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短編小説 「マーモットになりたかった男」

 ある日の早朝、1人の男が険しい山道を深刻な面持ちで登っていた。この男は人間社会に嫌気がさし、1人山の中で生活する決意をしたのである。この男の名は星雲。至極真面目な性格で働き者であった。朝は早くから新聞配達をし、昼にはペンキ職人として働いていた。一度足りとも仕事を休んだり遅れたりしたことはない。ただ欠点があるとすれば、人との関わりが苦手であった。産まれた時から孤児院に預けられた星雲は、16歳の時に孤児院を飛び出し、住込みで新聞配達を始めた。名は星雲としか分からなかったが、自分ではこの名前が気に入っていた。父も母の顔も知らぬが、きっと星が輝く夜空に柔らかな雲が泳ぐそんな日に産まれたのであろうことを想像した。きっと何か経済的事情から孤児院に預ける他仕方なかったのであろう。星のように輝き雲のように流れるように生きていけば良い。そのように思わせてくれた両親に感謝していたのである。ところがある日、同じ新聞配達の仲間から星雲という名をからかわれた。星雲は激昂して30部ずつ束ねてあった新聞の束の一つを勢いよくその男目掛けて投げつけたのである。
運よくその男には当たらなかったが、それ以来、星雲に話しかける者はいなくなった。星雲が配達から戻ると賑やかで笑い声が聞こえていた作業場が静まりかえった。この噂はたちまち町に広まった。快活なペンキ屋の主人さえ星雲によそよそしくなり、ある日、星雲にこう告げた。「近ごろペンキの依頼がめっぽう減っちまった。あんたはえれぇ働きもんで頑張っちゃぁくれとったんだけどなぁ、まぁ言いにくいんじゃが」とここまで話を聞いて、星雲は、「こちらこそ、身寄りも学もない私を長年使おうてもろおうて感謝しとります。お世話になりました」と述べてペンキ屋の主人の元を去った。その足でまっすぐ新聞屋の作業場に行き、みんなに別れの挨拶をした。作業場のみんなは呆気に取られていたが、誰も止める者はいなかった。新聞屋の2階にある小さな畳の部屋に置いてある荷物を風呂敷にまとめて、軽くお辞儀をして新聞屋を後にした。
星雲はしばらく当てもなく町をうろついた。日も暮れて飲み屋の明かりが灯りはじめた。人々の笑い声を聞きながら「はぁ、今夜はともかく宿で休もう」と小声で呟いて、古い軒の小さな宿を見つけてそこで休むことにした。生気のない老婆に2階の小さな部屋を案内されて間も無く、大の字に横になって窓の外に光る星を眺めた。はぁと溜め息を漏らし、己の未熟さを恥じた。「この先どうしたらええか...」しばらくして星雲は孤児院での孤独な日々を思い出していた。そんな時、老婆が茶を持って、星雲の部屋の襖を開けた。老婆は星雲には一瞥もせずそろりとその茶をちゃぶ台に置いた。星雲は思い切って、この老婆に話かけてみた。「婆さん、私は今日一切の仕事を辞めてきた。身寄りもない。この先どうしたらええか途方に暮れている」老婆はしばらくの間黙っていたが、「昔ここに泊まられた客人でな、なんともここから500キロほど離れた山の奥でマーモットという動物に会うたと言うとりました。そん人もあんたと同じで世の中に絶望してる様子でしたが、マーモットに出会って生きる希望が湧いたって言うとりました」星雲は興味深くこの話を聞いていた。「そうか、このまま死んでしもうても良いかと思うとったが、そのマーモットという動物とやらに会うてからでも遅うないかもしれんのう」と笑った。老婆は星雲の言葉を聞いて静かに下段に降りていった。
 星雲は、足の痛みに耐えながら山道を歩き続けていた。かれこれ3日も歩いたろうか。履き物はもうボロボロになっている。痛みに耐えかねもう駄目かと思ったその時、険しい山道の奥に草原が見えた。星雲はその草原まで足を引きずりながら歩いていきそのまま草原に倒れ込んでしまった。
