行に移さなければいけない。しかし、この願いを伺ったのは夜。仲間たちはすでに帰宅している時間。はたして明日までに準備ができるかなと。

杞憂に過ぎませんでした。仲間たちは明朝早く天野さんのもとに集結してくれることになりました。福祉用具事業所の友人も状況を察し、通常準備に時間がかかる特殊車椅子を翌日早くに届けてくれることに。仲間に恵まれていることに感謝しました。

問題は二つ目。自力ではどうしようもない問題、つまり天気です。残酷なことに天気予報で明日は曇りもしくは雨。青空が期待薄はもちろんのこと、岩手山すら見えないかもしれない。こればかりは願うのみでした。

翌日。

こういうとき願いは通じるものです。天気予報はしっかり外れました。天野さんが愛した盛岡に見事な青空が広がったのです。もちろん、美しい岩手山も。

診療所から仲間が集まり、車椅子も届きました。「さあ、行こう」と誰ともなく掛け声が湧き上がりました。よいしょ、よいしょ、みんなで天野さんを車椅子に乗せ、段差ある玄関を超え、盛岡の青空と岩手山が待つ外に出ました。ここから先は天野さんとご家族だけの時間。私たちは、最期の願い、そして最期の散歩を遠くから見守りました。

それから数日後、天野さんは、愛する盛岡で、愛する家族に囲まれ、旅立ちました。

臨終の確認後、天野さんの元を離れた私に、中村看護師から写真付きのメッセージが届きました。中村看護師が私より後に天野さんのところを離れ、診療所に戻る際、田んぼに挟まれた道の先にかかる二つの虹と出会ったのです。その写真でした。

私は、今回、あの、なないろの虹になれたでしょうか。天野さん、私ももっと早く出会いたかったです。

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