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鈴虫と涼しい風+勉強が幸せそのものの可能性

今日、外出して静かなところで、勉強をしていたら、日が暮れてきて、外から運動をしている人の声と鈴虫の鳴き声が聞こえてきた。
すると、ふと涼しい風が入ってきて、半袖で来てしまった自分の服装を眺める。
そんな涼しさと鈴虫のチルい空間で、俺は淡々と勉強を続ける。
作業を続ける。
なんて最高な時間なんだろう。
なんというか、お母さんになった気分というか。
子供がスヤスヤと寝ている中、洗濯物を畳んだり、家計簿つけたりしているそんな感覚に近い。

これはすごい体験だ、大事な体験だと思って、こうやって文章を打っていると鈴虫の音に集中してしまって、全然さっきのチルさがなくなってしまう。
家で鈴虫聴きながら仕事をするのが多分この世で一番幸せなんじゃないか。
もっと気持ちの良い秋の夜長を感じて仕事をしよう。

また勉強に戻ってみるとやっぱり、なんだか作業をしているところに気持ちのいい風と鈴虫の鳴き声が聞こえるというのがいい。
気持ちのいい風単体とか鈴虫の鳴き声単体ではあまり価値がない。

ある程度、要件がわかっていたりとか、その作業にやりがいのようなものを感じたり自分の頭をちょっと使ってる感じがあったりするといいなと思うのかもしれない。
実際に例えば英語の勉強で英語の動画を見て学習していたときは、気持ちよくなっていた。
ただし、なんか日本語もちょっと入ったような動画を見ていた時は自分一人の思考というよりは他人に言われたことをただやっているだけみたいなところもあったから鈴虫の音が入ってこなかった。

一方で論文を英語に直すという作業をしていた時に、chatgptを参考にしながら作っていたわけだけど、もちろんchatgptにプロンプト書いてもらって、それを参考に読んでいる時は何も気持ちよさはなかった。
でも自分でここは英語になってるとかここはもうちょっとかなとかそういうことをやっている時にはなんだか気持ちい感じになっていた。
自分で頭を使っていろんな作業をしている時に鈴虫と涼しい風を感じるのはめちゃくちゃ気持ちがいい。

そしてそれは、自分が頑張っている様子を窓の外から撮られているみたいな感じがする。
そして窓に手をかけて外の楽しそうな鈴虫の声やら子供たちの声やらを微笑ましく思いながらも作業を続ける気持ちよさがある。
これは、なんというか、個人的には自分が感じていた行為によって応用的な、プラスアルファ的な幸せを獲得する時に大事なことが詰まっているような気もした。

行為による、足し算的な幸せっていうのは、なんとなく行為をしている自分に満足することである気がする。
その上で、もう少し外に視野を広げたり他者に視野を広げるということにしていく。
そこのリズムは別にスタートアップみたいに早い必要はないし、ゆっくり自分のペースでやっていけばいいし、そういうペースが好きだけどやっていることとか進むスピード、考えている内容はけして、劣らないというものもあると思う。
研究領域なんかは特にそんな気がする。

自分は幸せというものが行為によって掴み取るものというのはあんまり合ってないと思う。
掴み取るということにすると掴み取れないということが発生する。
一方で掴み取るのがいいんだよ!と戦国武将みたいな社長さんが言ってくるかもしれないけど、それは掴み取るという行為、掴み取ったという結果をあなたが好きなだけであって、あなたは掴み取ろうとすること、全力で掴み取りにいくという行為、そして掴み取り切ることに対して気持ちよさを感じていて、かつ掴み取りきったその時に感じる幸福を報酬として味わっているに過ぎないと思う。
掴み取ったら報酬が来るのは当たり前で、例えばお笑いにしたって、同じ舞台に立っているボケツッコミにしてもウケている事自体は嬉しい。
どんな人でもある程度嬉しい。
ただその感度は甚だしく違う。
片方は、「ウケたよかった。でも、もう別にしんどいしネタ作りとか練習もやらんでいいかな」と思っていて、一方は、「気持ちよすぎる、もっとウケたい」となったりする。
これは片方はネタ作りという行為自体、練習という行為自体がしんどい人であり、かつ手に入れた笑いという報酬もそんなに魅力的でないからこうなっているのだと思う。
これは向き不向きの部分であって幸せという概念に関する話ではない。

