ヴィーガンのアライになること【理論編】
※途中、議論の都合上、不快な表現(人肉食など)が出てきます。ご注意ください。
本記事と、この続きの【実践編】では、「ヴィーガンのアライ」というものについて考え、実践するためのノウハウについて述べる。【理論編】(本記事)ではヴィーガンのアライということが何を意味するのか、どういうものなのかを述べる。【実践編】ではヴィーガンのアライとして何ができるかを考える。(本記事は約7500字ある)
前提
本記事と続編の記事では、動物擁護的理由からのヴィーガンを前提にする。また「ヴィーガン」は、少なくとも動物性食品を一切取ってないことに加えて、生活の他の側面でも可能な範囲で動物の犠牲への加担を避けている人のことを意味するとする。
また私自身はヴィーガンである。そのため、アライとしての視点はほぼないが、本記事と続編の記事では、私にとってアライがどういう存在であってほしいかを考えながら議論している。(この自己開示によって、味方を増やしたいがために傲慢な記事を書いていると批判される可能性はあるだろう。その批判は甘んじて引き受ける。味方が欲しいというのは本心だし、このような記事を傲慢だと思わない人に味方になってほしいと私は思っている。)
アライ(ally)は主にLGBTQ+の文脈で使われる言葉であり、主には、LGBTQ+当事者ではないが、かれらの支援者、味方であることを意味する。
まず、ヴィーガンのアライを素朴に定義すると「ヴィーガンではないが、ヴィーガンの支援者である人」となると思うだろう。それは間違いではないが、以下で考えていくように十分ではない。
以下ではヴィーガンのアライがLGBTQ+のアライと性質が違うということについて議論する。次に、ヴィーガンのアライであることと非ヒト動物のアライであることについて考える。
ヴィーガンのアライとLGBTQ+のアライの相違点
まず「ヴィーガンのアライ」の何が複雑なのかを理解するために、LGBTQ+のアライとの相違点を考えよう。相違点は少なくとも三つある。
第一に、LGBTQ+のアライの場合、通常、そのアライが当事者になることはありそうにない。もちろん、LGBTQ+に関する話題を勉強する中で、自身のセクシャリティに対する理解が深まり、当事者であると自覚するようになるかもしれない。
だがヴィーガンはそういうものではない。ヴィーガンは選択して当事者になるような属性である。もちろん環境やその人の性質によってヴィーガンになることが困難な場合もある。だが傾向として、当事者になることが可能である。よってヴィーガンのアライは、少なくともLGBTQ+のアライと比較して、アライから当事者になることが可能である。
第二に、LGBTQ+の当事者はアライに対して当事者になってほしいとは思っていない。第一の相違点から導かれることだが、当事者になることはできないのだから、そうなってほしいと願うこともないだろう(もちろん、当事者の友人がほしいなどの理由で願望的に思うことはあるかもしれないが)。
しかしヴィーガンの当事者はアライに対して、当事者、つまりヴィーガンになってほしいと思っている。
第三に、LGBTQ+の当事者は、その属性自体がなにかのアライなわけではない。もちろん、LGBTQ+の当事者は自分が持っていないセクマイ属性の人のアライになることができる。例えば同性愛者はトランスジェンダーのアライになることができるだろうし、逆も然りである。
だがヴィーガンは、その属性自体が非ヒト動物のアライである。そのため、ヴィーガンのアライというのは、非ヒト動物のアライのアライ、ということになり、何か奇妙な感じがする。ヴィーガンはおそらく「ヴィーガンのアライなどと言うくらいなら、ヴィーガンのアライになんてならなくていいから非ヒト動物のアライになってほしい」と思うことだろう。この点については後述する。
以上のように、LGBTQ+のアライとヴィーガンのアライは、似ているようで違いがある。またこの違いは重要である。特に重要なのは、ヴィーガンというものは選択して引き受けることができる属性であり、それは非ヒト動物のアライになるということを意味する、という点にある。ヴィーガンという存在はそれ自体がアライである。
ヴィーガンのアライであることと、非ヒト動物のアライであることの関係
第三の相違点に関わる論点として、ヴィーガンのアライでありながら、非ヒト動物のアライでないことは可能だろうか。私は、それは不可能だと思う。理由は三つある。
