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祝引退!!

8歳で始めた剣道をついに引退することにしました。才能がない上に努力まで足りないのに、自分の現状に納得がいかずもがいてきましたが、やっと諦めがつきました。

人生の大半を注ぎ込んできた剣道と僕の歩みをまとめて「選手として」の区切りにしたいと思います。

小学校時代

小学2年生〜気づいたら握らされていた竹刀〜

体が弱く走るだけで喘息の発作が出ていた当時、運動の習い事をするなんて思っていませんでした。父も剣道を昔していたこと、兄も従兄弟も剣道をしていたこともあり、道場に連れていかれる日々。気づけば竹刀を握らされていました。多分9月ぐらいです。始めたきっかけは特にありません。いつの間にか竹刀を握ってました。仲の良い仲間にも恵まれ、のほほんと剣道を教わりました。剣道が楽しくて仕方ありませんでした。と思うのも束の間、病弱だったこともあり2月から3月末まで入院することになります。当然剣道からも離れることになり、寂しい思いをしていました。3月で転校することになり、道場の先生方や仲間にもあいさつをできないまま離れることになってしまいました。

小学3年生〜道場は戦場〜

転校先の町にも道場があり、入ることにしました。雰囲気の違いに圧倒され、最初の1ヶ月は泣きながら稽古していました。屈指の強豪県の福岡の稽古の激しさが恐ろしかったみたいです。優しい(?)私には受け入れられ難い世界でした。告発する気はありませんが、暴力的・体罰的な指導でした。保護者が見ることを許されない、激しいというか過激というかそんな稽古でした。
怖い、行きたくないと思いながらも1年間乗り越えました。9月ごろには初勝利を飾りました。あの時の相手とは今も仲良くしています。不思議な縁です。

小学4年〜芽が出てきた?〜

団体戦の試合にも出させてもらうようになりました。少しずつ勝つことも増えてきましたが半分以上は負けでした。チームの役に立てることが嬉しくてたまりませんでした。やる気も湧いてきました。頑張れば勝てるようになる。そういう実感がありました。

小学5年〜大将就任〜

ある日突然、道場の仲間が相手にならないぐらい自分が強くなった感触がありました。ラブストーリーぐらい突然でした。その日から大将を務めることになりました。6年生を差し置いて。当時の6年生の保護者は怒り心頭だったそうです。よそ者が大将をすることが許せなかったみたいですね。批判?どこ吹く風でしたね。勝てるようになって剣道が楽しくなってきました。

小学6年〜この世の地獄〜

5年生の終わりがけ、福岡を地震が襲いました。私の家もほぼ全壊。引っ越しましたが、道場はそのまま。この年は訳あって、稽古が地獄でした。全身が痙攣する。呼吸ができなくなる。目の前は真っ暗になり倒れる。起こすために水をかけられたり、顔を殴られたり。動けなくなるまで追い込まれる。毎日血尿が止まりませんでした。地獄ってこのことだと思いました。その分、身体能力と実力はぐんぐん伸びていきます。この年はほぼ負けなかった年でした。多分合計で10回負けていません。本気で剣道頑張ろうと思い始めました。

中学校時代

中学1年〜周りとの差。転機Part1〜

通っていた道場には車で20分かけて通っていました。越境通学でその校区の中学校へ通うことにしました。力がついてきていたので、福岡市の個人戦で奇跡的に準優勝しました。準決勝、決勝の相手は後の日本一経験者。その場に立てていること自体が奇跡でした。僕の代は都道府県対抗で福岡県が優勝していたので日本一強い県と言っても過言ではありません。そのメンバーに福岡市の道場の選手が2人入っていました。(片方とは後にチームメイトに、もう片方の弟と後にチームメイトになります。つくづく不思議な縁です。)
その大会の後から崩れていきます。当時僕がいた学校は弱小校でしたので、周りとの意識の差が生まれていきます。結果を残し自信をつけてもっと頑張りたい自分、勝てないからやる気もなくなんとなくやっている同級生や先輩。疎まれるのは目に見えていました。
以前書いていた記事にも載せたことはありますが、度を超えた暴言や行動ばかりでした。状況を見ているはずの顧問も相手側でした。こんなところでやってられるか!と転校をすることになりました。転校先は住んでいる地域の学校。ルール上なんら問題はありません。そこの友人や先輩からもぜひ来てほしいとのこと。気持ちが固まるのは一瞬でした。自分を成長させることができるのは転校先の学校でした。ちなみに周りとの関係が悪くなってから12月以降の練習試合は全て干されました。

