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みーくん と てつぼう

私は逆上がりができない。
小学三年生の頃の話だ。町の神童を自負していた私にとって、それはとても屈辱的な事だった。

とびばこ、うんてい、てつぼう。
小学校における「三大できない奴はダサい競技」だ。
この三つは、測定の日に3、4人ずつ前に呼ばれて実技を見せる。つまり、背後で三角座りしたみんなが見ている。足が遅いことよりも、水泳のバタ足が前に進まないことよりも、この三つができないときは、できないことが目立ってしまい、恥ずかしい思いをする。

私は体育が苦手だ。
それでも私は負けず嫌いなので、跳び箱と雲梯は昼休みに練習してクリアした。しかし、今回の逆上がりはどうしても苦戦しており、そのせいで最近の体育が本当に憂鬱だ。
シーズンの終わりに測定があり、そこでできなかったらみんなに笑われる。
測定の日まで、もう一週間を切っていた。

その日の体育では、ついに逆上がりができない人が集められ、先生が特別メニューを出してきた。
鉄棒の前に反り返った木の足場を置かれ、それを使って逆上がりのコツを掴めと言う。しかし、補助輪付きの自転車が乗れても、すぐに大人と同じ自転車に乗れるようにならないのと同様に、足場付きの鉄棒で逆上がりができても、ピンとくる感じはしなかった。
変化といえば、既に逆上がりをブンブンできる男子から「ダッセー」とか「逆上がりできなやつはザコ」と言われるようになった事くらいだ。

昼休みに練習しているとはいえ、このままでは逆上がりができるようになる気がしない。これ以上は平日の放課後を返上するしかないと思った。
神童を名乗るからには、いくら体育が苦手とはいえ、逆上がりぐらいできるべきだ。覚悟を決めると、いやいやながらも両親に外出許可を取り、放課後練習に行くことにした。

学校の校庭では例のウザい男子が教えていると聞いたので、そこで練習するのは死んでも嫌だった。そこで、学区の端にある「さいはて公園」まで行って誰にも見られないように練習することにした。

さいはて公園は、文字通りさいはてにある公園だ。学区の隅の、ほとんど田んぼしかない所にポツンと建った神社があり、そこに併設されていた。その神社がかなりボロボロで不気味な事に加えて、遊具が鉄棒と砂場だけという地味さだったために、ほとんど誰も寄り付かない。

しかし、実際に公園についてみるとみーくんがいた。

(みーくんほどの人物がなぜここへ?)

私の頭の中は疑問符でいっぱいになった。
みーくんはすごいサッカー小僧だ。その実力は学年1と噂され、体育の時間におけるみーくんの活躍はいつも、隣のクラスの私のところまで流れてきていた。

(ちぇ、ここまでくれば誰もいないと思ったのにな)

公園の入り口から自転車を乗り入れて、鉄棒のそばに止める。みーくんに挨拶もせず、ずんずんと一直線に鉄棒へ向かった。鉄棒のところにいたみーくんが、何とも言えない表情でこちらを見てくる。

ズッ……ベタッ。ズッ……ベタッ。
私はみーくんを無視して、ひたすら鉄棒に向かった。地面を蹴っては、身体が1/3も回らない状態で腕が伸びて体が落ちてしまう。

20分ぐらいそうしていただろうか。ジッとこちらを見たまま微動だにしなかったみーくんが、ようやくここで口を開いた。

「おいおまえ、無視すんな」
「なに?」
「なにしてんの」
「逆上がり。暗くなる前に帰らないといけないから、あんま時間ないの」
「おまえ、できないの」
「うるさい! 見たらわかるでしょ」

嫌なことを聞かれて腹が立ち、感情に任せて語気を荒げると、みーくんは黙ってしまった。黙ったまま、ジッとこちらを見つめてくる。何を考えているのか分からなかったが、どうせろくな事じゃないんだろうと思った。ちょっと運動ができるからって、むかつく奴だ。

逆上がりの練習を中断すると、じくじくと手のひらの痛みが頭をもたげてきた。やだなあ。なんで皆にできることが私にできないんだろう。
あまりにも痛いので手のひらに目をやると、三つ目の豆がつぶれていた。ふーふーと手に息を吹きかける。痛いやら情けないやら、少し泣きそうな気持になった。