第一に、ヴィーガンのアライであるならば、それは、ヴィーガンの思想(ヴィーガニズム)に対する何らかの支持が伴っていると思われる。ヴィーガンは自発的に選択した属性であることが多く、その選択の理由は、広く言えば、動物擁護であるだろう。そうであれば、ヴィーガンのアライであるなら、動物擁護的であることも要求されるように思われる。
アナロジーで考えよう。例えば、LGBTQ+のアライであるなら、LGBTQ+の思想についても何らかの支持が伴っているはずである。ノンバイナリーのアライであるなら男女二元論の否定が伴っているはずだろうし、ホモセクシャルのアライであるなら異性愛規範の否定が伴っているはずである。そうした思想の支持を伴わずにかれらのアライになることは不可能だと思われる。例えば、ノンバイナリーのアライでありながら、男女二元論を肯定することは不可能だろう。そのような人はノンバイナリーのアライではない、と言いたいと思われる。
したがって、ヴィーガンのアライであるならば、ヴィーガンの思想の支持、すなわち、動物擁護を支持することを伴う必要がある、つまり、非ヒト動物のアライである必要がある。
第二に、ヴィーガンは、動物擁護的でないアライを必要としてない。もちろん、単にヴィーガンの生活を改善してくれるような人は、その側面ではありがたい存在ではあるが、もしその人が動物擁護的でないなら、その側面では全くありがたくない。動物擁護的でないなら、始めからアライを名乗ってほしくないと思うことだろう。
ここでもアナロジーを考えよう。例えば、ノンバイナリーのアライを名乗りつつ、ノンバイナリーのための服飾を設計しているが、しかし男女二元論を支持しているような人がいたとしよう。ノンバイナリーのための服飾設計という点ではたしかにありがたいが、男女二元論を支持しているという点では全くありがたくなく、アライを名乗ってほしくないと思うことだろう。
そのため、ヴィーガンのアライを名乗りながら、非ヒト動物のアライではないことは、ヴィーガンにとって嬉しくない存在であり、ヴィーガンのアライを名乗る資格などないと思われる。
当事者から望まれていないアライなら、おそらくそれをアライと呼ぶのは気が引けるだろう。アライは非当事者でありながら当事者の味方であるわけだが、当事者から否定されているなら、それをアライと呼ぶのは不自然だと思われる。よって、ヴィーガンのアライでありながら、非ヒト動物のアライでないことはできない。
第三に、非ヒト動物のアライではない仕方でヴィーガンのアライであろうとしても、それはヴィーガンにとって喜ばしい帰結をもたらすことにつながらない。非ヒト動物のアライではないならば、例えば、肉食は平然と続けているし、動物搾取的な慣習について特に異議申し立てをしないことが想定される。動物搾取的実態に対して挑戦・抵抗しないままなら、ヴィーガンが望む世界が訪れることはない。ヴィーガンが望む世界になるよう貢献しないことは、ヴィーガンのアライであると言いながら、その実、ヴィーガンの最も重要な期待に沿うことはないことを意味する。アライ、つまり味方でありながら、その当事者の最も重要な期待に沿わないというのは、両立するとは思われない。よって、ヴィーガンのアライは同時に非ヒト動物のアライである必要がある。
以上から、ヴィーガンのアライでありながら、非ヒト動物のアライでないことは不可能だ。仮にヴィーガンのアライでありながら非ヒト動物のアライでないことが可能であるとしても、それはヴィーガンにとって望ましくない。
第三の相違点で述べられたことについて戻れば、「ヴィーガンのアライなどと言うくらいなら、ヴィーガンのアライになんてならなくていいから非ヒト動物のアライになってほしい」という気持ちはもっともなことだが、ヴィーガンのアライであることと非ヒト動物のアライであることは両立する。むしろ、ヴィーガンのアライであるには非ヒト動物のアライである必要さえある。だから、この点について心配する必要はない。非ヒト動物のアライでない人は、ヴィーガンのアライではない。少なくとも、そう呼ぶことはためらわれる。
非ヒト動物のアライであること
非ヒト動物のアライであることと非ヴィーガンであることの関係には少し厄介な問題がある。それは、非ヒト動物を食べながら、非ヒト動物のアライであることは可能なのだろうか、という問題である。
私の考えでは、非ヒト動物のアライであることはヴィーガンであることを意味しない。以下ではこの問題について議論する。