中学2年前半〜序列最下位からのリスタート〜

転校先の学校は当時の福岡県で準優勝の学校でした。自分も結果を出して乗り込んだとはいえ、成長のために挑戦するには十分すぎる環境でした。すぐレギュラーになれるだろうと調子に乗っていました。
初めて部活に参加させてもらい、甘さを認識します。
部内戦しても勝てない。レギュラー組には一本さえ取れない。数ヶ月でこんなにも差が開くものなのかと。でも求めている環境でした。誰もマイナスなことを言わない、手を抜かない、お互いに厳しい。ここで頑張れば成長できる!絶対に強くなれる!そう確信しました。顧問の中での序列は最下位だったそうです。1人ずつ追い越していく。そう決意してから数ヶ月はきつくても苦しくても楽しくて仕方ありませんでした。2ヶ月後の各県のベスト4以上が集められる練習試合でAチームに入りました。序列最下位から序列が7番目までになりました。努力次第で自分は変われる。僕を拾ってくれたチームに自分が貢献できる。チームのためならどんなことでもやれる。そう思える環境にいれることが幸せなことでした。
夏の大会は一つ上の先輩がいながら補欠の1枠を掴みました。僕がメンバーに入るということは出られなくなる人が1人出てくるということ。それが今回は同じ道場の先輩でした。出る者の責任を重く感じました。夏の大会は県でベスト8。個人的には大貢献でした。主力が残り、優勝候補と呼ばれるようになりました。

中学2年生後半〜鉛のような体〜

新体制になり、数多く練習試合が組まれることになりました。新人戦までに100試合近く行いましたが、95勝以上しています。負けたのは佐賀県の夏の大会を2年生だけで優勝した学校だけでした。
迎えた新人戦でしたが、地区大会で苦しみます。5人制の前2人が絶不調。後ろ3人で逆転するしかありませんでした。予選リーグから県大会出場枠獲得まで4試合全て逆転勝ち。準決勝も逆転。決勝は大将戦まで繋いで追いついたものの代表戦で負け。結果準優勝でした。1月の県大会では予選リーグに優勝候補3校が固まることに。惜しくも敗退でした。
しばらくして、体への異変を感じました。2月ごろだったと思います。朝起きることができない。体が鉛のように重たく感じる。準備運動程度の軽めの運動で息が切れる。別の人の体のように感じる。やる気はあるのに、体がついてこない。この状態が3ヶ月は続きました。
当時は知識がありませんでしたが、今あの時の自分を分析するとオーバートレーニング症候群のような状態でした。似たような状態が不定期で体に現れるようになります。10年以上苦しめられます。気づけば3年生になっていました。

中学3年〜引退と最大の後悔〜

どうにか体も戻り、夏の大会を迎えます。終始絶不調でした。勝つことは勝つものの冬のように絶対的ではありませんでした。結局引退を決めたのは僕の負けのせいでした。悔しくてたまらないけれど泣くことさえ許されないと思い泣けませんでした。

家に帰って自責の念に駆られます。剣道なんてやめてしまいたい。あれだけたくさんの人が応援してくれて、会場でもたくさん声をかけてくれたのに。たくさんの人が僕達のために時間を費やして、大変な思いをしてくださったのに。自分がチームの負けを決めてしまった。なぜよりによって1番大切な時に自分のせいで負けてしまうんだろう。申し訳ない。

当時はものすごく辛くて苦しくて今も思い出したくない経験をしたけれど、この夏の経験があったからこそ今の自分があると思っています。
この経験があったから、中学生が部活動で後悔しないようにと教員になっている自分がいます。

引退して、剣道から離れた半年間はある意味助けでした。気持ちのリフレッシュができました。

高校時代

高校3年間〜高校で消えた男〜

高校は声をかけていただいた強豪校やチームメイトが行く高校の誘いを断り、古豪の進学校へ行くことにしました。3月からアピールに成功し、1年の5月の大会でメンバー入りします。交代で出ることになり、相手は後に最年少で全日本剣道選手権を優勝する同い年のスター選手。負けましたよ。そしてそれ以降全く勝てなくなります。中学時代のライバル達からも高校で消えた男だと噂されるほどでした。1年夏から3年春までは足を引っ張った記憶しかありません。3年間で勝った数が圧倒的に少ないです。最後にはどうにかなると信じて稽古するしかありませんでした。
3年生の夏、引退試合だけは満足いきました。無名選手が九州3位の高校の選手をボコボコにしていく。あれは気持ちよかったです。見てる側も気持ちよかったらしいし、少しざわついていたそうです。

初めて人生でやり切ったと思えました。泣きました。涙が止まりませんでした。初めて人前で泣きました。苦しんだけど頑張ってよかった。この1年は本気で頑張ってよかった。でも、もっと早くから頑張っていたらもっと勝てていたのではないかと後悔もありました。自分のせいで負けた中学時代。自分は勝ったけれど負けた高校時代。それでも泣いたのは高校生の時でした。頑張った達成感よりも後悔の方が大きかったのは事実です。

指導者になろうと決意し、教員を志します。実は高校時代にすでに選手としての自分は終わったのではないかと思っていました。勝てない現状が真実でした。最後の試合で、まだやれる。もう一花二花咲かせたいと思ってしまいました。