「オレ帰る」
じっと黙って何もせずにこちらを見ていたみーくんは、唐突に踵を返すとそう宣言した。私はあわてて、その背中に向かって叫ぶ。

「ちょっと!……あんた、私が練習してたの言わないでよ!」
その声が聞こえたはずなのに、みーくんは何も言わず自転車にまたがると、そのままどこかへ行ってしまった。

翌日。みーくんがいつ私を笑いものにするかと思って、ビクビクしながら過ごしていたが、みーくんは秘密にしていてくれたようで、特に何事もなく一日が終わった。
彼が何のためにあそこにいたのか考えていたが、私に関係なさそうなので「もうどうでもいいや」と興味を失った。そんなことよりも「私は今日も闇練をするぞ」と気持ちを切り替えて、学校からさいはて公園に直行する。

しかし、またみーくんが公園にいた。
忘れようとしていたのに、なんでまたいるの、と少し腹が立つ。
何か言われたら恥ずかしいので、今日もまた無言で鉄棒のところまで行った。そのまま鉄棒に手をかけると、「今日こそは」と思いながら強く握る。

「……おい」
私が動き始める前に、横から声がかかる。なに、と思ってそちらを向くと、何か言うよりも先に、鉄棒をにぎったみーくんが地面を蹴った。

ズッ……ベタッ。
見事な失敗である。
私は固まってしまった。え、と思って言葉を失う。
そんな私をしっかり見て、みーくんはもう一度地面を蹴った。

ズッ…………ベタッ。
今度は少し惜しかった。2秒ぐらい腰が上がっていて、もう少しで成功しそうだったが、重力に負けて腕が伸び、足がついてしまった。

「みーくん」
「兄ちゃんがさ」
私が何か言うのをさえぎるようにして、みーくんが言った。
「兄ちゃんが、鉄棒は腕力じゃないって言うんだ」
言いながら、また鉄棒を握る。右足を心持ち奥の方に置いて、左下を少し引いたところに置いた。
「最初にこうやって足を開いて、足を上げるって言ってた。自分の頭をサッカーボールみたいに思って、それを蹴るようにするんだって。それで……」
言いながら、みーくんがふいっと視線を外す。
「それで?」
「腕をおへそに向けて引くように……こう」

みーくんが地面を蹴る。
ズッ……ベタッ。
失敗だった。

「腕を曲げ続けるイメージで……こう」

もう一度地面を蹴る。
ズッ…………ベタッ。
やっぱり失敗だった。

惜しいところまで体が上がっている気がするのだが、やっぱり身体が前に行ってしまって、最後に腕が伸びる。そのまま地面に胡坐をかいて座ると、みーくんはハァ、とため息をついた。

「なぁんかムリなんだよなぁ」
なんでだろ。呟くようにそう言って、首をかしげながらこちらを見上げる。その顔には純粋な疑問が浮かんでいて、羞恥心とか、焦りは感じられない。

私は言葉が出なかった。
みーくんといえば、運動神経だ。私の学年では有名人だった。だから、逆上がりなんて練習しなくても一発で成功させる人だと、勝手に思っていた。
しかし、実際には彼も逆上がりができなかったのである。昨日も一人で練習しに来ていたんだろう。

なのに、なんでこんなに余裕がありそうな顔をしているんだろう。期待の大きいみーくんだからこそ、プレッシャーを感じたりしないのだろうか?
私には不思議で仕方なかった。

「オマエさぁ、たぶんフォームが悪いよ。」
「自分だってできないのに、なにいってんの」

私の事を指摘されると思っていなかったので、反射的に攻撃的な事を言ってしまった。言ってからしまったと思ったが、もう遅い。ここで初めて、みーくんがムッとした表情をした。

「話きけ。オレ、サッカー習ってるんだけど、フォームばかにする奴は絶対サッカーできるようにならねぇんだぞ」
「絶対?」
「絶対。あと話聞かない奴もクソ、絶対うまくならねぇ」
「……。」
「それで、オマエはフォームが悪いと思う。地面を蹴った後すぐに手が伸びてる。力入れてないだろ」

内心、ギクリとしていた。途中から疲れてきて手に力を入れていない事もそうだったが、一番は自分が話を聞いてないと言外に言われたことの方にドキッとした。お母さんにもよく、そんな風に言われるのである。
クソと言われてちょっとムカついたが、しかし正しいことを言っている気もしたので、私は黙って鉄棒を握った。

