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26歳


今日からまた新しい生活が始まる。これまでに何度やり直してきたんだろう。私はいつになれば安心できる場所に留まることができるのだろう。不安ばかり数えてしまって幸せを取り逃がしている気がする。学校で習った国語も数学も理科の実験もこの人生で役に立った試しがない。過去に戻りたいと願うのは罪ですか?それじゃあ「懐かしい」なんて言葉、この世から消してくれよ。

小学五年生の夏に母は家を出た。ずっと精神科に通っていた。ベランダの柵に座っているところを見つけたことがある。過呼吸を起こして救急車を呼んだこともある。目が覚めるとすごく元気な日もあった。クリスマスイブの夜、大量に薬を飲んで酔っ払っていた母は私と兄にクリスマスプレゼントが隠してある場所を教えてくれた。症状がひどくなり入院していた時期は毎週、父と会いに行っていた。もうどんな場所だったかもあまり覚えていない。テレビが見れないドラマ好きの母の代わりに面白かったドラマのあらすじを書いた手紙を渡していた。あの頃は私と目を合わせてくれることはなかった。

小中高と仲間はずれにされた過去がある。今思えば半分は私のせいだったんだろう。自分でも自分のことが嫌いだ。近所の公園のすべり台に油性ペンで悪口を書かれた。吹奏楽部でみんなにシカトされた。遊びに行くねと電話がありお菓子を用意して待っていたのに誰も来なかった。そろばん教室の日に待ち合わせ場所で待っていたのに誰も来なかった。ピンポンを鳴らしても出てくれなかった。一時間後に教室へ向かうとみんないた。先生に遅刻はしないでと注意された。先生を含めた話し合いの場で面と向かって嫌いだと言われたこともある。今も友達は少ない。寂しいけど割とちゃんと生きている。

六年前、専門学校を卒業して上京した。派遣社員としてテレビの制作会社に就職した。報道番組につけると聞いて入った会社でバラエティ番組に回された。毎日テレビ局と別の制作会社と編集会社を行ったり来たりの日々。派遣社員だから自分のデスクは貰えなかった。スマホの電話代がかかるからかけ放題にかえた。ほんの数ヶ月間で私は人間ではなくなった。渋谷の坂でウォークマンを盗まれた。付き合っていた人に初めて勇気を出して送った「会いたい」は届かなかった。私より後に入った正社員に仕事を取られ私の存在が誰の目にも留まらなくなった頃、電車に乗れなくなった。東京は怖い。私を電車の中でも平気で泣くような女にした。心が壊れるまでにたった数ヶ月間しかかからなかった。東京は怖い。

長年ファンをしていたアイドルが突然事務所をやめた。初めての三大ドームがコロナで中止になり実現することはなくそのままやめてしまった。散々叩かれた挙句に自ら油に火を注ぎ炎上した。彼を好きなことは恥ずかしいことなんだと見ず知らずの人たちに言われているような気持ちだった。あんなにも好きだったのに、辛いとき何度も何度も救われたのに、今でも嫌いにはなれないのに。あの頃いつも一緒にライブ会場へ足を運んだり手紙を交換したりSNSで繋がっていた人たちはみんな違う幸せを掴んでいる。結婚したり子供が生まれたり新しい楽しみを見つけたり。いまだに過去を憂いているのは私だけだ。

実家に帰ってきたのは昨年末のこと。四年間少し離れた県で暮らす母の元にいた。私は母が家を出てからもずっと家族の修復を願っていた。両親の離婚を知ったのはほんの最近だ。母が知らない男の人と一緒に家を借り同じ苗字を名乗っていたのも後から知った。それでも私は父に「ママと二人で暮らす」と嘘をつき家を出た。どうしても母と暮らしたかったのだ。ご飯を作ってもらったり洗濯物を干してもらったり色んな話を聞いてもらいたかった。だけど家の中に父と同じくらいの年齢の知らない男の人がいる生活は想像以上に苦痛だった。父子家庭は大変だった。ずっと母が戻ってくるのを待っていた。私と違う苗字を名乗り知らない男の人にもご飯を作る母は私が大好きなママとは別人だった。母の病気はもう治っている。


今年で27歳になる。東京で「会いたくない」と言われて振られた日から恋人はいない。何度かマッチングアプリを使い何人かの男性と会ったりもしたけど点数をつけられているような気がして上手く喋れなかった。毎月会う友達はいる。どんな過去があろうとも両親は私のことを誰よりも愛してくれている。好きなアイドルが炎上しても私はそれなりに楽しく生きてきた。死にたい夜は思い出の曲を聴いて乗り越えてきた。なんとかなるのが人生。カメラロールを眺めていると全ての記憶を愛してあげられる。絶対に離すもんかと思える。

がんばろう、今日からまたがんばろう。

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