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適度に生意気で不純な、ある女

鴻巣麻里香さんの記事を読んだ。

あまりにも自分の話だった。ありありと思い出した。20代の頃、男社会の中で女としてわきまえることや適度に生意気であることは、私にとって処世術でもあった。あげくそれが良い女の条件だと心底信じていた。恥ずかし過ぎて身が縮む。と同時に気づいたことがある。いや、当時の未熟ぶりぜんぶがいたたまれないのだけど、とりわけ「適度に生意気だった」自分に対して、ちょっとごちゃっとした感情がわくのだ。落胆、哀しさ、痛み、情けなさ、諦め。あと同情も。

「小生意気な若い女」というポジションは、思えばものすごく名誉男性的だ。対等を装いながら根本的にはごりごりに従順だ。男に「女には敵わないよ」とかなんとか言う口実を与える役回りだ。「女を自由にふるまわせている」男は”懐が深い”し”余裕がある”。「人権意識のアプデできてる感」がある。外側からそう見えるだけじゃなく、たぶん内側からもそのつもりになって満足できる。その辺りの機微を小生意気な若い女は知っている。度が過ぎると、あっという間にそしりを受けるのも知っている。だから適度に生意気ぶる。男が喜ぶからだ。それで場が和むからだ。主語デカめでアレだけど、少なくとも私はそうだった。そういうコミュニティにいた。間違いなく。

だけどこれ、当時はほとんど無自覚だった。というか、いい感じにうまくやれてると思っていた。そうやって”うまくやる”ことが、真綿となって自分の首を絞めているとは思いもよらなかった。媚びてないつもりが、めちゃんこ媚びてたし、男性のある種の”擬態”を率先して手助けしてたんだと思ったら、もう全女性に向かって全力で土下座したい気持ちになる。もうほんと。申し訳ない。

とはいえ記事にもあったが、その愚直なケア精神は典型的母娘関係の産物でもあって。その点、自分に同情の気持ちもわく。そうやって生きてきたんだものな。家族というコミュニティの中で、母親のメンタルケアを一身に背負ってきたんだ。そりゃもう骨の髄まで染み付いているさ。そういや、更年期の不調だったかで母が寝込んだとき、私が家事やら看病やらを任されて、それで珍しく感謝されたんだ。「女の子を産んどいて良かったわ」って。当時は「そうでしょそうでしょ」などとちょっとドヤったものだけど、よく考えたらぜんぜん喜ぶところじゃなかったよな。なんか、かわいそうだわ、私も、母も。

そんなこんなのままならなさが、パニック症の引き金になったのかは分からない。だけど、がんばることにいつもひとかけらのやましさと虚しさがあって、その不純が粛々と存在感を増していったような感覚はある。それはやっぱり名もなきストレスだったかもしれない。だって神経使うよ、ぎりぎりのラインで生意気にふるまうのは。なんせ悲壮感を出しちゃ、男も母も立てられないのだから。そりゃもう脳みそフル回転よ。

当時の私、おつかれさまだ。
この先、誰かを立てるためだけにがんばることはやめにしたい。そして私自身が誰かに立てられなくていいように、ほどよく謙虚でありたい。誰かのがんばりにも空虚があるかもしれないことに、できるだけ敏感でありたい。そんなことを改めて噛みしめる。ありがたい記事だった。(おわり)

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