幸せを掴み取るという概念に違和感があるのは、幸せがつかみ取れるものなら、どんな人でも同じものを掴めば同じだけの効果があるような気がしてしまうからだ。
どんな人でも東京ドームをいっぱいになるくらいのライブで客をぶち上げれたら、最高の気分になるのだろうか。
どんな人でも将棋で7冠を取ったら最高の気分になるのだろうか。
どんな人でも世界の大富豪10選とかに入ったら最高の気分になるのだろうか。
掴み取るものではやはりないような気がする。
個々人にあった目標に対して掴み取るという話に対しても、なんだか少し違和感がある。
人によっては目標というものを達成したところでなんやねんと思う人もいる。
勝ち負けが好きすぎる人というのもいるけど、逆に勝ち負けがなんやねんと思う人もいるわけで、そうなると「掴み取る」という字面は少しニュアンスが強すぎるし、この掴み取るものだという感覚が自分は幸せでないという、謎の自責思考を募らせることにもなるような気がする。

行為は幸せと関連することがあると思う。
特に意識的で自分でコントロールできているような行為は。
そう言った行為に対して、行為を行っている自分と、周囲の状況とかを合わせた時に発生する感情とか、行為自体への快不快とか、そんなことが色々と合わさっていくと、やっていることが意味を持ってくる。
これやってるんだよなぁ俺。これやりまくっちゃってるんだよなぁ。と社会的に説明もできるようにもなる。
なんだろうなぁこれ、気持ちいいなぁとも思うだろうし、風涼しい!最高!となるだろうし、このあと飯は近くのステーキハウスいっちゃおう最高!となるだろうし、なんかよくわかんないけど関わってくれてる人みんな最高!友達に電話しちゃおう!ってなってしまうのだ。
これが基本的な自分を肯定してあげる幸せとは別の応用的幸せと僕が読んでいるものの幸せの正体なんじゃないかと少し思う。
過去の幸せの議論については以下に書いたあったみたいだ。

応用的幸せについて僕が目算しているところは、こういったなんか気持ちいい、なんか気持ちいい、なんか最高、が積み重なった時に起こる多幸感とそこにいる自分への肯定的な認識ではないかと思う。
多幸感だけではなくて肯定的に自分を認識することがとても大事で、そうではないとあなたは幸せですかと問われた時に、はい幸せですとは言えない。
周囲の環境を肯定的に捉えることというのは必ずしも一般的な幸せの概念に含まれないかもしれないけど、僕の中の幸せのイメージは、「なんかもうみんな最高、みんな頑張れ、みんな幸せになっちゃえよ!」と心から言える社会である。
周囲に死屍累々の山があってそこで目を塞いで鼻も塞いで幸せですかと聞かれて、笑顔で幸せです!と言ったところで、鼻栓を抜いて目を塞いでいる手を取り除かれれば、「うーん」となるに決まっているのだ。
ただ死屍累々をよしとする人なら、その環境を見て、最高すぎると思うかもしれない。
そう言った人は、環境認識も自己認識も最高であり、気持ちもなんだか気持ちがいいという状況なのだ。

この時なんとなく思うのは、環境認識はお金をかければ向上させることができると思うし、人を選べばそこも変えられて別に何もせずベットで寝ていれば向上してく一方で、自己認識ってある程度行為を伴うのではないかと思う。
自分が何をしている人間で何を頑張っっていて、どんな能力を持っているとかそんなことを自己認識していく時に、行動として自己有能感が伴っているような、思考作業は自己認識を肯定的にするのにとても役に立つかもしれない。

だから、僕は勉強をしながら思考をしていて、そこに鈴虫と涼しい風が入ってきた時に、最高すぎる環境だと心を躍らせたのかもしれない。

ここで注意したいのは、自分は今こういう文章を作っている時にそれを感じないということだ。
やらないといけないことであるような勉強をしている自分に気持ちよくなっていた。
やらないといけないものに従事させられていてそれを我慢している自分みたいな自己認識が好きな人間なのだろうか。

僕はこの文章をどういうつもりで書いているかにもよると思う。
本当に、飯を食うようにこの文章を書いているから、ある意味で逃げの判断ではあるのだ。
ほとんどのことを忘れるのだけど、ここで書いたことがすごく後で参考になったり、ここで思いついた論理をそのまま自分が生きていく中で採用することもあるので、まぁいいかなとも思う。
単純に、文章って書いてもあんまり成長がわかりにくいというものあるかもしれない。
でも文章って思いついた時に書くものだからなぁとも思う。
そこはこんだけ書く以上は文章にもうちょっと真剣に向き合ったらもうちょっとなんかあるかもしれない。

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