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強者の理論

ってありますやん。ものすごくありますやん。それってわりかし善意とか配慮とかでコーティングされがちですやん。だからよほど問題意識持ってないと、息をするように振りかざしがちですやん。

こないだ、とある原作付きの映画で主演女優が監督にインティマシーコーディネーターを入れてくれと言ったのに却下されたらしい記事を見た。却下の理由にドン引いた。「間に人を入れたくなかった」「でも理解しあいたかったので、女性として傷つく部分があったらすぐに言ってほしいとお願いした」「女優さんがしっくり来ていない時は目で分かるし、しっくり来ている時はちゃんと表現されていた」などなど。ひー。なお、SNSではばっちり燃えている。というかその炎上経由で私もこの話を知ったわけだけども。

しかし監督サイドがちゃんと配慮しているつもりでいるのが、まさに強者ムーブだ。すぐ言ってくれっつったって、そもそもインティマシーコーディネーター入れてくれって言ったら却下したじゃーん。双方の問題意識にギャップがあると、どうしたって権威側が優位になるから専門家を挟むわけじゃーん。目で分かるって、分かるわけねーじゃーん。簡単に分かったつもりになれるのなんでなーん。

つい最近も身近で強者の理論を目の当たりにした。それで、すごく自戒の念を刺激された。その流れで前述の炎上を見かけて、いろいろ点が線で繋がった感じがしたのだ。自分の中で。

立場によって視野は変わる。その自覚がなければ、見えない部分は”存在しない”ものに等しい。だから視野を移すという発想にすら至らない。それが”強者”となれば、無自覚の力で”弱者”を弱者のままにしつづけることになる。私自身も当然強者の側面はあるわけで、ついうっかり強者ムーブをかましてしまうことはあるはずだ。めいっぱい自覚して気をつけねばならない。

「こういう時にはそうするのが当然だ」という、ごく当たり前に思える思考が、死角をはらんでいることに思いを馳せられればいい。世間的に当然だとされることが、あらゆる人に当てはまるわけではない。一方的な”当然”を前提にする時点で十分にクローズドなのだ。クローズドの内側では、当然が当然でない状況に気づけないままなのだ。そのことにアンテナを張り続けられればいい。改めてそんなことを思った。

そんな類の議論めいたやりとりをしている時、ふと穂高先生への花束贈呈をキャンセルして激昂した寅ちゃん(とらつば)の姿が浮かんだ。いっちょまえに寅ちゃんになったみたいな気分だった。実際には論点がズレていくのを軌道修正できなかったし、すごーく浅はかに気を遣って低姿勢ムーブを付け加えたりして、結果的にカッコ悪く着地したのだけど。

あ、今ふと思い出した。以前とある疾患で内視鏡手術をすることになって仕事を1ヶ月休んだりしたのだけど、復帰のときに先ぱいに言われたのだ。「調子が悪いときにはすぐ言わないと気づいてもらえないからね?」と。心配している体だけど、結局は「なんで言わなかった? もっと早く言いなよ」を変換しただけだ。「あん?」と思ったが、へらへらと笑っておいた。実際はむしろ職場で調子を崩して早退してからの翌日緊急手術だったので、限りなく”すぐ言った”んだけど、しかしもしすぐ言わなかったとしても責められるいわれはねー。

いろいろ思い出して、ますます身が引き締まる。ありがちだよな。私も強者センサー敏感にしておかねばだ。気をつけよう。すごく。(おわり)

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