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変わらないもの、変わっていくもの


先日、ARUKUKIのワークショップに参加した。

インテグラル理論の4象限(※1)の学びを、「実践編」として活用に繋げるための場だ。

※1 この世界に生じる現象の全てを包含し、統合しようとする理論。世界の現象をまるっと説明しようとする試み。「4象限」は、内面-外面、個人-集団の2軸をマトリクス型にプロットしたもの。自身の世界の見方の重心、偏りに気付き、多面的な視点でものごとを捉えることに役立つ思考ツール。

まーの解釈


「これから2か月ほど休息期間に入るので、僕の命の使い方、をテーマに探求したいです」


そんなテーマを掲げてワークに参加したところ、「不易流行」(※2)という言葉を頂いた。僕の2~3分の語りから、「大切にしたいこと、変えていくこと」にアンテナが立っている、と感じ取って頂いたのだという。

※2 要するに、「不易」は変わらないもの、「流行」は変わるもののことです。俳諧でも、他の何事でも、変わらないものを基本にしつつ、状況に応じて柔軟に変わっていくべきだ、ということ

コトバンク https://kotobank.jp/word/%E4%B8%8D%E6%98%93%E6%B5%81%E8%A1%8C-123091


「願いを指針に生きる」ことを選んだこの2年半、色々な変化を体験してきた。

ラジオの収益化、コミュニティの立ち上げ、コーチとして独立、第一子の誕生、生まれ故郷への移住、ITベンチャーへの就職、子供の入園、妻の復職、そして、僕の休職。


変わらず握り続けてきたのは、「妻と子どもと一緒に過ごす時間を大切にしたい。自分が没頭し、子どもに誇れるような仕事をしたい」という願い。


変わってきたのは、この願いを具体的に構成し、実現する方法や要素だ。


付き合う人も、居場所も、仕事も、時間の使い方も、大きなうねりをもって変化してきた。

「一面では叶っている。でも、他面で別の願いが蔑ろにされている。」


そのバランスを取ろうとしてもがいているのが、僕の現在地だ。



ビジョンは移り変わる


コーチは天職だ。これを専業にして食べていく。そう掲げたビジョンは、僕が「コーチになりたい」と気付いたセッションの中で観た光景は、年老いた30年先の僕の姿だったように思う。


深いソファにすわり、満足げに身体をうずめながら、「今頃あの人はどうしているかな」「きっと活躍しているんだろうな」と空想にふける。そんな風に、その日をゆるやかに過ごしている映像だった。直接人と対話している場面ではなく、人生で関わってきた人々のことに想いを馳せている姿だった。



自身の目標を掲げるとき、大きな夢を、抽象度の高いゴールを描くことがある。「have to の無い世界をつくる」。一時期僕が思い描いたビッグピクチャーだ。

それほど、「自身の願いと繋がらない選択を強いられること」への抵抗感、嫌悪感が強かった時期なのだろう。

今でも割と、行動選択や原理はこの考えに則っているようにも思う。僕自身の生きる景色はせめて、「have toの無い世界にしよう」と思っているのかもしれない。


抽象的で遠いゴールは、現実感と遠かったりする。あまりその暮らしにリアリティを感じられないと、「どうせ叶わない夢物語だな」なんて思ってしまう。

目指すところが遠すぎる(と、自分が感じているとき)には、未来に向かうテンションがイマイチかからず、むしろ自己効力感の天井を強固に制約してしまうような気がする。


逆に、リアリティを感じてしまったがゆえに、身体が強張る、ということもあるのかもしれない。


大言壮語を吐いてしまったような感じ。背伸びをしないと届かないのに、無理をしてしまった感じ。それを身体が恐怖に感じて、腰がひけてしまうような感じ。


でもきっと、これも必要な防衛反応の表れなんだろうな、とも思う。思い描いたことにリアリティを感じるからこそ、「今すぐ、それをやれと言われたら、その舞台に立てと言われたら、できないよ!」そんな叫びなのかもしれない。


