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祖母と母と娘のスパイラル

先日、友人とこんな話をした。TVの人生相談の話だ。祖母の介護を一身に背負わされて、がっちがちに家に縛り付けられて、生きるための判断力や知恵や余裕をすっかり奪われた女性Aがいて、Aさんの母親はAさんに「自分の好きなように生きていいのよ」と言っているらしいが何もしない。何もしない理由は「祖母に嫌われているから」「祖母が自身の介護をAにしか任せたがらないから」。

私が実際にそのTV番組を見たわけじゃないから、話の輪郭をなぞった程度の理解なのだけど、まず祖母が禍々しい。そして母親もまた毒々しい。彼女らが実の親娘なのか義理の関係なのか知らないけど、似たもの同士なのは間違いない。だからこそ嫌いなんだろね、お互いに。同族嫌悪。

とりわけ「自分の好きなように生きていいのよ」などとうそぶいて、とっとと「はい、私は言ったよ、私は縛り付けてないよ、言ったのに好きに生きないのはあんたよ、あんたの選択よ」のポジションに収まっている母親よ。娘に罪悪感を植え付け、自身は罪悪感から逃げて、徹底的に責任を転嫁しているくせに、いけしゃあしゃあと”優しい母親”をやっている。こざかしい。しゃらくせー。

憎らしいことに、この母親の作戦は首尾よく成功している。Aさんは「自分には自立する力がないから、この生活にしがみついてしまっている」と考えている。家を離れられずにいるのは、自分の至らなさのせいだと思っている。まったくもって母親のコントロール下にある。母娘問題の教科書があったらメインに載ってそうな話だ。いたたまれない。本当に悲しい。くやしい。なんだか自分事のように思えて感情がざわついてしまう。Aさんがカウンセリングに繋がれたらいいのになあ。いや、Aさんだけじゃなく、関係者全員適切な治療を受けられたらいいのに。はがゆい。悲しい。

どう考えてもこの祖母も母親も邪悪だと私は思う。祖母と母親がこうなるに至った負の連鎖的な側面にも想像力は働くが、いったんそれは置いておく。現時点でAさんはコントロールされている。スパイラルに引きずり込んだのは、間違いなく母親だ。だけど、一緒にこの話をしていた友人には、私が辛辣に映ったらしい。友人はこの母親について「祖母に嫌われているのだから介護できないのはしょうがない、娘に優しいことを言うだけまだマシ」だと感じたそうだ。ちょっと豆鉄砲をくらった気分だった。Twitter(X)の心理界隈なら私の感想が圧倒的にメジャーだと思うのに、そうか、そう感じる人もいるのか。ツイッタランドと世論のギャップを目の当たりにした気分。

この母親の言葉はたしかに優しいかもしれない。だけど真の意味での優しさはまるで内包していない。むしろ逆だ。自身が祖母から拒絶されているにしても、それは祖母を娘に押しつけていい理由には決してならない。「自分にはどうすることもできない」を「だからあなたがどうにかしなきゃいけない」にすり替えているに過ぎない。もとより祖母を娘に押しつければどうなるかなんて、祖母をよく知る母親だからこそありありと見えていたはずだ。それでも娘を引きずり込んだのだ。これが悪意からでなくてなんなのか、と思う。自分の人生を娘に追体験させて、あわよくば同情を買いたかったようにも思える。娘を解放する覚悟がないのだ。そういうふうにしか私には見えない。

すごく客観的に眺めると、もう介護施設や訪問介護に頼ればよいのではないかと思うけど、もろもろの事情がよく分からないのでなんとも言えない。ともあれ、Aさんは怒っていいと思う。母親にも、祖母にも。理不尽だもの。ふつーに。その”当たり前”の感情を、然るべき相手に”当たり前”に向けられるのが、健全なバウンダリーのありようだと思う。「相手も辛い立場だろうから」とか「私にも悪いところはあるから」などと思わせて結果的に口を塞ぐというのは、操作的だ、シンプルに。でもこういう不健康な”配慮”で成り立っている関係性って、決して少なくはないとも思う。ちょっと日本の文化みたいなとこもたぶんある。だから、友人が抱いた感想がまだまだメジャーなのかもしれない。

んで思った。このスパイラルが最悪の結末を向かえるとしたら、例えばAさんが「私が無力なばかりにごめんなさい」「迷惑ばかりかけて本当にごめんなさい」という言葉で口を塞いで、”次のAさん”に役割をバトンタッチするか、あるいはこのスパイラルを自身で断ち切らねばと最後の最後まですべてを背負い続けるか。あげく祖母と母がこの世を去った後に、自身の人生を振り返って強烈な後悔に駆られたりして。そんな想像をしてしまった。辛い。悲しい。あー、みんなが適切な機関に繋がれたらいい。つくづく思う。(おわり)

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