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みんなのおちゃのま

先日のおちゃのま。

これを閑散としているとみるか、隠れ家的とみるか。

ぼくは後者だけど、見る人によっては前者だろう。

あるいはどちらでもない別の視点もあるだろう。

奥ではカフェから声が、小上がりからは小さな子とお母さんの声が、手前からは二人一組の声が。時折、人が通ったり、出入りがあったり。

ここが目的地の方もあれば、通過の方も。

ちょっとだけの滞在の方もあれば、結構長い方も。

人それぞれにとってのおちゃのま。

2017年10月にオープンして7年目に入った。

最初の数年はだれもいない、本当に閑散とした場所だった。

それが少しずつ、本当に少しずつ、いろいろな人がかかわる場になってきた。

まだまだ現在進行系。少しずつ成長している。

思い返すと、とある施設で超高齢者をお見送りした際の、なんともいえない違和感がもとでおちゃのまの構想が始まった。

「人間は社会の中で、人と繋がったままで、最期まで生き続けたほうがいい」

これがおちゃのまの原点にある経験から率直におもったこと。大元。

あれからだいたい10年。

オープンしてから数年のおちゃのまはぼくの所有物だった。

「ぼくのおちゃのま」というわがままな場所だった。

そこに仲間たちが少しずつ関わり、お客さんも関わって、「ぼくのおちゃのま」から「みんなのおちゃのま」に移行した。

「ぼくは隠れ家的なおちゃのまがいいな」だけど、「わたしはワイワイガヤガヤなおちゃのまがいい」とか「おれは閑散としたほうがいい」とか、いろいろな形があっていいんじゃないかと思うようになった。

もう「ぼくのおちゃのま」じゃない。

数年前にぼくの所有からほぼ離れた。

(お金を出しているからぼくの所有という小さい考えは捨てよう)

今は「みんなのおちゃのま」。

大元は変わらない。

「人間は社会の中で、人と繋がったままで、最期まで生き続けたほうがいい」

その大元は、いろいろな解釈があっていいし、いろいろな表現系があっていい。

こうして「みんなのおちゃのま」が「地域のおちゃのま」に成長するんじゃないかな。

「ぼくの」が「みんなの」になって、これから「地域の」になるおちゃのま。

ぼくはその目撃者になる。

あー、なんとも嬉しいことだし、楽しい。

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