『徳と政治 − 徳倫理と政治哲学の接点 −』

ずいぶん前に読み始めていた本だけど、長らく中断していました。再開です。

第4章まで読み進めました。第4章は、社会契約論と徳というタイトル。

社会契約論とは自立した諸個人が契約を結び社会を成しているという説。近世、近代の政治理論の軸です。
ホッブス、ロック、ルソーといった思想家によって提示された理論です。それぞれ契約が必要だとする根拠や契約によりなされた社会の像には違いがあります。

ただ、大元に〈自立した諸個人〉を共通に想定しています。まあ、現実とは離れている仮想というか、そんなのですけど。

一方では、古代ギリシア、古代中国、ヨーロッパ中世キリスト教世界において、社会の基礎は徳にありました。コミュニティ(共同体)を存続させるには、「個人にとっての善」ではなくて、それらに共通する善(共通善)が追求されなくてはならないとされていました。共通善の基礎は賢明さ、勇敢さ、節制、正義などといった個人の資質(=徳)に求められます。

さて、もろもろの社会契約論における徳や共通善とはなんでしょうか?

ホッブスに関しては、社会契約によって新しい強力な国家を成して、万人の自然状態たる戦争状態を克服するという主張が強いですから、そこに個人の資質や共通善の追求に大きな役割はありません。

ロックは、社会的なつながりが希薄な個人主義から如何に共通善を追求するコミュニティを再建できるかを論じました。所有権が原因となる私有財産の不平等、それによって発生する争いは、堕落した人間の腐敗であり邪悪なものである。
それをうまく治めるために必要なのが、個人の自由と権利の尊重です。それこそがコミュニティの共通善であるとしました。この実現は政治の目的なのだということです。

ルソーは、万人の万人に対する戦争というホッブス流の自然状態を完全否定します。ルソーが言うには人間はもともと他者への憐みの感情を持っているとのことです。ルソーはそれを自然状態としました。しかしながら、文明化の進展により貧富の差や争いが発生し、ついで戦争状態に陥ります。この戦争状態こそ、ホッブスの言う自然状態に近いと思われます。こうして争う人間たちが共通善を追求するコミュニティを作り上げるためには、ルソーは、偉大な立法者による「建国」、すなわち革命が必要であり、また教育によって社会的感情を育んでいく必要があるとします。

ルソーの有名な民主主義の原理である「一般意志」とはまさに共通善の追求によってもたらされます。〈共通すること〉(=普遍)という絆をもつ社会でなければ、十分な討議や決定をすることができず、個人の利害を超えて社会全体が少数者の権利を擁護したりすることなども叶わないのです。

このように、近代政治理論においても、徳や共通善が重要視されています。

しかしながら、テキスト本文に「個人の自由追求だけが個人の道徳であり、そのような個人によって社会が形成されることが正しいと主張し、政治において政治的徳や共通善の追求を否定するような政治理論は本来奇妙なものであるはずなのに、なぜか現在の日本の政治学ではそのような理論が主流になっている」とあるように、非常におかしなことになっている。
このことは、戦後の政治学における所謂リベラル(進歩的知識人)の間でも起きていて、彼らからも共通善や徳などの要素は無視されてきた傾向があるとのことです。

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