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バリアフリーという言葉がない社会

盛岡視覚支援学校に勉強に行ってまいりました。

遠方から朋、親友の岸野さんがいらっしゃったのでご一緒に。

学校の方にとても丁寧にご説明、ご案内をいただきました。

この場を借りて、あらためて感謝申し上げます。

まずぼくの結論から。

視覚障がいの方にやさしいかもしれないことは、全ての方にとってやさしいだろうということ。

廊下に何も置かないこと

ドアの色を変えてわかりやすくする(場所の確認)

鈴などを置いて場所に気づきやすくする

眩しすぎないように窓を工夫する

その他多数。


例えば廊下に何も置かないこと。

これだけ聞くと当たり前に聞こえるかもしれませんが、どうでしょう。

案外置いてませんか。


これらって視覚障がいをお持ちの方だけに限ったやさしさではないと思うんです。

高齢者もちろんのこと、こどもたちにも。

視覚障がいのみならず、車椅子の方にもやさしい。


飛躍した解釈と言われそうですけど、このいずれも誰にもやさしいことかなと。


ところで最近ずっと考えていることがあるんです。

バリアフリーという言葉がない社会は、どんだけやさしい社会だろうなと。

歩道に点字ブロックが当たり前。

階段に昇降機やスロープが当たり前。

電車にテレビがあって手話が映るが当たり前。

自販機のボタンが誰の手も届くが当たり前。

全てが当たり前だとバリアはない。

バリアという言葉の意味がゼロになるので、バリアフリー化という概念がなくなりますよね。


バリアフリーという言葉がない社会。

やさしさが溢れていそうです。

そんなことをあらためて思った、今日の勉強となりました。

ありがとうございました。


追記

この視覚支援学校、その昔、ヘレン・ケラーさんも来られたところなんですよ。

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