そのビジョンに至るまでの時間軸が頭からすっぽり抜けているのかもしれないな。1年、3年、10年、50年と積み重ねた先にある未来の映像なのに、今すぐその舞台に立つことを強いられて落ち着かなくなるような。そんな感覚。これから自分が歩み、成長していくステップが、まだ実現していないのだから、これもある意味当然の反応なのかも。


まぁ、「その落ち着かなさ」があるからこそ、ギャップを埋めるための行動が引き出され、実現速度が高まる、という側面もあるから、コーチとして何にその時点の力点を置くか、の技量が問われる要素でもあるんだろうな(コンフォートゾーンを未来にズラすからこそ、そこに至りたいホメオスタシスが効いて人は実現へ動く、という認知科学のお話)。



叶いそうになったなら、ビジョンは更新が必要

「叶えてしまった」ことで、なんだか気力や活力が失われてしまう、という現実にも直面する。


独立直後の、冷めやらぬ熱感、学びや行動への貪欲さは、今の暮らしを手にした僕にはもはやない。そしてそれをちょっと、寂しいとも思う。願いに向かって燃え、高揚し、動的なエネルギーに溢れている状態それ自体が好きで、その状態に在るプロセスこそに幸せを見出していた、ということもあるのだろう。


そうすると、叶いそうになったとき、あるいは叶ってしまう道筋がみえそうなとき、不安を覚えることにも繋がっていく。「あ。終わっちゃうじゃん。この祭りが。」みたいな感覚。


「どう叶えたらいいかまったくわからん。道筋も見えん。でも、狂おしいほどそれを叶えたい。そっちに向かいたい。」


人は、そんな北極星を、求めている。


この塩梅というか、「しっくりくる感じ」「鳴り響く感じ」が自分の中にストンと据わってくれるまでには、結構時間がかかる。なぜなら、試してみないとわからないこと、身体感覚を通じて実感しなければ気付かないことが膨大にあるからだ。


コーチングを「セッションすること」だけに捉えていることの弊害は、こんなところにもある気がする。どんなに深く潜れて、どんなに願いに肉薄したとしても、セッションのうちはどこまでいってもそれは「仮説」でしかない。

セッションを受けた気付きを日常に持ち帰り、試行錯誤しながら体当たりで現実とアジャストしていく過程で、しっくりくる揺るぎないものに磨かれていったり、実はまだ半面しか見えていなかったことに気付いたりするのだ。そうしてその行動と学習を手に、また次のセッションを受ける。


人生は仮説検証の繰り返しだ。

コーチングセッションは、その場の一部を構成するにすぎない。


道筋が見えて、叶うことが見えたなら、もうあとは「やるだけ」だ。
「あとはやるだけ」の状態、仕事のタスクを追う上では最高な状態だと思う。なんの心配もなく、実行すれば、成果に繋がっていくのだ。


でも、「生きる」ことは必ずしも「単に成果をあげること」が充足に繋がるわけではない。そこで、「あとはやるだけ」になってしまわないように、ビジョンを更新する必要がある。



変化していく怖さと執着する心


「北極星らしきもの」なく生きてきたり、自分が心の底から笑顔になれる居場所と距離を置いてきた時間のしんどさを知っている。だから、ラジオやコーチングを通じて、それらに出会い、一度は手にして、これを握りしめて築いてきたあれこれは、かけがえのない宝物だ。

嬉しいし、楽しいし、幸せを感じる。

でもそれが、ずっと続く不変のものではないし、実はサイズが適正ではない、ということも往々にしてある。

そんな現実に打ちひしがれて、歩みがとまる。考えることを先延ばしにし、気付かないふりをして、向き合うことをやめたくなる。実は幸せになること、それを受け取ることには勇気が必要なのだ、ということを気付かされる。