 どれくらい時間が経ったろうか。しばらくして、キーッという鳴き声が聞こえてきた。星雲は驚いて飛び起きた。辺りは暗く静まりかえっている。ただ草原の草がそよぐ音が聞こえるばかりであった。しばらく一面に広がる草原を見つめていたが、その先の大きな石の上に何かの動物の形らしき物が見える。頭は丸く、全体的にずんぐりとして、腹はぽっこりと出ている。これはあの老婆が申していたマーモットという動物に違いない。星雲はこの機を逃してはならぬと思い、そのマーモットらしき者に向かって、「もし、あなたはマーモットではございませぬか。私は人間社会に疲れてしまいました。身寄りも学もございませぬが、私をあなたの弟子にしてくれませんか」と叫んだ。マーモットらしき者はしばらく黙っていたが、やがて星雲のことを見つめながらこう言った。「お主は見たところ人間とやらに見える。人間は欲深く、己の利益しか考えない身勝手な種であると聞いておる。しかし我々は違う。日が暮れると皆、土の中に身を隠し、日が上ると草原の雑草や木の実を食べるために土の穴から外に出る。万が一、鷹や鷲、狐などの天敵に出会おうたら、大きな声で叫ぶ。なぜ大きな声で叫ぶか分かるか。仲間に危険を知らせるためじゃ。我々はそうやって助け合いながら生活しておる。人間にそれができるか」星雲はしばらく考えて、「私は人間社会に絶望し、険しい山道を登ってまいりました。そして運よく貴方にお会いすることができました。ぜひ、私をお仲間に加えてください」と懇願した。しばらくしてマーモットらしき者は、「まずは土に穴を掘って寝床を作ってみるがよい」と言うと、星雲の目の前から姿を消した。日が昇ると、星雲は早速、適当な岩場を見つけてその下に穴を掘り始めた。小さな石を使って掘っている星雲の姿をマーモットらしき者の仲間が側で不思議そうに見つめていたが、やがて好みの草を求めてその場を去っていった。
朝早くから掘り始めて昼過ぎには、星雲1人が身を縮めるとちょうどすっぽりと収まる程度の大きさの巣穴が出来上がっていた。星雲は柔らかそうな草を集めて巣穴の中の地面に敷いた。早朝からの作業で疲れてしまったのか身体を丸く縮めて横になったまま眠ってしまった。起きた時には日が昇っており、巣穴の外に出てみると仲間が草を食べたり、数人集まって押し合いへし合いしていた。星雲も腹が減ったので、木の実を探しにしばらく歩いていた。自分では2本の足で歩いているつもりだったのだが、四つん這いになって進んでいることに気がついた。はじめは戸惑ったが、自分もだんだんマーモットらしき者の仲間になりつつあることを思うとわくわくした。その時、突然、ギーッという大きな鳴き声が聞こえた。草を食べている者、押し合いへし合いしている者達が一瞬ピタリと静止し、仲間の鳴き声のほうを確認すると、一斉に自分達の巣穴目がけて走り出した。星雲が空を見上げるとピーッという鳴き声とともに鷹が大きな羽を広げて舞い降りてくる様子が目に入った。「これは大変だっ」と星雲も他の仲間と一緒に自分の巣穴に向かって必死に走り出した。星雲は恐怖心こそあったが、これまで経験したことのない一体感を味わうことが出来て嬉しかった。その感情は悲壮な表情で逃げ惑う他の者達とは異なり、笑みさえ溢れていた。星雲は無事に自分の巣穴まで辿り着き巣穴の中に身を隠した。外からはピーッという鳴き声やギーッという鳴き声がこだましていたが、しばらくすると静寂が戻った。星雲が穴から出て外の様子を窺っていると、他の仲間も恐る恐る穴の中から顔を出し始めた。鷹はもうどこかに飛んで行ってしまったのだろう。星雲は穴から身を出し、他の仲間に向かって微笑んだ。仲間になれた証としての挨拶のつもりだった。しかしこの星雲の様子を見て怪訝な表情をしている者がいた。この者はたいそう聡明で仲間の間から頼りにされていた。敵から身を隠す巣穴と住居となる巣穴は分けた方が良いと提案したのもこの者である。