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死刑の基準 「永山裁判」が遺したもの / 堀川恵子




会社の人に貸してもらって読んだ。
「連続射殺魔」と呼ばれた永山則夫の死刑判決から、のちに「永山基準」と呼ばれる死刑の基準とは何なのかを問う本。
2009年に裁判員裁判が始まる前、その前年にあった山口県光氏母子殺害事件の裁判を巡って過熱した報道や世論に筆者が疑問を持ったことを機に書かれている。

犯罪に至った人物の生い立ちに迫る本はたくさんあるし、私は凶悪犯罪と言われるものに興味があるので色んな本をミーハー的に読んでいるのだけど、この本はそれだけではなかった。
判決を待つ間の被告人の揺れ動く心情や「償う」という行為への向き合い方はあまり取り上げられない。また事件から時間が経っていることもあり複数の担当裁判官からの証言が得られており、刑事裁判において裁判官はどういう思いで判決を下すのか垣間見ることができる。つい加害者・被害者のことばかり考えてしまう刑事事件において新たな視点だった。

現在OECDに加盟する36カ国で死刑制度を廃止する中、現在は日本、アメリカ、韓国のみが制度を有している。(韓国は20年以上執行を停止しているため事実上廃止状態)。「死刑になるのは嫌だから人を殺すのはやめよう」と言うような抑止力はほぼないというのが世界の認識になりつつある。死刑制度は誰のためにあるのか考える。

この本が書かれるきっかけともなった光氏母子殺害事件をめぐっては、当時少年だった加害者に死刑を望む世論が大勢で、死刑判決が出た際には裁判所の前で拍手が起きたという。被害者遺族がそう思うのはうなずけるが、果たして「部外者」である人たちが「殺すという罰」を望むのは何故なのか。「目には目を」と思ってしまうのは人間の性なのか。これまでは勝手に「極悪人の死」を望んでも自由だったが、裁判員裁判が存在する中では他人事ではない。

文庫化されたのもすでに3年半前のことで少し古いけれど、コロナにおける"自粛警察"のような他罰的な感情を目にすることが多い今読んでも、国内の死刑制度への考え方は大きく変わっていない気がする。
他罰が胸をすく思いをさせるからなのか。
生きたまま後悔し続け償う行為(=更生)は被害者遺族のためになるのか。
そもそも「この世から犯罪者を消す」ことが目的なのか、「被害者遺族のためになる」ことが目的なのか。

死刑制度についてあまり勉強してこなかったので、これを機に色々な考え方を取り入れたい。

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