手に入れてしまったら、次は失う怖さが忍び寄るから。


せっかく手にした夢だから、もうちょっと長く見させて欲しい。あと5分、夢の続きを見る為に寝かせて欲しい。起こさないでほしい。現実になど、追いつかれたくない。気付きたくなかった。


そんな想いに駆られ始めると、歩みがとまり、不安が表出してくる。旅立ちの列車は、気長に待っていてはくれない。



願いを握っていること


先行きが見えないことには不安がつきまとう。レールが敷かれていない道を進むことには恐怖がつきまとう。だって何が起こるかわからなければ、自分が対処できるかもわからないからだ。

今回はたまたまラッキーで、もうこの先の人生では手に入らないかもしれない。そんな恐れが顔を出すからだ。


でも。

僕たちが気付かなければならないのは、自分には「願いを握り、叶える力があるのだ」ということだ。それも、一度キリではなく、何度でも歩み始めることができるのだ、ということだ。


今手に入れたものそのものに、ではなく、今手に入れたものに辿り着いた過程を、そこに至るまでに歩んできた足跡を、見る必要があるのだ。「あぁ、自分にはその力が既に備わっているんだな」ということを、まっすぐに受け取ることだ。


たとえ具体的な居場所や、つきあう人や、大事にしたい仕事の名前が変わっても、願いを握っているならば、今度は形を変えた具体となって、それが自身の前に立ち表れてくる。

「願いを指針に生きる」とは、不易流行を受け容れるための、中動態的な在り方・処方箋のことを指すのかもしれない。



居場所が人を自由にする

僕が僕の仕事を通じて人に届けたい変化は、「居場所を創れる自分になる」という未来だ。それは、具体的な人との関係性、ビジネスモデル、住処、といったことだけを指すのではない。


自分の願いと繋がって、何度でも、0からでも、「自分が命を使いたいと心の底から思える時空間」に出会い、創り、居続け、維持し、再構築できるようになることだ。


僕をコーチに選んで下さった方々の顔つきが、のきなみ3ヶ月(6~7回のセッション)で大きく変わるのは、自身の願いに気付き、小さな一歩を踏み出して、「自分には、自分の居場所を創る力がある」と思い出してもらえる期間がそれくらいだからなのだろう。

そこから、ビジョンを描き直し、行動と学習を繰り返し、遠く遠くにあると思っていた「いきたい居場所」に辿り着くには、年単位の関わりが必要だったな、と感じている。


1年以上関わり続けている方々が大きな果実を手にしているのは、ずっと「願い」を握りしめ、具体の方法や関わる人、叶える事柄は変節しながらも、行動し続けてきたからだと感じている。


そしてこれは、必ずしも「立ち止まらない」ことを意味しない。


人生は、休まずに動き続けられるようには、できていない。

僕も、一直線に、一足飛びに、さっさと叶えて「居続けたい居場所」で生きていく時間を伸ばしたくて必死こいて走り続けてきたけれど、身体が先に音を上げた。


でも、これは必要なイベントなんだろうな、と思っている。



変わらないもの、変えたくないもの。

変えてきたこと、変わってしまうこと。



僕が「願いを指針に生きる」ことを選んで駆け抜けてきたこの2年半、色んなことが変わってきたけれど、ずっと変わらなかったし、これからも変えたくないことがある。


今はそれを見つめて、受け取る時間なんだな、と感じている。


きっと喜びも悲しみも、期待も恐れもあるけれど、それら感情も自分の一部だと感じて抱きしめながら生きていく人生は、これからも充足感に溢れている。

僕は、そう信じている。



もう、居場所は自分で創れるから。




ここまでお読み頂き、ありがとうございました!

この挑戦を始めて一年経った頃に、実体験をもとに書いたnoteがこちら。


どこか「仕方ない」と自分の生を諦めていた僕が、人生を取り戻したのは、自分の願いを知り、これを指針に生きることを選び、行動を重ねてくることができたからだなと実感します。


労働観が変わり、人生観が変わり、生きる質感が変わった。その感動を届けたくて、コーチの仕事をしています。

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