ヴィーガンになったきっかけとその後
最近ヴィーガンになったきっかけを聞かれるので、自伝的な話として書いておく。
きっかけは、ツイッター上でのヴィーガンフェミ論争と呼ばれる議論を見たことにある。以下の記事を読めばわかるが、この出来事は、フェミニストを自称している人が「アイスクリームを食べたい」みたいなツイートをして、それに対してヴィーガン論客が「フェミニストなのに乳製品を食べるのは一貫してないのでは?」とリプをしたことに始まる。
(一貫してない理由は、乳製品はメスの乳牛に対する悲惨な行為の産物であり、「女性」である乳牛が悲惨なことをされてるのにその産物を消費してるのは「フェミニスト」として一貫してない、ということである。ついでに言えばアイスクリームには通常卵も使用されており、当然それは、メスの鶏に対する悲惨な行為の産物であるので、この点でも一貫してないという批判は成り立つだろう。)
これに続けて参加した、いわゆるツイッター論客とヴィーガン論客側の議論を読んでいて、明らかにヴィーガン論客側の議論が説得的だなと感じたのがきっかけだった。その中で「ピーター・シンガー」の名前が出てきて、当時所属していた大学の図書館で検索し、ヒットした『実践の倫理』を借りて読むことにした。本書が絶版なのが本当に惜しい。私にとっては今でも時々立ち戻る本である。
この本をきっかけにそれまでの生活がガラッと変わった。まずヴィーガンを始めたし、毎月の寄付も始めた。倫理学に興味を持ち始めたのもここからだ。
ヴィーガンになるための理由は反種差別だけで十分だった。『実践の倫理』には非ヒト動物が置かれてる現状についての記述がほぼない。あるのは、種差別が間違っていること、そのために肉食が間違っていることだけだ(その他の理論的トピックもあるが)。反種差別を素朴に解釈して受け入れるなら、人間を殺して食べるべきではないなら、当然、非ヒト動物を殺して食べるべきではない。工場畜産の実態を知ったのはその2ヶ月後くらいで、『動物の解放』を読んだときだ。
『実践の倫理』を読みながら、自分なりに種差別をどう擁護できるかを数日考えていたと思う。結局、反種差別を受け入れるまでに一週間ほど時間がかかり、受け入れた後には、3日ほどでヴィーガンに移行した。最初は肉をやめ、次の日に卵・乳製品をやめ、最後に魚をやめて、動物性食品を経った。
当時から社会問題への関心があったので、実践に移すのは当然のことだった。特に自身をバイセクシャルだと認識していたので(少し前までパンセクシャル/パンロマンティック、今はオムニセクシャル/オムニロマンティックかも、と自己認識が曖昧)、LGBTQまわりの議論に関心があったし、セクシャルマイノリティに対する差別に反対すべきだとも考えていた。たしかジェンダー論やフェミニズムの入門書を読んでいたのもその時期だ。だから、反種差別へのコミットメントさえあれば、その実践をするのは当然の帰結だった。自分がセクシャルマイノリティに対する差別に反対しているならそういう言説にコミットしない、という当然の実践をしていたし、私にとってヴィーガンになることはそれと同様の話だった。
このことからわかるように、実は当時は功利主義的理由からではなかった。『実践の倫理』には功利主義の片鱗がところどころ見られるが、ちゃんと論じられてるところはあまりない。私にとって重要だったのは、「利益に対する平等な配慮の原理」と、そこから出てくる反種差別である。利益に対する平等な配慮の原理は、その利益を享受するのが誰であるかに関係なく、利益に対して平等に配慮しなければならない、という平等主義的原理である。『実践の倫理』の議論はほとんどこの原理をベースにして進んでいる。この原理は今でも説得的だと思うし、これだけで反種差別には基本的に十分だ(例外的ケースを除けば)。
工場畜産の実態を一切知らずにヴィーガンになったケースを、今のところ私以外には見たことも聞いたこともない。たいていの人は工場畜産の実態を映像か何かで知って、その悲惨さに動機づけられてヴィーガンになる。私にはその必要は一切なかった。
例えば、クィアがどういう形で差別されているかを知らずに、クィアに対する差別一般に反対するのは容易なことだと思う(どういう実践が含意されるかはともかく)。同様に、非ヒト動物の置かれている現状を知らずとも、種差別一般に反対することは容易だし、少なくとも目の前にある実践、つまりヴィーガンの実践を遂行するのは容易なことだった。なんといっても、動物性の食品を食べなければいいだけなのだから。
ただ、この容易さには注意が必要だ。単に食べないことが容易だと言ってるだけであり、快適な生活を送ることまで容易だとは言ってない。むしろそれは全く容易なことではない。少なくとも日本ではヴィーガンオプションはほぼないし、都心部以外では絶望的なほどない。人付き合いにおいても大変な苦労がかかる。だから今でも苦労している。
多くの人が理論だけで実践に移れないということを知ったのはヴィーガンになって数年後だ。気づくのが遅かった。私にとって理論を受け入れれば実践に移るのは当たり前のことだったし(『実践の倫理』はまさにそういう本だったが、おそらく本書を読む前からそう思っていたと思う)、工場畜産の実態を知れば多くの人がすぐに移れるだろうと思っていた。だが想定が甘すぎた。理論を知ってそれに納得しても実践に移せる人はわずかだし、工場畜産の実態を知ったところで実践に移す人も多くはない。快適な生活を送れないからだ。
以前はヴィーガンになることを他人に要求することに躊躇がなかったし、そのせいで人間関係も全くうまくいかなかった。ヴィーガンになる前の友人はほぼいない。
今となっては他人に要求することはほぼなくなった(とはいえ文脈次第で推奨はするし、種差別的な発言には可能な限り批判するようにしている)。要求しなくなったのは、他人の苦労をなんとなく察するようになったからだろうし、おそらく諦めが原因でもある。個人的な努力だけでヴィーガンであり続けるのには限界があるのだ。ただこれには私も未だに悩んでいる。私ではない他者が今まさに殺戮され続けているのに、私がそれに対して反対することを他人に要求してないのは不正義なのではないか、と自問することはある。でも要求したって他人は変わらないから、結局、その場での種差別的言説を批判するくらいがその場で有効なことなのだろうと思ってる。たぶんこの悩みはヴィーガンやその他の反差別にコミットしている人なら共感してくれると思うが、どうだろうか。
無難な回答だが、結局は、個人の説得よりもおそらく、社会を変えなきゃいけないのだ(社会を変えるには個人を変えなければならないというのに!)。
今では動物倫理学の研究を通じて、社会を変えていければと思っている。