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新婚旅行記 五日目

朝はやくに目が覚めてしまう。時計を見るとまだ4時過ぎだ。
いまだに日本の時間感覚、身に沁みた概日リズムをひきずっているのだ。
時差ボケは、真夜中まで起きて、早朝に目覚める感覚になる。睡眠不足感が否めない。
日本にいるときもそうだが、深夜まで起きていると、やたらと屁がでる。理由はよくわからない。腸の働きが低下するのかもしれない。
概日リズムを守ることで、ひとつ健康が保たれているのは間違いなさそうである。
おまけに睡眠不足では精神的にも悪影響があるのはこれまでの人生で明らかなことである。
そういうわけで、あまり万全ではない体調でフィンランド3日目の朝を迎えた。

まだ日が昇らないうちに、朝食へ向かった。なにせ、動物園へ行くバスの時間がそれなりに早いのである。
朝食は昨日と同じビュッフェだった。
ただ、昨晩から新たに泊まってきた客がいたことで、にぎわいはわずかに増加した。私と同じで日本人客は早起きしたのだろう。昨日見た顔がそろっていた。

朝食を終えて外に出ると、日が昇り始めていた。とは言っても天候は曇りである。
全体的に明るさは増したが、うっすらと積もった雪の白さと灰色の雲により色彩はむしろ失われていた。なんだか幻想的だ。森の中に迷い込んだような錯覚を抱かされた。

荷物をまとめて、レセプションに向かいチェックアウトを済ませた。
昨日のうちに、イグルー内にあるタブレットを経由して、タクシーの手配は済ませていた。ほぼ時間通りにタクシーはやってきた。
今回の運転手は頑固そうなベテラン感の漂う初老の男性であった。運転は比較的荒く、スピードもかなり出していたように思われる。それでも無事にロヴァニエミ駅に運んでくれた。運転手は最後にキートス、バイバイと言って笑ってくれた。現地の人とのささやかな交流である。
市内の方は雪が積もっていなかった。イグルーのある所は少し標高が高かったせいだと思われる。

駅のコインロッカーにスーツケースを預けた。ここで初めてユーロコインを使うことになった。あとはトイレのチップで使うくらいで、本当にクレジットカードだけでなんとかなった。

身軽になって、駅から少し歩いたところにあるバスステーションへ向かった。今日行くラヌア動物園というところにはバスに乗って1時間半くらいで行ける。なんでもフィンランド最北、世界でも2番目に北に位置する動物園とのことである。
バスステーションはこぢんまりとした建物で、スキー場にあるロッジのようなところであった。待合にはベンチと小さなテーブルが4つほどあり、客はまばらで、地元客がほとんどを占めていた。
併設されていた小さな商店はコンビニの様であった。

やがてバスがきて乗り込んだ。事前に調べていたとおり往復チケットを購入した。日本で言うリムジンバスのような感じで、暖かく心地の良いものであった。こちらのバスでは運転手が自由にラジオを聴きながら仕事をしており、気を張らずにのびのびと仕事しているなと思った。

バスは秋のフィンランドを走る。木々は落葉したものも多かったが、黄色い葉をまだ抱えたままのものもまばらにあった。やがてここらの地域は深い雪のなかへ沈んでいくのだろう。
森と湖の間をバスは駆け抜けていく。緩やかなカーブを繰り返すが、起伏はほとんどない。農場のようなところもあり、トナカイが飼われているようであった。
次第に水分を多く含んだ大粒の雪が降り出してきた。前方の窓を覗くと、空中に白い線が入り乱れて視界が悪くなっていた。こちらではスタッドレスタイヤにもう履き替えているのだろうかなどと少し不安になった。秋の様相であったのにいつのまにか冬の景色のど真ん中である。
前方に座る乗客は珍しそうに外の写真を撮っている。私は故郷を思い出すのであった。雪景色を見ると、心が落ち着くのは北国育ちであるからだろう。なんとも懐かしい、ノスタルジーが湧き上がってくる。

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人家などもない、雪降る森の中で降ろされた。どうやらここが動物園であるらしい。
エントランスは小さく、お土産屋さんのレジで入場チケットを買う。ここでも日本語のパンフレットをもらえた。

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園内は完全に森である。
木の板で作られた道を進んでいくと、動物たちに会えるという作りである。
これは日本のどこにもない展示方法であり、とても良い展示方法である。
人間のために動物たちを一箇所に集めて展示するというより、我々人間が野生動物に会いに行くという感覚である。あるいは自然そのものを感じる場所とも言える。

各動物に与えられている敷地が大きいこともあり、来場者は遠くから動物の姿を見るしかない。それでも、隠れている動物を探すのは楽しいし、たとえ見つけられなくとも不満が残らないから不思議である。
動物を見に来るだけの人は不満であろうが、自然を感じるという目的で来ておれば、もうこの場所にいるだけで満足なのである。
それでも欲をすべて無くすことは難しく、真っ白なホッキョクキツネに会えなかったのは少し心残りであった。ホッキョクグマには遠目から会うことができた。

