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このnoteを書きはじめてから、「書く」ということが、自分にとって大切な一部になっている。

正確にいうと、「書く」というよりも、「言葉」が大切な一部になっているのかもしれない。

時々寝落ちしてしまうこともあるけれど、「毎日書く」ということを決めていると、よる眠る前に自分の中に「言葉」を探すようになる。

自分の中で考えたような思考の跡、明確に伝えたいことがあるときは、その「言葉」は順序を持ってすらすらと指先に落とし込まれていく。

でも、そんな風に「言葉」はなくて、ただその日、自分の中に「刻まれた感触」だけが残っている時もあって、そんな時はどうやってその「感触」を「言葉」にしようかと思う。

耳に残っている音楽、肌で感じた風、心をきゅっと動かしていったような気持ち。

「毎日書く」ことを決めていなかったら、きっと「言葉」にしようとはせずに、そのままにしてしまっているものを、何とか「言葉」にする。

その訓練を繰り返すうちに、「書く」にも色んなリズムや、感覚や、輪郭があるのだな、とわかってきた。

伝えたいことがあるときは、誰かを思い浮かべながら、まるで手紙を書くかのように。

ただ記したい、かたちにしたい感触がある時は、ふわっとやってくる「言葉」のきっかけを逃さないように。
自分の心に耳を澄ませながら、まるで日記を書くかのように。

そして、それは、まるで歌うかのように。

わたしたちは、たくさんのことを学んで、上手になるうちに、「書く」ことに型を求めるようになっているかもしれない。

「書く」ことでもっと自由になれたら、表現することを慈しめたら、「言葉」はわたしたちを縛るものじゃなくて、大きくひらくものになるのかもしれない。

いちばんそばにありながら、使いこなすのがとても難しい道具。


「言葉」を大切にするとある作品を見て、そんなことを考えていた。



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