あの時父はどう判断したのかな?マカピーの日々 #1132
マカピーです。
マレーシアで仕事を開始したのですが迷う事もあります。
マカピー父は既に鬼籍に入ってしまっていますが、今頃になって父の事をマレーシアで思い出すのでした。
それは父が事業を展開する時の判断はどうだったのかって事です!
父は農家の7人兄弟の末子(ばっし)だったこともあって、マカピー母のもとに婿入りしたのです。
マカピー母は3人姉妹の長女でしたので「跡取り」になった訳ですが、マカピー祖父も80歳半ばまで健在だったのでなかなか彼の時代が来なかったとは知っていました。
祖父は村長にこそならなかったのですが、退役軍人(ビルマ戦線から復員した将校)でもあり農協の組合長や村議会議長など村内で知らない人がいなかった指導者的存在だったこともあり、養子で来た父にとっては頭が上がらない存在であったのかも知れません。
協力隊から帰って来たマカピーが、「玉の輿」を狙って先輩を頼って自分で九州の婿養子の話を進めようとした折に「養子とはお前が考える程甘いもんじゃないぞ」と忠告したのは彼自身の経験がそういわせたのかも知れません。
それでも祖父の村長選で没落しかけた家を再興させたのは、とりもなおさず父の才覚があったと思います。
養蚕農家であっても、技術革新を率先して進めていたのでその取り組みが新聞記事になった事もありますし、地域で各種の農業機械化も乗用車の導入を計ったのは父でした。
祖父は戦略家で父は実務タイプだったのかも知れません。
父は家業である養蚕から養鶏(採卵鶏)への大転換を図りつつ、土地を買い求めキウイフルーツ栽培なども手掛けたのです。
父の直ぐ上の兄(マカピー伯父)がやはり同じ村内に婿養子に来ていて彼がいろいろ教えてくれたのを着実に事業化したのだと思います。
その節目節目で、マカピー父はどんな判断をしたのかなあ?
自分が事業を開始して初めて、父に尋ねて見たくなったのです。
もちろんそれは叶わないことなのですが、まだ母がいます。
妻の立場を通して、父の判断はどんな風に見ていたのでしょうか?
もちろん父の代弁者になる事は出来ないとは思いますが、当時の様子を知るキッカケにならないかなあって考えたのです。
マカピー母は10日ほど前に施設に入ったとはいえ、過去の事をよく覚えているので、その事を聞いてみたいと思うのでした。
明日にでも、ここコタキナバルから電話して聞いてみよう!
マカピーでした。
最後までお読みいただき感謝します。母の気持ちも晴れるかな?
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