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映画『すばらしき世界』〜何も分かっていなかった〜

映画『すばらしき世界』。

あさイチで西川美和監督の話を聞いて感銘を受けたこと、そして「高齢受刑者の出所後の人生」は、私が長年強い関心を持つテーマだったことがきっかけで、必ず観ようと心に決めていた。

大学のゼミの授業で、府中刑務所を見学したことがあった。その時見た受刑者達の虚な瞳、想像を絶する塀の中での生活の様子は、強く脳裏に焼きついている。

講演会で、長期間服役し高齢になった受刑者が出所してもすでに社会に居場所はなく、約5割が再犯により戻ってきてしまう、という話を聞いて愕然とした。あまりにも希望のない世界だと思った。

今の日本は、一度でも失敗を犯した人間をリンチして徹底的に排除し、やり直しの機会すら与えない息苦しい社会だ。
もちろん罪は罪だし、被害者や遺族の想いを考えたら浅はかなことはとても言えない。
それでも、人生のやり直しは、本当にできないのか。
会う人や環境によって、もう一度生まれ変われるのではないか。
そんなテーマでドラマを作ってみたいと、就活時には本気で企画案を練ってTBSに持ち込んだこともあった。

私はこの問題について、人よりも知っているし、理解している。愚かにもそう考えて映画を観始めた。



とんでもなかった。私は何も分かってなどいなかった。

広い社会の中で見ると、自分がかなり恵まれた特殊な環境に生きてきたことを少しずつ実感したからこそ、異なる生い立ちや価値観を持つ人のことも偏見なくフラットに受けとめようと努めてきた。
でもやはりそれは、薄っぺらい偽善でしかなかったことを強く突きつけられた。
後味の悪い、強烈な罪悪感に苛まれ、劇場が明るくなった後もしばらく席を立つことができなかった。


(この後ネタバレを含みます。未見の方はご注意ください。)






三上にとっての「すばらしき世界」とは、彼の人生とは、一体何だったのだろうか。
彼はまだ何も成し遂げてはいなかった。
明るい方向に向けて動き出してはいたが、まだ何ひとつ解決していなかった。
こんなにあっけなく突然に、人生は終わるのだ。
それが現実だ。

八方塞がりの人生の中で三上に温かく手を差し伸べた人たちの優しさは、彼の人間性を生かしたのか。
もしかして、殺したのではなかろうか。
彼らが与えたド正論や同情やお金は、本当に三上の心を救えていたのだろうか。
衝撃的なラストシーンを目の当たりにして、疑問を持たずにはいられなかった。

役所広司さんの熱演により、三上はまっすぐな少年の心を持ち、屈託のない笑顔がどこか憎めない不思議なキャラクターだ。しかし時折見せる狂気の目、突然激昂し獣化する姿には思わず後ずさってしまったし、信用できない、と感じてしまった。
自分の人生で出会うことのない、出会いたくもない、異なる人種だと思った。

三上がついカッとなる時は、弱者を放っておけない時だ。親に捨てられ戸籍もない彼を家族同然に迎え入れたのは、暴力団だった。自分を守り、助けたい相手を守る方法は、彼には拳しかなかったのだ。
それが彼にとっての正義であり、誇りだった。
もっと頭を使え、暴力ではなく言葉で訴えろ…そう心の中で懸命に祈るが、教育を受けてこなかった彼にそんな器用なことができるはずもない。
そのことに気づいてまた絶望する。

しかし同時に、血なまぐさい暴力よりも、弱者を蔑み差別する冷たく見下ろす視線と言葉の方が、よほど恐ろしいと感じた。
直視できないほどの差別に対し怒りをぐっと飲み込んで笑顔を見せた三上は、爛々とした瞳で人を殴っていた時よりも数倍痛々しかったのだ。
そして初めて「人間性を、捻じ曲げた」時、三上の命は尽きることが決まったように見えてならない。


自分の中の善悪の概念が大きく揺らいだ。
私は社会の、人間の何を知っていたというのだろう。単純な価値判断では語りきれない、生きるためになりふり構わず必死にもがく人々の姿がある。

私に一体何ができるのだろう。
今は、こうして知ることしかできない。
「商品ではなく作品として」心に訴えかける映画がここにあるということを、叫ぶことしかできない。

原案となった小説は佐木隆三著作『身分帳』。
月刊『シナリオ』3月号ではシナリオ全編が掲載されている。未公開シーンにはカットした意図を強く感じられるし、印象的なセリフが現場から生まれたものだと知れたり、鳥肌の立つト書きが散りばめられていたりと、非常に読み応えのある脚本だった。

ちなみに海外に出品された際の英題は、
"Under The Open Sky"だそうだ。
娑婆の広い空の下は、果たして天国か地獄か。

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