私の半生と体重遍歴③
みなさん、こんにちは。まーこです。
長々と続いているにも関わらず読んでくださって本当にありがとうございます😭✨
これまでの記事はこちらになります↓
②の記事で適応障害になったところまで書きました。
ここから数年はサクサク進めたい気持ちもありますが、案の定長くなる予想はついているので、それでも大丈夫だよーって方は読んでいってくださいね🙇
(いっぺんに読むのは疲れると思うので休み休み読んでくださるとうれしいです✨)
7.引きこもり生活
大学3年の後期。(ごめんなさい、記憶薄れて思い出せないんだけど大学って前期後期って言い方だったよね?)私は親に説得されて休学する道を選んだ。
選んだというよりそうするしかなかった。
それでも私は地元に帰らなかった。
相変わらず彼氏に依存していたけど、浪人してまで行った大学だから意地でも通いたかったし、予備校時代の友達に(その子たちは残念ながら同じ大学に行けなかった)「まーこちゃん私たちの分も楽しんでね」と言われていたことも大学に留まりたい要因ひとつだった。
もうそのときには親は期待なんてしていなかったのかもしれないけど、親と友達からの期待にそれでもまだ応えたかった。
でも休んでいるあいだ、いや、休む前からもうそうだったけど、道が怖いから外に出なかった。
その頃彼氏も大学のそばに引っ越していたから彼氏の家にいても外に出ようとはしなかった。
移動するときはいつも夜中。
それ以外は引きこもってネットばかりしていた。
大学4年の春、また大学に通うことを決めていたけれど案の定出られなかった。
なんとか頑張って大学に向かうところまで出来る日もあったけど、それで精一杯だった。
授業には出られなかった。
そして私は大学4年の後期も休学した。
卒業なんて無理だと頭のどこかでわかっていた。
でもそれでも地元に帰りたくなかったし意地だけでここに居座ろうと決めていた。
彼氏は就職先が決まったこともあり、徐々に私との時間が減っていった。
ある日「お世話している状態が続いて彼女ではなく妹にしか見られなくなった」と伝えられた。
この人を私から解放する瞬間が来たんだな、と思った。
私はまだ大好きだったけど別れることを決意した。
今でもこの彼氏には本当に感謝している。
そして私は姉の家に居候することになった。
大学5年って言い方が正しいかわからないけど、5年生に上がるとき、就職で東京に出てきた姉が職場の寮から出ることになったのだ。
親も姉と一緒ならと安心したと思う。
だけど姉の家でも私は相変わらず引きこもっていた。
ネット仲間とオタク話に花を咲かせている時間だけがしあわせだった。
ただ、姉の生活リズムに合わせるようになり、また大学のそばから離れたこともあって、昼夜逆転の生活は少しずつ元に戻っていった。
姉の家に居候しはじめてからは母も時々様子を見に来てくれるようになった。
3人で夜ごはんを食べにでかけたりするのは楽しかったように記憶している。
もう友達はいなかったしそういうこともしなくていいと思っていたけど、なんだかんだ寂しくはあったんだと思う。
だけど、それでも私は大学に通えなかった。
後輩たちの中に溶け込むことも出来ず、かといってひとりで過ごすこともしんどくて(自ら友達関係断ったりしてるのにね)大学生活はつらいものでしかなくなっていた。
同級生たちが卒業していてもしんどかった。
もう大学に居場所はないとようやく悟った。
そして地元に帰る決心をついに固めた。
ちなみにそのことを病院で話したら「なんで帰るの?どうしてもいたいなら野宿でもして東京居座ったら?」と言われ、私は病院でブチ切れ母をおいて(一緒に病院に来ていた)母の実家方面に行く電車に飛び乗り、でもどこでおりていいかわからず叔母に電話、伯父の家が途中にあるからそこで降りなさいと言われ、予想外に伯父宅に泊まり、同い年の従姉妹と楽しい夜をすごすことになったのはいい思い出。
(何言ってるか意味不明だと思うけど、病院でブチ切れた勢いで電車飛び乗って従姉妹の家に行ったことが伝われば)
でも心療内科の先生がそんなこと言うのはあり得ないと今でも思うのでどうしても一発殴りたくて書いた。
体重について書いておくとこのころも63kgのままです。
大学4年までは夜中のファミチキに占領されていたし、姉の家のそばにコンビニはなかったけど、実家では料理一切しなかった姉が就職してからお弁当作るようになって料理上手になってて。ごはんが美味しかった。
それに昼夜逆転生活してたのも痛かったと思う。
誕生日に姉の家で撮った写真があるんだけど丸さがやばいw
8.地元に帰ったもののニート
25歳で地元に帰ったけど、父とは話せなかった。
ふたりきりになったら何か言われるのではと思っていたし父も何を話していいかわからないところもあったと思う。
同じ家にいても一切口を聞かなかった。
私が東京に居座っているあいだ、祖父(祖父母と一緒に暮らしていた)は脳梗塞で倒れ、そこまでひどくはなかったけど少しだけ麻痺が残って生活している状態だった。