大学時代

大学1〜2年

九州では名門と呼ばれる部類の大学に入りました。当時の先輩方は神様のような存在でした。剣道も強ければ、先輩としても偉大。絶対にあんな存在になりたいと思っていました。稽古?古き時代の部活でしたよ?首血だらけ事件は忘れないだろうな。ついていくのに精一杯でした。強くなることなんて考えられませんでした。そんな余裕はなかったです。

大学3〜4年

一番頑張ったのはこの2年間です。
勉強も剣道も充実してました。怪我するまでは。
怪我はちゃんとすぐ治しましょう。後悔します。言い訳になっちゃいます。人って易きにながれます。脱臼はちゃんと手術すべきです。歩いてる時に外れることも未だにあります。
勝負にこだわらなければならない時期でした。稽古の中でも。優しさが甘さが顔を出してしまうんです。先輩方からも優しすぎると何度も言われました。優しさは甘さなんです。相手を殺すぐらいのつもりでいかないと勝負の場にさえ立てないんです。トップ層の選手は皆そうです。これまでの剣道人生を振り返っても優しさが甘さになっていました。勝負の土俵に立つ資格さえない人間でした。根本的に勝負事が向いていない。そう気づけたのが大学時代の1番の収穫でした。

大学最後は補欠として選手生活を終えました。後悔は一切ありません!試合に出ることになって負けを背負わせてしまった後輩達、申し訳ない!

社会人編

社会人1〜4年〜剣道のない生活〜

教員になり、4年目までは剣道以外の部活を担当しました。サッカー、駅伝、陸上。全て県大会ベスト4以上に進出しました。なんなら陸上は全国で入賞するレベルの子も。教え子達は高校や次のステージで活躍してくれています。
選手として、よりも教える方が向いてると薄々感じ始めました。剣道したくてたまらなかったけれど、離れてよかったのかもしれません。年に一度の大会には出ていました。練習はしていませんが。


社会人5〜7年〜剣道部顧問就任〜

ついに剣道部顧問になりました。毎日楽しくてたまらない。部員と一緒に強くなっていくのが分かる。部員の方が強くなる速度が早いのもまたいいんです。僕も負けてられない。気づけば大学や高校の時よりも強くなった実感がありました。指導することは本来自分がしたかった剣道スタイルになるための要素でした。
選手として頑張ろうとすると指導が中途半端になる。指導をメインにすると僕の稽古の時間が取れなくなる。選手としても指導者としても頑張ろうと思って欲張っていました。どちらに重きを置きたいのか分からなくなりました。
試合にも出ていましたが、そもそも何を目標に選手として続けているのか分からなくなりました。団体に所属しているわけではないから負けても迷惑をかけない。強くならなくても誰も困らない。むしろもう選手としてはとっくに限界を迎えてたじゃないか。もう自分が強くなるための時間いらないのではないか。だいたい選手としてはもう通用してないじゃないか。もう選手としては諦めて指導者として本腰を入れて頑張ろう。そう思うようになりました。はっきり言えば逃げです。
この選択を正解にしたいです。子ども達に期待です。

そして2/3に引退試合を迎えました。若い人達にボコボコにやられました。ちゃんと現役大学生には勝ちました。楽しく試合できました。スッキリです!後悔なし!!!

今後について

今後は指導者として剣道に携わります。
試合に出る数は減らします。付き合いで出ないといけないものもあるので最低限は出ます。
これまで我慢してきたことを片っ端からしていこうと思います。カロリー気にしなくていい!ラーメン我慢しなくていい!旅行も!トレーニングサボっても罪悪感ゼロ!ちょっとリフレッシュします。


あとがき

選手を諦めるという決断はなかなか簡単なものではありませんでした。剣道が自分の人生といっても過言ではありません。頑張ることと無理をすることを同じものに考えてしまっていたことが自分を苦しめていました。運動能力も才能もない自分が強くなるためには努力しかありませんでした。ある程度はそれで勝てるようになります。残酷な現実ですが、運動能力も才能もありその上自分以上に努力する数々の人間に出会ってきました。まだ頑張らないといけないのか、もうこれ以上頑張れないと思い始めてしまいました。これまでは所属しているチームのために、誰かのためにがんばれていたのだと思います。それがなくなってからは何のためにしているのだろうと穴が空いたような感覚でした。

どの競技でも選手としてトップに行きたいなら、優しさや常識を捨てなければならない、と思います。多少ネジが外れていないと、勝負がかかった場面で緊張もなく力を発揮することなんてできません。トップ層の選手はたいていぶっ飛んでます。いくら剣道が人間形成の道と言えども、試合となれば相手を蹴落としていかなければいけないんです。それに耐えられる自分ではなかった。甘さ全開でした。楽しく剣道ができればよかっただけだったはずでした。勝利を求めて無理をし続けてしまいました。そこから逃げるように引退を決めました。やりたいことはたくさんありますし、剣道をしなくなるわけではありません。指導者として第二の剣道人生スタートです。
自分の好き勝手を許したくれた両親、出会ってきた恩師、一緒に剣を交えた剣友達、皆様に感謝しかありません。充実した選手生活でした。

引退生活楽しみます!皆さん相手してくださいね。

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