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限界集落に嫁いできたわたしが地域づくりに関わるようになったワケ

栃木県から新幹線で遊びに来てくれた友達を、駅まで迎えに行った。
家へと向かう車は、どんどん山奥へと進んでいく。
景色を眺めながら、「まちゃはすごいよね。こんなところで暮らしているんだから」と友達が言った。もちろん”こんなところ”という言葉に悪意はなくて、都会暮らしにも、田舎暮らしにも、「いい」「悪い」はない。

一人も知り合いのいない山奥の集落に、わたしは結婚式の翌日から暮らすようになった。当時25歳。今思えばすごく若い。
常識も何もない、絵にかいたような未熟者だったと思う。

敷地内で4世代同居がスタートした。分からないことが分からない日々。
何年もかけて田舎の常識を知ることになるのだけど、未熟で常識のない若い嫁に、きっと義両親は困惑しただろう。しかし、そんなわたしに根気強く、いろいろ教えてくれた両親には感謝しかありません!

結婚の翌年には長男を出産。その後、長女、次女を出産。
みんな私の宝物。
無我夢中で、ちゃんとできたのかすら分からないけど、子供たちが今、元気にいてくれることがとてもうれしい。

育児に家業の手伝いにと、一応こんな私でも家族のために駆け抜けてきた十数年間。
今、ふと立ち止まって、自分はどう生きたいのかを問うている。

7年前からはじめた、限界集落でのマルシェイベントが回を重ねるごとに反響を呼び、ありがたいことに地域づくりをやってる人みたいに言われるようになった。

地域貢献をしたくて始めたわけではないのだけど、なぜわざわざ限界集落と呼ばれる集落で、イベントをしてみようと思ったのか。
これはよく聞かれる質問なのだけど、わたしの中でもまだちゃんと言語化できていない。
ただ、感覚的に「なんか楽しそう」と心が動いたから、というのが実は一番しっくりとくる。
それっぽいことを言おうと思えば言えるのだけど、根っこにあるのは「やったら絶対たのしい」という根拠のない確信だった。

周りの人が楽しそうならうれしくて、そういう状況を作りたい。

「こんな何にもないところ」って周りの人が言ってたから、楽しくなることをしたいと思った。
楽しくなる絵がはっきりくっきりを浮かんだから、実行することができたんだと思う。もちろん一人の力では出来なくて、夫をはじめ、数えきれない人の協力があった。

わたしは、よく、どうすれば地域がもっと元気になるんだろうと考える。
楽しくなる仕組みを作りたい。
そういう思いで、仕事ではないけれど、地域の活動に関わってきた。
でも、やればやるほど時間はなくなり、しんどくなっていくのはなぜ?
そこにはジレンマが生まれていた。

日本にはたくさんの過疎の町や村が存在してると思う。
そして、これからもっと増えていくのだろう。
働き盛りの40代が地域の活動に関わると損をする、そういう空気や、とりまく仕組みが変わらない限り、地域活性なんて難しいんじゃないか。
超個人的な思いというのは大前提で、そんなネガティブな思いも頭をよぎる。
でもわたしのような都会から嫁いできた者の経験や発信が、何かの、誰かの役に立つことができればうれしいし、興味を持ってくれる人が一人でも増えればもっと嬉しい。

そんな思いで書きました。
最後まで読んでくれてありがとうございます!

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