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スケートボーディング、フリーダイビング、クライミング、ハイキングの話


これらのスポーツ、一見共通項がないように見えるか、流行りはあれど、どれもアウトサイダー的な立ち位置で、好きな人しか集まらないようなマイナーなカルチャーのイメージがまだ残っている人もいるかも。ストリートと自然。都会と山林、そして世界の陸地の2.42倍ある海と海底。




スケートスラムの結晶

まずは自分の中で伝説になっているスケートスラム(鬼のようにコケること)動画を観ると、そのスラムが結晶してくる。(と感じるのは自分だけかも)結晶してくる、というのは観る側のマインドとして。


Jerry Hsu氏の募っていくワンメイクへの執念がこちらのマインドにひしひしと伝わり、自分にとっては何年経っても心の精神と時の部屋に照射されるような動画。シンプルな感動がある。

何年も板に乗っている友達は、イメージに残ってしまうからスラム動画は観ないと言っていたけど、スノボーしかり怪我してナンボ的な所・・。自分は鬼ゴケするのが割と好きになってしまった節がある、悪い意味で。(伸び悩み因子)

これは実際にスケートとスラム経験のある人でもそう思わない人もいると思う、こんなの観ても痛いだけだよ、という方はスキップ。

ただ、これはただのスラム動画ではないと感じる、スケートマインドを絵にすると・・


スケーターオブザイヤーなる者が当時有り、(今もあるのかな)スケートボードの技の上手さなどある程度の水準をクリアしていることは勿論なのだが技巧やスピードなどではなくそのオリジナリティーやスタイル、カリスマなどが審査基準で毎年選ばれていることに意外性と唯一無二のものを感じていた。スケートボードがオリンピック競技になる前の話。


映画やアート、漫画なんかはそういう尺度で売れていくのかも知れないけど、スケートはスポーツでありながらカルチャーとしての側面がとても大きい。卓球部は動く文化部と呼ばれていた気がする、disというよりリスペクトな感じにさえとれる。とれないか・・


一番シュートを決めるのは一番シュートを失敗した人、というマイケル・ジョーダン氏。(スニーカーが6000万円で落札されていた。)


痛いのに見ちゃう、下手ウマ、感情移入できる、かわいそうでかわいい、遠くから好きでいたけど、話したら全然話通じなくて急に冷める。(逆パターン)ギャップで惚れる。アンビバレンス。


カルチャーや精神性と競技種目になること


フリーダイバーのジャック・マイヨール氏の記事から

晩年になってくると「潜る」ことは彼にとって、哲学的、精神的な意味を持つものになっていったのだと思います。講演などで、海に対する思いやいままでの経験を話すとき、毎回、最後は哲学のような話になっていました。よくジャックは「潜ることは、海と一体になるということ。それはイコール宇宙と一体になること。そして自分自身が海そのものであり、宇宙そのものであると感じる。だから、全体の一部である自分に気づいたら、人を蹴落として自分のためだけに行動したり、名誉やお金に流されたり、戦争や争いで傷つけあったりすることは無意味だと気づくはずだ」という意味のことを言っていました。「海に潜る」ことは、物質欲、金銭欲、名誉欲とかそういうものを超えた、人間愛とイコール、宇宙のすべての生命に対する愛を感じる経験である。彼は人生の間にフリーダイビングを通じて感じたこんなことを、一生懸命伝えようとしていたのだと思います。
「競技はやめろ」と言ったジャックですが、その裏には、「潜水の記録を追い求めることに夢中になるのは危険だ」ということと、それよりも「フリーダイビングの持っている哲学的な深さ、精神性の高さを大切にしてほしい」という意味があったと思うのです。

フリークライマーのアダム・オンドラー氏もクライミングがオリンピック競技になることを憂いていたことも同じように、クライミングを通して自然と一つになることや、自然に対する愛などがベースにあり、それは競うものではないというところにあるのだな、となんとなく感じとる。

カルチャーとして色の濃いスポーツと、自然に対峙する精神性がベースにあるスポーツが競技になることの矛盾。


余談だが少しボルダリングのことー

自分にとって岩山は未経験だが、ボルダリングジムで目の前に壁がある時に、後ろは見えていないから高さをダイレクトに感じているわけではない。

自分の両手で自分の体重を支える感覚や、背中に重力をダイレクトに感じる感覚が面白く、筋肉の限界が来た時など危険を感じ、脳内麻薬が分泌されるのを感じる人は多いのではないだろうか、他のスポーツに比べ高さがある分感じやすいかもしれない。

せっかく楽しくなった所でベースの筋肉が育っていないと腕はパンプして保持力が失われてしまう。


フリーダイビングの篠宮龍三氏の対談記事から

篠宮 そのときは70メートルぐらい、いや、たしか75メートルまで潜りましたが、結局、ブラックアウトしてしまい無記録に終わりました。成功していたら1番の記録だったんですけど、つい無理をしてしまって。
シマジ 海水が冷たいから、血流も悪くなって、酸素不足に陥ったんでしょうね。
篠宮 そうですね。寒さと自我が強すぎたんでしょう。「これをやったら1番だ」とか「あいつには負けられない」と考えた瞬間、ブラックアウトしたんだと思います。
シマジ やっぱり無の状態で潜らないといけないんですね。
篠宮 口で言うのは簡単ですが、実際にはなかなか難しくて、そういう状態で潜れるのは1年に1度あるかないかですね。人間というのはどうしても欲深いものでして、つい「これをやったら」と考えてしまう。若いころはそういう痛い目に何度もあっていました。「よし」と思って、海面に上がってきて呼吸をした瞬間に倒れるケースが多いですね。
シマジ そうなると失格になるんですか。
篠宮 はい、失格です。

やっぱり無の状態・・・忘我


なに、やっぱりって。こうであろうとすると、こうでない状態を呼んでしまうということか。

ヒマラヤ瞑想でも同じような現象があるという。

準備ができていないと長期間の断食で命を落としてしまうこともあるという。準備。

さらに潜るとフリーダイバーのギヨーム・ネリー氏の動画に辿り着いた。



ハイキング


そこにある精神性に触れたいと思って書き始めたのが水深123mまで潜ってしまったのが今回のギフト。

自分がソロハイキングの中で感じたなんだか神聖な気持ちがある。(山と天気が既にそういうムードの日だった。)

少し空気が薄くなっていき、視野にもその影響が出始めてくる静かな山の中で、一人呼吸を整えて進んで行くとき、雪と一緒に自分の中に積もっていったものはなんだろう。

自然に対する畏怖の念であったり、ジャック・マイヨールが言っている全ての生命に対する愛を感じる経験、というものかもしれない。

体を動かすこと自体に勿論精神性は宿るのだが、結局なんでも丁寧に行う、突き詰めていくことに瞑想やヨガをつなげてしまう昨今。

まとまっているのかどうか、またつづく・・



ありがとうございます。これからも楽し発見をシェアさせてくださいね〜‼︎