「足を前に出して、……」
「そう。それで、後ろに向かって蹴るイメージで」

ズッ………ベタッ。
失敗だった。しかし今回は、少しだけ今までと違った気がする。

「おお」
みーくんが、隣で歓声なのか溜息なのかよくわからない調子で息をついた。
「ちょっと良くなった気がする」
「……おう」

そこからは、時折お互いにフォームを見つつ、タイミングをつかむために、少しずつ動きを変えながら練習した。昨日と同じような練習風景だったが、今日はひりつくような焦りはなく、二人で一緒に練習する心強さが気持ちを楽にしていた。


また次の日、放課後にさいはて公園へ行ったら、あたりまえのようにみーくんがいた。しかし昨日までとちがい、みーくんの隣に今日は知らない大人が立っている。

「今日はコーチがいる」
「だれ?」

そんな話は聞いていない。というか、なんで当然のように毎日ここに来るんだろう。しかし、言っても仕方ないので、そのままチロッと視線を動かすと、こんにちは、と挨拶した。
私は神童なので、きちんと挨拶ができる。

「こんにちは、みーくんの兄の康太です」
「兄ちゃん、オレとこいつのフォーム見て」
「うん。……まず僕が逆上がりするから、最初に二人とも見て欲しい」
お兄さんは、ちょっと高いほうの鉄棒の前に立つと、こちらを振り返った。
「まず親指だけを向こう側に置いて、鉄棒を上から握る。そのあと、右足を前に出しておいて、その足を先に蹴り上げるんだ」
言いながら、足をブンブンと振る。
みーくんと私は、真剣な顔でそれを真似した。

「右足に勢いがついたら、次に左足で地面を蹴る。足が上がったら今度は腰を鉄棒に引き寄せるようにして、最後に背中をピンと張ると、逆上がりができる」

いち、にっ!
掛声とともに、お兄さんの体がくるんっと回った。体育の先生はかなり筋肉があるからいかにも出来そうだったけど、そんなにガッシリしていないふつうの大人でも回るんだ。重力に逆らってふわりと回る、その姿がなんだか光って見えた。

「こんな感じ」
くるりくるり。お兄さんは軽快に何度か回って見せてくれた。おおー、と歓声をあげ、二人で拍手する。

「私もやってみたい」
「オレも」
今度こそ。ギュッと鉄棒を強く握ると、お兄さんの動きを強くイメージしながら地面を蹴った。

いち、にっ!
ズッ…………ベタッ。
そんな簡単にはできるようにならない。かなりおしくなってきているが、今度もまた、二人とも失敗だった。

「もうちょっとな気がする」
ぐーぱー、と開いた手を眺めながら、そんな風に思う。空中でだいぶ留まっていられるようになったみーくんも、隣で悔しそうな声を上げていた。

「おしいなあ」
お兄さんはジッと考え込むようにしてこちらを見ている。

「二人とも、あともうちょっとな気がする。足を振り上げて、身体が上がったなと思ったら、空中で足を軽く曲げるんだけど、その時に腰を使って鉄棒に巻き付くように出来たら、もう回れると思うよ」
巻き付く、と言われてもピンと来ない。うーん、と首をかしげていたら、お兄さんがニッコリした。

「じゃあ、とりあえずイメージを作るために、補助ありで回ってみよう。掛声に合わせて動いてくれたら、僕が背中押してみるから、それに合わせて回ってみて」
ひとりずつね、と言いながら、お兄さんが私のところに来る。こくり、と頷くと、また鉄棒に手をかけた。

「いち、にっ!」
掛声に合わせて順番に足を蹴ると、お兄さんが背中を押してくれる。いつもは足が振りあがったところで失速して、ぽてんと地面に落ちてしまっていたが、今回はそのタイミングで背中をキュッと押された。体がクンと持ち上がり、それに合わせておなかに力を込めて足を引き寄せる。
ぐるんっ、と大きく体が回った。逆さまだった景色が大きく回って、みーくんがこちらを見上げているのが見える。
初めての景色に感極まり、鉄棒の上で一回転した後の姿勢になったまま、キョロキョロと周囲を見渡す。

「できた……」
その声に、「いや、まだできてねぇよ」とみーくんが茶化してくる。「もー」というと、みーくんが笑った。

「次はみーくんね」
お兄さんが横に移動する。
同じように背中を押されて、みーくんもくるんと逆上がりした。私と同じ姿勢になって、あたりを見回す。

「おお……」
みーくんはそのまま目を閉じると、すぐに地面に降り、キュッと鉄棒を握りなおすと、また地面を蹴った。

いち、にっ!
お兄さんと同じ、きれいなフォームだった。

足は今までと同じくらいしか上がっていないように見えたが、今度は足が上がりきったところでキュッと腕と腰に力が入り、身体が落ちる前に奥に動いた。くるん、とかろやかに回ってゆく。