この提案のおかげで度々身を隠していた巣穴を探りにくる狐から身を守り安心して眠ることができた。「こいつは巣穴を作ったり、木の実を食べたりと我々の世界に入り込んでいるが、見た目は我々とは明らかに違う。さっきも我々が鷹から逃げている時に、あいつは不敵な笑みを浮かべながら走っていた。何か企みがあるに違いない。このままあいつを仲間にしていれば、いつか我々の生態が脅かされる時が来る」聡明な者はこう考えた。そして何匹か集め会議を開いた。聡明な者が皆に向かって「今度、あいつが餌探しに出掛けた隙にあいつの巣穴を土で埋めてしまい、天敵が来た時に身を隠すことができないようにしてやろうと思うが、皆はどう思うか」と聞いた。皆はこの案に賛成した。しかし、この会議を奥で黙って聞いていた者は納得のいかぬ表情を浮かべていた。なぜならこの者は星雲から木の実を分けてもらったり、向こうに狐がいたから近づかないようにと教えてもらったことがあるからである。
 ある日のこと、星雲は朝早くからいつものように木の実を集めていた。仲間にも分けてやろうといつもより少し遠出をして珍しい木の実を多く集めていた。昼を過ぎた頃であろうか、突然遠くからギギーッという大きい鳴き声が聞こえてきた。空には鷹が翼を大きく広げて獲物を狙っている。他の仲間が一斉に巣穴に向かって走り出したのが見えた。星雲も自分の巣穴を目指し走り出した。いつもより遠くまで行ってしまったものだから、かなりの距離を走った。息も切れ切れでやっと到着した自分の巣穴を見て呆然とした。星雲の巣穴は土で埋められていたのである。「誰がこんなこと…」星雲は何が起こったのか分からず、しばらく土で埋められていた巣穴をじっと見つめていたが、後ろから、「早くっこっちですっ」と叫ぶ声が聞こえてきた。振り返ると快活そうな者が星雲をじっと見つめていた。星雲は促されてその者の後ろを走った。しばらく走ると巣穴が見えた。「あなたの体の大きさに合わせて穴を掘りました」星雲はたいそう驚いて、「君の巣穴じゃないのか」と尋ねた。快活そうな者は「それより今は身を隠す方が先ですっ」と星雲を巣穴に押し込んだ。転がるように巣穴に入ると、少し狭いが身を縮めるとすっぽりと収まった。快活そうな者も素早く狭い隙間に入ってきた。しばらく並んで身を潜めていたが、やがて外の様子が静かになると、星雲はゆっくり話し始めた。「さっき自分の巣穴に入ろうと思ったんじゃが、穴が土で埋められていた。誰かの仕業じゃろうか…」快活そうな者は話しにくそうにしていたが、「実は…」と会議での一部始終を星雲に話した。星雲は黙って聞いていたが、しばらくして「そうじゃ、助けてもろうたのにまだ名前を聞いてなかったなぁ、名はあるのか」と尋ねた。快活そうな者は少し驚いて、「名前というほどでもないですが、キッキと呼ばれています」と恥ずかしそうに答えた。星雲は、「私の名前は星雲と言うてな、ほら」と小さな巣穴から見える星を指差して「父も母の顔も知らぬがきっと星が光り、雲がゆっくり流れるような夜に生まれたんじゃと思うとる」と自分のことを話した。キッキは不思議そうな顔をして星雲を見つめていた。星雲は続けて「人間社会が嫌になって、ここの仲間に入れてもらおうと思うとったが、考えが甘かったかのう。でもキッキの親切は涙が出るほど嬉しかった。なんせ人間にもこんなに親切にしてもろうたことはなかったからなぁ」と言いながらふとキッキの方を見るとキッキはすやすや眠っていた。
 次の日の朝、キッキが目を覚ますと星雲の姿はなく、目の前には色んな種類の木の実が置かれていた。キッキは急いで、穴から身を出して辺りを見まわしたが星雲の姿は何処にも見当たらなかった。空には切れ切れの雲がゆっくりと流れていた。

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