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パフォーマンス・音楽・アートの扉_culture

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身体という物質性、知覚の直接性に興味があります。 目と耳、そして皮膚感覚。 それら刺激に満ちた世界。
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#演劇批評

【演劇評】 《あいちトリエンナーレ2019》ドラ・ガルシア〈レクチャーパフォーマンス『ロミオ』〉、ミロ・ラウ(IIPM)+CAMPO『5つのやさしい小品』について

《あいちトリエンナーレ2019》(以下《あいトリ》と略す) 《あいトリ》は2019年で幕を閉じ、2022年から名称を《国際芸術祭『あいち2022』》に変更され、新監督に片岡真美が就任。新生の芸術祭としてスタートを切ることになった。 《あいトリ》最後の開催となった2019年《パフォーミングアーツ『情の時代』》。 演劇祭として不幸な幕となった2019年であった。政治的圧力、右翼からの襲撃と脅迫、それに同調するかのような右派政治家の発言、世論の不穏な動き等々、記憶に留めておくべ

【演劇評】 ドイツのパフォーマンス集団 She She Pop『春の祭典 She She Popとその母親たちによる』 〈儀式〉により母と子の相克は救済されるのか

まずはパフォーマンス集団〈She She Pop〉を外観しておこう。 1990年代にギーセン大学応用演劇科専攻の卒業生によって結成されたドイツのパフォーマンス集団。 演出家、脚本家、俳優といった役割をあえておかず、創作は常にメンバー共同で行うスタイルをとる。メンバーのほとんどが女性で、メンバー相互のキャッチボールによる「動」としての集団創作というコレクティブワークを主体としている。 そこにあるのは、一人称で語ることの限界・不可能性から脱却した、複数で語ることのセクシーさと

【演劇評】 マームとジプシー『カタチノチガウ』。小学校の講堂というハレとケの場にて

2016年8月6日。京都市の高瀬川沿い木屋町にある元・立誠小学校の講堂を会場に、マームとジプシー『カタチノチガウ 』が行われた。以下はその公演のレビューです。 音楽集団タージ・マハル旅行団の中心メンバーだった小杉武久が、「ピクニックの場が(遠足といった)教育の場になるのなら、教育の場がピクニックの場になってもいい」といった主旨のことを述べたことがある(月刊誌『音楽芸術』)。 なるほど、思考の視点をずらすことで、いつもの日常を、これまでとは違った日常に変えることができる。今

【エッセイ】 岡田利規『部屋に流れる時間の旅』テクストとして読む

『部屋に流れる時間の旅』(新潮2016.4月号に掲載)はKYOTO EXPERIMENT 2016で上演された岡田利規の戯曲。 友人に紹介されて読むことにした。 舞台を観たくもあったのだが、台南にいた時期と重なり、観ることができなかった。 KYOTO EXPERIMENTのウェブには次のように紹介されている。 「前作の『地面と床』では、日本独自に洗練を遂げてきた能楽をも参照しながら、生者と幽霊が行き交う世界が構築されたが、今回はさらに踏み入って、〝死者に対する生者の羨望〟が