「あっ、オレできた」
鉄棒の上で、みーくんがニッコリした。みーくんが急にできるようになったので、私はびっくりした。なんだかおいて行かれたような気持になる。
あわてて私も鉄棒を握りなおすと、掛声に合わせて地面を蹴った。

いち、にっ!
ズッ…………ベタッ。
やっぱりできない。

ツンと鼻の奥が痛くなる。まずい、泣きたくない、と思って、あわてて口を開いた。

「みーくん、できたのにまだ帰んないの?」
あんたは出来たんだしさっさと帰れば、と拗ねた気持ちで言う。するとみーくんは、少し黙った後、そっぽを向いて何か言った。

「……やるよ」
「えっ、ごめん、なんか聞こえなかった」
「オレさ!最初はおまえに何か教える気なんて全然なかったんだ。でもおまえ、毎日公園に来て頑張ってんじゃん。……だから手伝ってやるよ」
少し大きな声でそういうと、むこうを向いていたみーくんが、くるっと振り返ってこっちを見た。そして、しっかり私の目を見て、また口を開く。

「手伝ってやるって言ってんの。がんばれ!」
私はびっくりした。
両親以外に、こんなにしっかりがんばれと声をかけられたのは、初めての事だった。

「にーちゃん、もっとなんかコツないの」
二人でお兄さんを振り返る。
注目されて、「ええ~」とお兄さんは困ったように一歩後ろに下がった。腕組してすこし考えた後、「そういえば」と前置きしながら、こんどはこちらに歩いてくる。

「こうやって、鉄棒に5秒ぐらいぶら下がれる?」
お兄さんが軽く腕を曲げて鉄棒にぶら下がる。結構筋肉が要りそうで、できるかわからない。
試しにやってみたら、辛うじて腕を曲げた状態で鉄棒からぶら下がることが出来た。

「ああ、できてるね。じゃあ多分、できるよ。後はタイミングだと思う。左足が上がったあと、しっかりおなかで鉄棒に巻き付くイメージできてる?」
「うーん……自信ない……」
「こうだぜ!こう!」
ピョン!ピョン!とみーくんが跳ねる。くるり、と回りながら、タイミングを教えてくれた。

「兄ちゃん、あの補助のやつもう一回やってよ!」
みーくんの言葉にかぶせるようにして、「おねがいします!」と大きな声でお願いした。

「おっけー、いくよー!」
いち、にっ!
「いま!」

みーくんがおなかに力を入れるタイミングを教えてくれる。お兄さんがちょんと背中を押してくれたのを感じて、キュッと足をおなかに寄せると、くる……りん!と、さっきより不格好だったが確かに回ることが出来た。

「いま、僕ほとんど力入れなかったから、ほぼ回れてるよ!後ホントにもうちょっとだと思う。ガンバろ!」

こくり、と頷く。続けてもう一回、二回、と補助ありで回った。

(確かに、前よりわかってきてる……!)

我ながら、みーくんのいう所の「フォーム」が、よくなっている感じがした。今度こそ、と鉄棒を睨むようにして気持ちを込めると、また地面を蹴った。

いち、にっ!
教えてもらったタイミングで、ぎゅっと体全体を小さく丸める。その拍子に一緒に目もつぶってしまい、身体が回転するのを感じて、慌ててカッと見開いた。
くるり、と逆さまだった景色が、正しい向きになっていく。体の上昇に合わせて、頭に上った血が下に降りていき、視界がワッと開けた。
見下ろすと、みーくんが手を叩きながらこちらを見ている。

「こんどこそできた……!」
「できたな!」
「二人ともできるようになってうれしいよ、おめでとう!」

みーくんとお兄さんの言葉を聞いて、自分もようやく逆上がりが出来たのだとジンワリする。みーくんが自分の事みたいに喜んでくれたのが、すごくうれしかった。

「明日!」
逆上がりができた感動が乗って、半ば叫ぶような大きな声が出る。
「明日頑張ろうね!」
みーくんの目を見ながら言う。心からの声だった。

しかし翌日、意気込んで臨んだ測定で、私は思いっきり失敗してしまった。三回チャンスがあったのに、ずっと惜しい感じではあったが、もう一息腰の動きが足りず、一度も最後まで回りきることが出来なかった。