祖父は運転が好きな人だったから叔母が毎日のように来てくれ、祖父母と私を乗せてドライブに連れて行ってくれた。
近くのスーパーのときもあれば、イオンのフードコートでごはんを食べるときもあるし、ちょっと遠出するときもあった。
私はほぼ毎日外出するようになった。
今思うとこのことは引きこもり生活から脱却するのに本当によかったと思っている。
そして地元に帰ったら一部の友達がまた遊ぼうと言ってくれたりした。
誘われても当日になって怖くなってドタキャンすることもあったのに、それでも根気強く誘ってくれた。
家族を含め周囲の人に本当に恵まれていたと思う。
だけど私は仕事をしなかった。
今思うとなんでだろう?と思わなくはないけど、昼夜逆転の生活から戻り外出出来るようになっても、仕事するまでの元気はわかなかった。
あと単なる甘えもあったと思う。
東京でも彼氏に依存していたように、今度は親に依存してたんだろうな。
ただ家にいて、家の手伝いをたまにするくらいで、何もせず親の世話になっていた。
引きこもりではなくなっていたけどガチニート。
この生活が実は3年ほど続く。
だけど、親は何も言わなかった。
9.転機
前述の3年のあいだに色んなことがあった。
まず祖父が亡くなった。
身近な人、しかも0歳のときから一緒に暮らしていた祖父が亡くなったことはめちゃくちゃショックで悲しくて。
私は最期を看取れなかったことを悔いた。
そのときすでに祖父は入院していて、亡くなった日もお見舞いに行くことになっていたんだけど、私は薬の影響で起きれずひとりで家にいたのだ。
そして「もう危ない」と言われた母が私を迎えに来てその途中で祖父は亡くなった。
私のせいで母も看取れなかったことが申し訳なかった。
祖父のことのダメージが少し落ち着いたころ、私は本気で病気を治したいと病院を変えることにした。
色々あって大きな病院で診てもらうことになり、そこでカウンセリングの先生と出会う。
それがとても大きかった。
主治医の先生ももちろんよかったけれど、カウンセリングの先生とはとても相性がよく、先生と話すことで自分を見つめ直すことができた。
時には困らせることもあったけど先生には段々とだけど何でも話せるようになった。
その後東日本大震災が起きた。
私の地元は被災三県のひとつで。
実家は海のそばではなかったし震災の影響は停電や断水、非日常の暮らしが少し続いたくらいだったけど、母の実家は半壊した。
私にとっては思い出深い家だったけれど幸い誰も住んでいなかった。
当たり前の毎日が当たり前じゃなくなったこと、その衝撃は本当に大きかった。
(今でも震災当時の映像が見れない人なので多くは語りません。というか語れない。)
震災が落ち着いたころ、姉の結婚が決まり、私の病気の症状も落ち着いていて、家族もなんとなく幸せムードが漂っていたとき。
母が突然倒れた。
夕飯の準備をしているとき、なんの前触れもなかった。
くも膜下出血だった。
倒れた直後に父が帰ってきてすぐに救急車を呼べたこと、運良く私の方にもたれかかるように倒れそのまま動かさなかったこと、運ばれた病院が近くだったため処置が早かったことで後遺症もなく済んだけど、当時は祖父が亡くなったことも覚えていなかった。
ちなみに母は今でも予定や大事なことを忘れやすいが、これは仕方がないことらしい。
今は運転も再開しているし、病院も2ヶ月1回診てもらえば大丈夫なところにまで回復している。
長々書いてしまったがこの3年間の出来事、特に最後の母の病気で私はようやく目が覚めた。
いつまでも親の世話になってられないんだと悟ったし、ずっとニートでいた自分を恥じた。ぶん殴りたかった。
目が覚めた私は少しずつ行動に移った。
まず自動車教習所に通って免許を取り、いつでも母を乗せて運転出来るようにしようと思った。
免許を取得したあとは求職者支援訓練に通い、PCスキルと簿記の勉強、資格を取り、無事(パートだけど)仕事についたのだ。
と、まあついさっきも書いたように長々書き綴りましたが、自分でも出来事の羅列で退屈になってきているのがわかるので、またここで一旦切ります。
ちなみに体重の話が疎かになっているので話すと、このころは53〜55kgくらいに戻ってました。
生活が昼夜逆転から戻っていたし、食生活も健康になっていたからね。
あと夜中まで起きていたとしても、私の部屋は2階で台所が1階だったから食べ物を取りにいけなかったのも大きな要因。
(夜中音を立てると怒られる家だったので1階に降りたりはよほどじゃない限りしなかった。何より怒られることのほうが怖かった)
あと田舎だから夜道が暗くて怖くてコンビニに茶色の彼氏買いに行ったりしなかったし。
母の料理は和食が多かったからそれも大きかったと思う。
はい、いつ私の長ったらしい話は終わるんでしょうか?
本当は今回もっと話を進めてから終わらせる予定だったんだけどなー?
(とはいえ最後まで行く予定ではなかったのがウケる)
リソ杯までに終わりますかね😂
終わらなかったらみんな笑って、まじで。頼む。
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