吃音せんせいVol.2:吃音改善のゴール
吃音が治った状態とは
幼少期から吃音に悩んできた私は、いつの日か吃音が治ることを夢みて、いろいろなことを試してきました。その結果や気づき、感じたことを「吃音ノート」に書き残していて、ここ数年でかなり症状が改善された今でも続けています。
数年前にふと「吃音が治る」とはどういう状態なのかと考えたことがありました。僕の考えでは、吃音が治った状態とは「吃音を意識することなく自由に話せる状態」です。つまり、吃音やそれによって苦しんできたことを忘れて自由になった状態だと考えたわけですが、果たして僕は本当にそういう状態になれるのだろうかと思ったのです。僕はやはり吃音のことは忘れられないでしょうし、おそらく死ぬまで意識すると思います。僕は吃音によってあまりにも傷つき過ぎました。
熟達
教員になってから学習に関する様々な書籍を読む中で、「熟達」というものを知りました。熟達とは「熟練して上達すること」ですが、教育学ではその「段階」を表すそうです。熟達は4つの段階に分かれていて、最も高いレベルを「無意識的有能」といいます。無意識的有能は、文字通り何も考えなくても実行できる優れた状態です。自転車に乗ることに例えれば、自転車に乗り慣れている人は何も意識しなくてもバランスをとりながら自転車をこぐことができるので、無意識的有能だと考えられます。話すことにおいては、何も考えずに自然になめらかに話すことができる状態が、この「無意識的有能」だとするならば、吃音のある僕がこの状態を目指すというのは、ちょっとハードルが高すぎるように感じたのです。
熟達の2番目の段階を「意識的有能」といい、無意識ではできなくても、何かを意識することで実行できるレベルを表しています。自転車に乗ることに例えれば、「ハンドルを動かしてバランスをとろう」とか、「左足を踏み込んだら次は右足だ」とか、自分の動作に意識を向けることで自転車に乗れるという段階です。吃音の改善については、数年前に僕はこのレベルを目指そうと決心しました。つまり、話す場面で緊張したり、「予期不安」を感じて身体がこわばったりしても、そういった場面で適切に行動することで声を出すことができるのではないかと考えたわけです。
自分の手綱を握る
僕は吃音改善において、この「意識的有能」を目指しています。そのために「自分の手綱(たづな)は自分で握る」ということを大切にして、自分自身と向き合ってきました。自分を知り、自分の手綱を握ることが、僕の人生に課せられたミッションのゴールだと思うのです。吃音があるからこそ、自分自身と深く深く繋がることができるのなら、ほんの少しだけ吃音で良かったと思えるかもしれません。自分と深く繋がるということはそれだけ大きな意味がありそうな気がしています。僕が吃音改善に向けて試したことについては、また別の記事で書かせていただきます。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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