なんてことだろう。
測定で初めてバツを貰って、そのショックは時間がたつほど大きくなっていった。

午後はずっと、意気消沈した状態で過ごした。案の定、ウザい男子がここぞとばかりに煽ってきたが、その言葉がまったく頭に入ってこない。帰りのホームルームが終わっても、そのまま自分の席に座って、少しぼんやりした。
ぼうっとしていると、みーくんやお兄さんの顔が思い出される。あんなに頑張ったのになぁ、と胸がしくしくする。

「おーい、みーくんが呼んでるぞ」
クラスのサッカー好きの男子に手招きされた。
私が逆上がりを成功させられなかった事を聞いたのだろう。今はそっとしておいて欲しかった。

「……なに?」
少し不機嫌にドアのところまで行くと、みーくんがバツの悪そうな顔で立っていた。おそらく彼は成功させたんだろう、そう思うと、またじんわりと涙が浮かんできて、視界がぼやける。

「おまえ、頑張ったと思う」
「頑張っても、本番で成功しなかったら意味ないもん」
「そうだな……」
鼻をすすりながら言うと、みーくんはあっさりと頷いた。少し考えてから、みーくんがまた口を開く。

「オレ、サッカーがうまい」
ズッコケそうになった。ここへきてたたみかけるように自慢とは、どういう事だろうと思う。しかし言葉が出てこなかった。少し呆けたように黙り込む。

「毎日練習してるから、サッカーがうまいんだ。でも、オレはまだスタメンじゃない。試合でも練習通りやれることが、少ないから」
淡々とした口調とは反対に、悔し気な表情をしていた。そして、半ば自分に言い聞かせるように続ける。

「逆上がり、来年もあるって先生が言ってた。次がある間は、終わってないから。あきらめんなよ」
わたしはぽかんとしてしまった。
なんて大人な考え方なんだろう。私なんて、一回失敗しただけで、もうおしまいみたいに言ったのに。急にカッと恥ずかしい気持ちになって、たまらずうつむいた。

「なあ」
うつむいた私に、みーくんが強めの声で言う。顔を上げると、パチンと目が合った。
「がんばれ」
そう短く言うと「フォーム見て欲しい時言えよ」と付け加えて、そのままみーくんは去っていった。


大人になってからも、スポーツと言われると一瞬みーくんの顔が思い浮かぶ。小学校を卒業して20年弱になるが、今でも当時の印象が強烈なのだと思う。それくらい、あの達成と失敗は私にとって衝撃的な経験だった。

まず、きっと自分一人だったら逆上がりはできるようにならなかったと思う。
数学や英語と違い、スポーツを上達しようと思ったら、他人とかかわらないといけない。よくない部分の指摘や、その乗り越え方を教え合い、他人と協力する経験は、あの時が人生で初めてだった。

つぎに、そんな仲間同士で作ってきた関係性や、尊敬を含んだ、厚みのある応援があることを、この時初めて知った。
それまでの私は、他人を応援することをもっと甘く考えていたと思う。何かやっている人がいて、それに「がんばれー」と声に出す事が応援だと思っていた。後から、それは応援の真似事だったなと思うようになり、反省した。

そして、本番で結果を出すことがどれだけ難しいかを知った。
運動が苦手な私は、ずっと測定の時にすんなり成果を出していく人を「恵まれていてずるいな」と思っていた。しかし、みーくんが陰で練習をたくさんしていた事、そんな彼らでも自分と同じように、本番で練習の成果をきちんと出す難しさと戦っていることを知って、その考えを改めた。

スポーツは、できないことに向き合い、できるようになるまでの心の動きを見せてくれる。自分でした挑戦は新しい価値観を見せてくれるし、他人のプレイを観戦すれば、その背景を思って心を動かされる。逆上がりの練習を通して、スポーツが苦手な私も、その心の動きを体感することができた。

この経験があったおかげで、大人になった私もヘタながらにスポーツを楽しんでいる。スポーツ観戦中に選手の方々の努力に思いをはせ、心の底から応援し、皆と一緒になって勝利に沸くこともある。そのことがとてもうれしい。

そのきっかけを作ってくれた逆上がりの思い出は、ちょっとほろ苦いながらも、私にとって宝物のような記憶だ。


紅茶が大好きなので、紅茶をごちそうしてくれると、とても喜びます!