素朴な話として、非ヒト動物のアライであるためには、例えば、日常の中で動物性製品をある程度避ける、反種差別を支持する、工場畜産に反対する、などの実践や態度が伴うと思われる。このような実践や態度は非ヒト動物のアライであれば伴うはずのものである。しかし、これらに加えてさらに、ヴィーガンになることまで必要なのだろうか。私はそうではないと思う。
まず、どうしてヴィーガンではないなら非ヒト動物のアライではありえないと考えるのかについて検討する。おそらく最も説得的な根拠の一つは、味方になっているまさにその当事者を食べているというのは一貫してない、というものである。当事者が苦しんで殺されてできた産物(肉)を食べながら、その当事者の味方である、などということが成立するとは思われないだろう。
しかしこれには反例がある。例えば、飢え死にしそうな状況でのカニバリズム(人肉食)を考えてみよう。他に食料はなく、仲間のうち誰かが死んだあとに、その肉を食べなければ死ぬとしよう。このとき、死んだ仲間の肉を食べたからと言って、その仲間の味方でなくなるわけではない(この例は論争的かもしれないが、私がこの例で意図するところを汲み取ってほしい)。
この例が示すのは、仲間を食べなければ生活が困難である場合に、その仲間を食べることは、その仲間の味方であることを止めることにならない、ということである。
もちろん、ヴィーガンになれない人の多くが、このような飢餓状況と同じ状況にいるとは考えにくい。通常何らかの選択肢があるし(そうでないならヴィーガンはもっと少ないはずだ)、ヴィーガンになれないのは飢餓とは別の理由からだろう。しかし、困難さの程度は違うかもしれないが、当事者を食べなければ生活が困難であるという点は共通している。困難さの程度をどこで区切るかは難しい問題である。しかし、ここで言いたいことは、何らかの困難さのためにヴィーガンになれず、非ヒト動物の犠牲の上に立たなければならないとしても、非ヒト動物のアライであることは可能だ、ということである。
また、ヴィーガンであっても、食べること以外については非ヒト動物の犠牲の上で非ヒト動物のアライであるはずだろう。例えば医療的な処置を受けている人は、動物実験という非ヒト動物に対する悲惨な慣行の恩恵を受けている。それでも、非ヒト動物のアライであり続けることは可能だろうと思われる。
重要なのは、自身の生活を困難にする要因と、非ヒト動物の犠牲をできる限り減らすことのバランスである。ヴィーガンは定義上、動物性食品を避けているが、その他の点では、非ヴィーガンの非ヒト動物のアライと重大な違いはない。どちらも非ヒト動物を犠牲にするシステムの上で生活する以上、何らかの点で当事者を犠牲にしなければならない。私達がなすべきことは、それでも非ヒト動物のアライであり続け、そのようなシステムに抵抗し、それを改変していくことである。
以上より、非ヒト動物のアライでありながら、ヴィーガンではないことは可能である。重要なのは、ヴィーガンのアライになることというよりも、非ヒト動物のアライであることである。ヴィーガンにとってもそれこそが重要である。
とはいえ、ヴィーガンではない人が、あるいはなろうとしてるがまだヴィーガンになれてない人が、ヴィーガンのアライであるという意識を持つことが重要なことがある。次にそれを論じる。
非ヒト動物のアライであると同時に、ヴィーガンのアライでもあるということ
非ヒト動物のアライになれば、もうそれで十分ではないか、とヴィーガンの多くは思うかもしれない。私もそれには概ね同意するが、しかし、二つの理由から、非ヴィーガンがヴィーガンのアライでもあることが重要なことがある(この「も」は極めて重要であることを覚えておいてほしい。ヴィーガンのアライであることは、常に、非ヒト動物のアライであることを伴うのだから)。
最も大きな理由は、非ヒト動物だけでなく、ヴィーガンも差別される対象である、ということである(参照:Horta 2018)。
例えばヴィーガンが、信頼できない(動物愛護で感情的、証拠について無知など)、道徳的に傲慢だ、などとみなされることは日常的なことだろう。
さらに構造的な問題もある。肉食者の多くにとって食選択に困ることはほとんどないだろうが、ヴィーガンは常に食選択において困難を抱えている。また職業選択でも困難を抱える。例えば非ヒト動物に直接危害を加えるような職業や、レストランなど非ヒト動物の死体を扱わなければならない職業などを選択することは困難であるか、職に就いたとしても多大な精神的負荷がかかってしまう。
