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人生最大のウソ

母の卵巣癌が見つかってから、ほどなくして最初の手術が行われた。

卵巣に住み着いた悪いものを全部取ってくれる。長丁場になるけど私も父も姉も、そして母自身もこの手術で癌が取り除かれるもんだと思っていた。

手術室へ向かう母を3人で見送り、これを乗り越えればきっとうまくいく。心配性な父が暗くなりすぎないように私は努めて普段通りの感じで待っていた。医者の説明では7.8時間かかると聞いていたので気長に待っていたが3時間程で突然、寝台に乗せられた母が戻ってきた。

"早くない?" 3人で不安になりつつも、きっと予定より早く終わっただけだ、と思っていた。

母がまだ麻酔から覚める前に医師からの説明を受けた。医者は卵巣に張り付いた癌が思ったより複雑にくっついていた事、そして腹膜播種といってお腹全体に小さな癌細胞が散らばっていた事、卵巣は摘出したけど癌は全て取りきれなかった事、そしてステージは3だと説明した。

目の前に置かれた腫瘍を見ながら、そして説明している目の前で話している女医さんに対して怒りが湧いてきた。女医さんはもちろん懸命に手を尽くしてくれたのは分かっているけど、やり場のない悔しさや空しさが込み上げてきて"どうして治せないんだ"と思っていた。

あの時の私はそんなイライラを態度で出してしまっていたと思う。姉は真剣に話を聞きながら色々質問していて父は何も言わず黙っていた。

手術室へ向かう前、母は私達に「手術なんてした事ないから怖いけど、これで癌を全部取ってくれるんだから頑張るわ!」と意気込んでいたので説明の後は3人でなんとも言えない空気に包まれた。

"麻酔から覚めた母に何て言おう?"

そんな事を考えただけで涙が出てきた。

麻酔から覚めるにはまだ時間がかかりそうだったので、ひとまずお昼も食べていなかった私達は近くのファミレスへ向かった。

ファミレスへ向かう途中も車の中で父は「困ったな〜」と何度も呟いていた。

ファミレスのテーブル席に着いても父は「食欲がない、こんな気持ちじゃ食べる気しない」と言ったけど姉が父のためにサイドメニューを頼み、私もあまり食欲がなかったのでフレンチフライだけ頼んだ。

店内は賑やかで"あぁ、まだ子供達は夏休みか"と気付いた。注文を待つ間も3人共ほぼ無言だった。他のテーブル客とのあまりの温度差が余計悲しく思えた。無言だったけどお互い痛いほど考えている事は同じで痛いほど気持ちが分かった。

父を見るとずっと目にうっすら涙を溜めているような状態で私も何か言葉を発すると泣きそうだったので黙っていた。

お母さんの癌が思っていたより酷い状態だなんて想像もしていなかった。

そんなに悪いだなんて思ってなかった。

運ばれた食事を少しずつ食べながら姉が「後でお母さんに何て言おうかね…本人は今日の手術で良くなったと思っているよね」と言ったら、父が「言わなくて良い、だって…可哀想じゃない」と言って泣きそうな顔をしていた。

私も「うん、言わない方が良い。がっかりしちゃうだろうから。とりあえず今は無事に取れたよ!って言おう」姉も「そうだね」と言って3人で病室に戻った。

病室に戻ると母が目を覚ましていて「何?手術早かったよね。ずいぶん早いよね。何かダメだったの?」と聞いてきたので「全部取れちゃったよ。もう癌はないよ」と努めて明るい声で言った。

少しホッとした顔で「あ〜、それなら良かった」と言った母。

お母さん、あの時は3人して嘘ついてごめんね。

私がお母さんについた最大の嘘だったと思う。

癌と言う病気が心底憎くてしかたなかったよ。私のお母さんに何してくれてんだよ。


母が結局その手術で癌が取りきれなかった事や思っていたより進行している事を知るのは退院する少し前の事。

今後の治療方針を主治医と話した時だった。結局私達家族からは言えないままだったので先生から説明の時に言ってもらう事にしたのだ。

主治医が手術で癌の塊すべて取り除けなかった事やお腹にも広がっている事、ステージ3である事、治療しなければ余命は1年ほど、と伝えた。

そして母のケースにうまく対応している有名な病院での手術やそこで治療していく事を勧められた。母は聞きながら私達に「え、取れてなかったの?」と言い主治医の話を頷きながら聞いていた。

主治医が席を外した時「なんだ、ガッカリしちゃったな。取れて自分の体にもう癌はないと思ってたけどそんなに進行してたんだね」と言った。

私が覚えている限りのこういった母との全てのシーンで後悔しているのは、もっと優しくしてあげるべきだったって事!!

暗くどんより空気になるのが苦手な私はこの時も「大丈夫だよ、次の病院で手術すれば取れるよ」といつもの調子で少しぶっきらぼうに、まるで大した事なんかないみたいに言った。

死んでほしくない。死なれたら困る。悲しい。だから一緒に頑張ろう。みんなで協力して支えるから。

何故そう言えなかったのか。

でもとにかく次の病院に賭けるしかない。夜眠る時。こんな時だけ口にするのは間違っているかもしれないけどそれでも口に出た。

「神様、どうかお願いします。お母さんの癌が治りますように」

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