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一番面白みがあったのはブラウンベアである。
熊というものはテディベアのようにすれば大変にかわいいモノであるが、実物の熊というのは恐怖を感じて仕方がないものである。たとえ小さな小熊であっても、出会うと少し身構えてしまうものである。ここの熊はとっくに成人した大人の大きな熊であった。しかし愛嬌が溢れて仕方がないのである。仕草が可愛くて可愛くて、もう愛らしいのである。なにかパンダ的可愛さがあるのである。どかっと座りこんで、自分の背丈ほどもある木の枝を抱えこむ姿に我々はおおいに癒された。

この動物園にいた客にも日本人が多かった。どこかこの近くに泊まっているのだろうか、女学生の団体やら、おばさまの集団がいた。
昼食を食べたカフェで、これらの団体と一緒だった。

帰りのバスは16時過ぎであった。時差ボケの治らない私は次第に起きているのがつらくなってきた。
バスに揺られているうちになんだか気持ち悪くなってきた。乗り物酔いの状態に似ているがそうではないようにも思う。
朝いたバスステーションに戻ってきた。もう何日も旅をしてきたような気分である。気持ち悪い状態なので、少し休憩させてもらうことにした。妻がミネラルウォーターを買ってきてくれた。
気持ち悪いだけでなく、神経が高ぶって過敏になっている。もはやここが安全な場所ではないように感じられた。
脳機能が低下している。特に意思決定を司る前頭葉がまともに働いていないのがわかる。何も考えられない。とにかく安全な場所にいきたいという思考だけが漂う。おまけに気持ち悪い。なにも考えられない。なにも決められない。
これにはいくつか要因がある。まず、時差ボケのせいである。日本時間では夜11時を過ぎているのだから、もう睡眠圧が高まり、思考力が低下するのは必然である。それに加えて、この3日ほどの寝不足もある。
そして、気付かないうちに、というより、強く意識はしていなかったのだが、刺激を受けすぎた。HSPとして、刺激の管理が甘かった。いや、見積が甘かった。なんとかこの旅行は耐えられると思っていた。しかし、実際の私は思ったよりも弱かったのである。
知らない土地、知らない文化、知らない人、知らない言葉。はじめての海外旅行は、これら未知のものに対処し続けたために、じわじわと体力と気力をすり減らせていくものだった。

限界に陥った私は、もう無理と言うしかなく、ただ安全な場所と睡眠を求めるだけのゾンビのような徘徊者となった。その際、これ以上刺激に対して反応しないように一切の思考と感情を放棄するようになるのである。いわば外界との交渉を完全に絶った状態である。この状態に陥ったらよく眠る以外に回復の方法は今のところないことがわかっている。

かといって、ヘルシンキに向かう寝台特急まではまだ2,3時間ある。この待ち時間が今回の旅行で一番つらい時間であった。一緒にいる妻にもつらく、悲しい思いをさせてしまった。
この時私は、私の脳は、新しいことに挑戦する気を失ってしまった。それでも、こんな状態の私を引っ張ってくれた妻には本当に感謝している。
地元のスーパーマーケットで一緒にパンを買ったが、まともに夕食をとることができる精神状態ではなく、寝台列車に乗った。とにかくはやく眠りたかった。

サンタクロースエクスプレスという名の寝台特急。これがなかなか閉口ものであった。体力健康万全の状態であればおもしろみを感じたものであろうが、今は疲弊し、なによりも休息が必要な時である。
まず、狭い。そして揺れる。さらに隣の部屋がうるさい。シャワーもついていたが、狭くて今の精神状態ではとても使えるものではなかった。歯を磨いたらすぐに眠った。

日本でも、出張後とかセミナーや研修後、刺激過多で同様の状態に陥ることはある。その時は自宅の安全な環境で即座に眠ることができるが、旅行先でこうなると本当に大変な思いをすると学んだ。
それでもやはり妻の存在は唯一のやすらぎであった。二段ベッドの上に居る妻のことを考えると、少しずつ気持ちが上向いてきた。
私がこういう状態に陥ってしまうと、一緒にいる彼女に悲しい思いをさせてしまうのは申し訳がない。私がもっと頼りになる男であればいいのにと思いながら眠った。

そもそも妻がいなかったら外国なんて危険が満ちていると思われる場所に行こうなんて思わないのである。彼女がいたから、彼女と一緒であるからこそ勇気が湧いてくるわけで、本当に妻の存在には感謝しかないのである。おかげで自分ひとりでは決してできなかった冒険が一緒にできるのだから、今のところはそれが最高の喜びのひとつである。

特急列車はヘルシンキをめざし、寝静まったフィンランドの夜を滑り落ちて行った。

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