また、ヴィーガンは選択して引き受けた属性であるがゆえに、当事者等が一定程度謙虚になってしまっている。多くのヴィーガンは、自分(ヴィーガン)のことではなく非ヒト動物のことを考えてほしい、と思っているはずだろう。だがそのせいで、ヴィーガンの生活をより容易にするリソースが少なくなりがちである。もちろんこの謙虚さは望ましいものだと思う。しかし同時に、ヴィーガンの生活が容易になることが、結果的にヴィーガンを増加させることに繋がると考えれば、この謙虚さが過剰になってしまうことは望ましくないと考える。よって適度な謙虚さが求められる(どの程度が適度なのかは難しい問題であるが)。ここで、ヴィーガンのアライはそのようなリソース不足を補うことができると思われる。ヴィーガンが謙虚になって自身の困窮さを過小評価しているとき、もしアライ側に余裕があるなら、アライとして手助けできるはずである。
よって、ヴィーガンは差別の対象になりうる存在であり、構造的にマイノリティである。よって、非ヴィーガンが非ヒト動物のアライであるだけでなく、ヴィーガンのアライでもあると意識することは重要なことである。
もう一つの理由は、これも差別の話と関連するが、ヴィーガンのアライの存在は、ヴィーガン自身にとって勇気づけられるということである。すでに述べた通り、ヴィーガンのアライであることは、非ヒト動物のアライであることを必要とする。そのため、「ヴィーガンのアライなどと言うくらいなら、ヴィーガンのアライになんてならなくていいから非ヒト動物のアライになってほしい」という心配は不要だ。
この心配さえ取り除かれれば、少なくとも私(ヴィーガン)にとって、自身の味方がいることは心強い。もちろん、その人達にもヴィーガンになってほしいと強く思っている。しかし諸事情でヴィーガンになれない人達がいるのも理解できる。もしそうなら、せめて非ヒト動物の味方であり、そして自分の味方でもあってほしいと私は思う。特に、ヴィーガンに対する差別に直面したとき、自分だけでは抵抗できなくても、味方(アライ)とともに抵抗できるとき、勇気づけられることだろう。さらに、ヴィーガンのアライという存在は将来のヴィーガンを増やすことにもつながるはずだ。
よってヴィーガンのアライという存在は、今のヴィーガンがヴィーガンであり続ける上でも、将来的にヴィーガンになる存在を増やす上でも、重要な要因だと思う。
以上より、ヴィーガンのアライという存在は重要である。その理由は、まず非ヒト動物のアライを増やすことであり、同時に、ヴィーガンに対する差別に抵抗する人を増やし、さらには自分の味方が増えて動物搾取に抵抗するのに勇気づけられること、将来のヴィーガンを増やすことにもつながるからである。
まとめ
以上でヴィーガンのアライに関する理論的な話を終える。以上で見てきたように、第一に、ヴィーガンのアライは、LGBTQ+のアライとは性質が異なる。特にヴィーガンという属性を自発的に選択できる点、またヴィーガンそれ自体が非ヒト動物のアライであるという点で異なる。第二に、ヴィーガンのアライであることは、非ヒト動物のアライであることを必要とする。第三に、非ヒト動物のアライであると同時に、ヴィーガンのアライでもあることは重要である。
次の記事では、ヴィーガンのアライとしてできる実践について考える。
参考文献
Horta, O. (2018). Discrimination against vegans. Res Publica, 24(3), 359-373. https://www.academia.edu/38079152/Discrimination_against_Vegans
また「ヴィーガンのアライ」に言及している資料を以下に載せる。日本語資料としては、私が知る限り二つしかない。一つはEriさんのnote記事である。
もう一つはvegan allyという用語を提案した(と思われる)メラニー・ジョイの著作『ヴィーガンとノンヴィーガンのためのコミュニケーションガイドブック』である。本著作はヴィーガンのアライであることについて多方面から論じるだけでなく、ヴィーガンにとって、そして人間関係に関するハウツー本としても使える。
英語の記事や動画としては以下のものが参考になる。特にメラニー・ジョイが先導するBeyond Carnism(肉食主義を乗り越えて)という団体の記事や動画が参考になる。