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「花芯」と漱石先生

今、「女」もしくは「男」と「女」について少々考えなければならない機会である。そして、タイムリーでは無いのかもしれないが瀬戸内寂聴原作「花芯」を観た。考えなければならないから見たのではない。私自身が必要だから観た。男に対して女は孤独である。主人公園子は飽くまでも自分自身に忠実であろうとした。園子が思う事は女性にとってリアルである。しかしその現実を表現することは多分未だ何かしらの犠牲が纏いつく気がする。そして女を描けるのはやはり女性だけなのであろうか。
唐突なようだが、その現実が「罪」なのだとすると作者が己をなぞった「花芯」はその告白であり、その告白こそが己を救済する方法と述べたのが夏目漱石である。少なくとも私にとっては画期的な言葉であった。「模倣と独立」という講演の中でこう語った。「その罪を犯した人間が、自分の心の径路をありのままに現わすことが出来たならば、そうしてそのままを人にインプレッスすることが出来たならば、総ての罪悪というものはないと思う。総て成立しないと思う。」しかし、それには相当の条件がある。漱石は続ける。「それをしか思わせるに一番宜いものは、ありのままをありのままに書いた小説、良く出来た小説です。ありのままをありのままに書き得る人があれば、その人は如何なる意味から見ても悪いということを行ったにせよ、ありのままをありのままに隠しもせず漏らしもせず描き得たならば、その人は描いた功徳に依って正に成仏することが出来る。法律には触れます懲役にはなります。けれどもその人の罪は、その人の描いた物で十分に清められるものだと思う。私は確かにそう信じている。」まだ続く。「如何傍から見て気狂いじみた不道徳な事を書いても、不道徳な風儀を犯しても、その経過を何にも隠さずに衒わずに腹の中をすっかりそのままに描き得たならば、その人はその人の罪が十分に消えるだけの立派な証明を書き得たものだと思っている(後略)」私はまだこの心境に至らない。全く理解出来ていないのかもしれない。ただ、漱石がこの心境に至る過程があったのだろうし、或いは寂聴も。その事は多分私にとって興味を禁じ得ない。
参考文献「漱石の個人主義」関口すみ子(海鳴社 2017)