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パフォーマンス・音楽・アートの扉_culture

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身体という物質性、知覚の直接性に興味があります。 目と耳、そして皮膚感覚。 それら刺激に満ちた世界。
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2020年12月の記事一覧

【演劇評】 マームとジプシー『カタチノチガウ』。小学校の講堂というハレとケの場にて

2016年8月6日。京都市の高瀬川沿い木屋町にある元・立誠小学校の講堂を会場に、マームとジプシー『カタチノチガウ 』が行われた。以下はその公演のレビューです。 音楽集団タージ・マハル旅行団の中心メンバーだった小杉武久が、「ピクニックの場が(遠足といった)教育の場になるのなら、教育の場がピクニックの場になってもいい」といった主旨のことを述べたことがある(月刊誌『音楽芸術』)。 なるほど、思考の視点をずらすことで、いつもの日常を、これまでとは違った日常に変えることができる。今

【パフォーマンス評】 マルセロ・エヴェリオン/デモリッションInc『突然どこもかしこも黒山の人だかりとなる』

演ずるとは、ある種のペルソナを自身が纏うということだ。 ペルソナを纏うことにより、それを見る者に、何らかの誘引作用を引き起こす作業のことである。 ところが、演ずる者がペルソナを欠く(あるいは封印した)としたら、事態はどのようになるのか。それは、「見るとは何か」、という問いを、わたしたちに投げかけることでもある。 京都芸術センターで開催されたマルセロ・エヴェリオン/デモリッションInc『突然どこもかしこも黒山の人だかりとなる』KYOTO EXPERIMENT 2013(原題:

【エッセイ】 岡田利規『部屋に流れる時間の旅』テクストとして読む

『部屋に流れる時間の旅』(新潮2016.4月号に掲載)はKYOTO EXPERIMENT 2016で上演された岡田利規の戯曲。 友人に紹介されて読むことにした。 舞台を観たくもあったのだが、台南にいた時期と重なり、観ることができなかった。 KYOTO EXPERIMENTのウェブには次のように紹介されている。 「前作の『地面と床』では、日本独自に洗練を遂げてきた能楽をも参照しながら、生者と幽霊が行き交う世界が構築されたが、今回はさらに踏み入って、〝死者に対する生者の羨望〟が

【美術評】 エリプシス|フィオナ・タン『リンネの花時計Linnaeus’ Flower Clock』を想う(金沢21世紀美術館)

花の時間は朝5時に始まり午後6時に終る。 花の明確な時間の流れと記憶。 花は忘却することがあるのだろうか。花は未来を想うことがあるのだろうか。そして過去を想うことも。 花はなにを憶えているのだろうか。 花は30年後もいまの自分を憶えているだろうか。そして30年後も憶えているであろう自分を思い浮かべることはあるのだろうか。 記憶と忘却は〈対義語=二項対立〉なのではないのではないだろうか。 世界は記憶と忘却との織物のようなものであり、記憶と忘却は時間の地形図のように幾重にも