私が生きやすくなるためにやったこと
考え方とかものの感じ方が変わるのは少しずつなので、変化の差分って案外意識する機会が少ないけど、そういえば随分最近生きやすいなと気づきまして。
そりゃそうだ最近いいことづくめののろけまくりじゃないかと思うけど、どっちが先かというと、生きやすくなった方が先。これ間違いない。
じゃあ、生きやすくなったのってなんでだったっけ?と思い返すと、かなりいろんなことをした。
これがメソッド化できるんだったら速攻パッケージ化して私は億万長者になるところなんだけど、残念ながら生きづらちゃんが生きやすくなるためのプロセスは二つとして同じものがない。なので、あくまでご参考まで。
(注、好き勝手に書くよ)
猫を飼った
実家で小動物以外飼ったことなくて、一人暮らしなのに、3年半前のある日保護猫を引き取って育て始めた。今思い返すとあれが結構転機になったんだな。猫ちゃんつないでくれた会社の先輩とそのご友人のボランティアさんの励ましがかなり背中を押してくれた。
で。たかが猫されど猫、自分が世話をしないと死んじゃうんだけど全然思い通りにならない、しかし鬼カワイイ生き物を迎え入れたら、私の母性が爆発した。お離婚を経験してから2年ほど、私には人間らしい感情が欠落しているのではないかとかなり自信喪失していたところを、全部すっ飛ばしたのがお猫様だった。自信回復。
カウンセリングに通った
私はかなり西洋流(?)に、メンテナンスの意味でカウンセリングに通う人間です。ここでいうカウンセリングは、ちゃんと心療内科に併設されている、臨床心理士さんがやっているカウンセリングね。
最初のご結婚中は、所帯を持っている人間がカウンセリングに通っているような状態ではいけないと通院を控えていたのだけど(今思うと意味不明かつ自殺行為)お離婚で直面した精神的危機で、観念してちゃんと通い直した。
はっきり病名の付くような病気は思春期の摂食障害以外経験せずに済んでいるけれども、生きづらちゃんはいつでも「未病」みたいなものなので、やっぱりサボらず通った方がいい。
なおカウンセリングは基本的に即効性は無いと思って受けた方が良いです。サボっていた期間も入れるともうかれこれ10年以上同じ先生にお世話になっていて、それでも効果が出てきたなと感じるのはほんとにこの3年くらい。先生との相性というのも、そんなわけでなかなか即断はできません。でも、10年以上通っていると、先生と気心が知れてくるからおのずと相性も良くなるし、臨床的観点からの自分のデータベースはここにしかないので、ゼロからほかの病院にかかろうなんて気にはとてもなれない。あとから語るんじゃなくて、リアルタイムを臨床的観点から観察してもらって出来上がったデータベースを預けている安心感というのがあるんだ。
カウンセリングを勉強した
自分がクライアントとしてお世話になっていてその意義も体感しているので、一時は臨床心理に関心を持ったりしたけど、やっぱり私はクライアント側の人種なので、その道に進むことはしなかった。多分これ仕事にしても続かないなと思ったので。その代わりに、自分のために、民間のカウンセリングを勉強した。
民間のカウンセリングについて、私は未だに半分は懐疑的、半分は資格の有無にかかわらずやっていることのエッセンスは同じ、という可愛げのないとらえ方をしています。
これについて説明するのは超長文になるので控えるけど、民間の無資格のカウンセラーさんでもすごい人はたくさんいる。で、そういうことに興味のある人たちが集まって一定期間せっせとケーススタディをやるので、自分の問題点とか、同じ門下生の問題とか、すごく一生懸命考えるし向き合うし、ケアしあうことができる。
カウンセリングを受けるだけじゃなくて勉強したのはすごく大きかったなと思う。あと、私はそれまで非科学的なことにちょっと神経質なまでに拒否感をもっていた(今もスピは好きじゃない)けど、やっぱり理屈で説明できないことが人の心においては本当に大事なんだということがよくわかった。
怒りまくった
5年前くらいお離婚に加えて生まれて初めて人にイビられて、一気に危機的なことが起こってきたんだけど、たぶん嫌われることを恐れていい子ちゃんを30年以上続けていた膿が出たんだと思われる。
と、正当化しているけど、こと生まれて初めてイビられたのは大変に心外で(会社の人だった。今でも怒ってる)それを機に私は怒るべき時には怒るようになった。それはそれで大人げないとは思うけど、それまでの膿だからもう出し切るしかない。
会社を辞める頃くらいまではちょっと性格がキツイ方に振れすぎた時期もあって、それはそれで今思えば自分もストレス・周りのストレスになってたので反省だけど。そしてそんなに怒る価値もない出来事だったんじゃないかとか、いまなら思うけれども。イビりって…やる側が可哀想な人っていうパターンじゃん。そこにエネルギー割くのすら勿体ない。悪いけど。
けど一度振り切れたらそのあとは前よりずっと言うべきことは感情的になりすぎずちゃんと言えるようになった。元が下手すぎたんだな。そういうことがなくても、加齢に伴って今頃図々しくなっていたのかもしれませんが。
プライドを捨てた
進学校の副作用でずっととらわれてきた、なんか立派じゃないといけないみたいな強迫観念もこの3年ほどでだいぶ捨てられた。
そもそも立派の定義があやふやで。まあ正社員は外せませんよねとか、この歳なら何某かのポジションを築いていないととか、結婚してないととか、色々あるけど全部盛りするつもりだったんだろうか、私。何一つできていないのに!
そもそも生きづらちゃん過ぎて仕事も続かず挙句結婚生活も続かなかったあたりでもう疲れ果ててどうでもよくなっちゃって、同級生たちの立派なところばかりを集めて作り上げた「あるべき像(但し虚像)」は捨てました。
もちろん、ただどうでもよくなっただけじゃなくて、どうも人のよさそうな面ばかりが目に付くだけで誰もが何かしら大変らしいことが年齢を重ねて分かってきたとか、猫ちゃんやらカウンセリングを通して人間としての根本的な自信を回復したおかげで人間の価値は社会的な部分だけで測るものでないと心から思えるようになったという人間的成長によるところも大きい。
降ろして初めて、背負っていた荷物の重さが分かるということもあるもんだなと思う。プライドは重いです。密度が異常。
自分の気持ちを把握しておく
自分の気持ちなのに把握ができないって、結構生きづらちゃんあるあるだと思うのだけど。「かくあるべき」が動機だからいけないのかしらね。
あるいは、嫌だってはっきり自覚してしまったら嫌なことが本当に嫌になっちゃうから防衛なのかもしれない。
人間的自信が培われてくるうちに、嫌なことを嫌だなと認めても、そのあとそれが回避しきれなかったとしてもこの世の終わりではないくらいの余裕はできてきた。(逆にどれだけ怖がっていたんだと思うけど)
自分の気持ちが把握できると情緒も安定するんだな。
まとめちゃう
見返すと、多分生育の過程で健全な自尊心を自然に養った人にとってはヤバい奴って感じがするけれども…ほんとにこれが必要だったんですって。
現役生きづらちゃんの方に、多少なりともご参考になればいいと思うわ。
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