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酒飲みの空間

花を越え
嵐も越えて
行く酒徒多し
古今東西
いまだかなわぬ
夢と幻


「愉しさ発見」(1986年作品)より

 居酒屋は、酒飲みにとって一番気楽に酒が愉しめる。気取った、まずかった、高かったの三拍子揃った老舗の料亭。札束を口にするようなバカ高い鯧屋。無愛想な顔に作り笑いのひきつりを見て飲む、クラブ。
 こんな店に入った後の酒徒のこころは、いかばかりか。口直しとばかり、二軒、三軒、あちこち居酒屋を回り、結果、慙愧にたえないことになる。
 ほんわか、ゆったり、のんびり飲める居酒屋。薄暗い、細い露路を手さぐりで行くと、すり切れた縄のれんの影から、ボーッと灯りがもれる。中に入ると船底のように薄暗く、歴史を感じさせるしみが壁のあちこちを色付けている。
 あちこち回って、酔って船底にたどりつくと、カウンターの中は、ほとんど酒と友達になった、女将が、花も嵐もふみ越えて、大声、大歌、大気炎。カウンターの外は酒徒、多士済々。             
 泪をいっぱい溜めたギョロ眼で相手を吸い込むように見つめながら話し飲む人。いつまでたっても、二十代で通る五十代の青年が女将とともに大声で、「花も嵐もふみ越え」る。横には、ゲゲゲの鬼太郎のような顔を少しうつむきかげんに、静かに飲む三十代。童女のような笑顔が忘れ難い人。殿と呼ばれる立派な鼻の六十代。
 たどり付いたが百年目。皆んなで大宴、大飲、大咆哮。懐かしの ハモニカを中心に、青い山脈ふみ越えて、花も嵐もふみ越えて、露地口の大家の漬物屋のオッチャンの小言もふみ越えて、自分の酒もいつしか越え、十二時、一時を越える。
 こんな飲み屋に出合えるのは、人生のうちでも、数軒あれば幸せか。なかなか無い。酒徒が求める、酒徒の空間は、下戸の人には、理解の限度を越える部分に、こだわりがある。食べものが旨いだけでも無く、安いだけでも無く、可愛いおんなのこだけでも無く、有名無名だけでも無く、良い酒だけでも無い。何にか、混沌無常の空間に向って探検するがごとし。

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