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吃音せんせいVol.1:自己紹介

はじめに

吃音症を抱える高校教員です。
もう15年以上にわたって教壇に立っています。
教員はとにかく話す機会が多いですが、「吃音をもつ自分を諦めたくない」という気持ちで、あえてこの仕事につきました。これまでいろいろなことを試してきて、おかげさまでここ数年で症状はかなり改善されています。

幼少期から吃音に悩まされてきて、これまで辛い経験をたくさんしてきました。それでも吃音と向き合う中で、改善のために試したこと、そこで気づいたことなどを、いつも持ち歩いている「吃音ノート」に書き残しています。このnoteではその内容の一部をご紹介していきたいと思います。ただ、吃音の症状は千差万別なので「こうすれば誰でもよくなる」という方法はないかもしれません。しかし、この記事によって「誰かの悩み」が少しでも小さくなれば嬉しいです。

幼少期

保育園に通っていた頃、誕生会で自分の名前を呼ばれたときに返事がしづらかった記憶があります。音楽教室に通っていたときも、出欠確認で名前を呼ばれたときに「はい」が出ないので、電子ピアノの下に隠れたり、聞こえないフリをしたりしてごまかしていました。今から考えると、幼い頃から吃音の不安を抱えながら、自分なりに頑張っていたんだなと思います。

小学校

小学校に上がり、ますます吃音を意識するようになりました。吃音者あるあるですが、僕も国語の音読が何より辛かったです。教室でみんなの前で立たされて、担任の先生から「落ち着いてゆっくり」とか「深呼吸して」とかアドバイスされましたが、やはりそれでも言葉が出ないので恥ずかしい気持ちだけが残ったように思います。一方で、音楽の時間に歌を歌うことは好きでした。これも吃音者あるあるですが、吃音があっても歌は歌える人が多いです。歌っているときは、自分の思い通りに自由に言葉を操っている感覚があって、とても幸せな時間でした。この頃から吃音を克服したいという気持ちが強くなり、いろいろなことにチャレンジするようになりました。高学年になり学級委員長に立候補したこともあります。週一回開催される代表者会議に学級委員長として出席した際、意見を求められても言葉が出ず「ないです」と何とか言葉を絞り出しました。その直後、ある女性の先生が僕の近くまで歩いてきて、耳元で「意見がないなら来るな」と言われたことは今でも忘れられません。

中学校

中学生になり、さらに吃音を意識するようになっていました。ただ、苦手な言葉の「言い換え」を多用していたため、友人同士の会話でもほとんど吃音に気づかれることは無くなりました。それでも、自分の名前などの固有名詞は言い換えがきかないので、かなり不安に感じていました。
中学校でも吃音を克服するためにいろいろなチャレンジをしましたが、なかなかうまくいきませんでした。ピアノの発表会の司会を務めたときは、演奏者の名前が出て来ず、力んで無理やり言葉を出そうとしたり、体の反動を使ったりして、もがきながらも何とか言葉を出そうとしましたがダメでした。あの時間は本当に地獄でした。一生忘れることができないほどの傷を心に負ってしまったと思います。帰りの車の中で、「なぜ僕だけが」という気持ちでいっぱいになり、涙が止まりませんでした。

高校

高校でも「言い換え」を多用して、日常会話では吃音をうまくごまかせるようになっていました。ただ、授業内の発表や電話の場面では相変わらず言葉が出て来ないので、それらを避けて生活をしていました。高校生になると自分の将来のことを考える機会が増えていきますが、吃音を抱えている僕は自分の将来を想像すると苦しい気持ちでいっぱいになりました。「この先どうやって生きていけばいいんだろう」と常に不安を抱えていたのを覚えています。それでも友人には恵まれていて、彼らと笑いあっている時間が吃音のことを少しだけ忘れさせてくれたように思います。

大学・大学院

僕は都内の大学に進学し、大学院にも進みました。この頃には「言い換え」に加えて、「えっと」や「あの~なんだっけ」などのフィラーを使って「助走」をつけて、次の言葉を出しやすくするスキルも身につけていたので、周囲に吃音をほとんど悟られなかったと思います。また、仲の良い友人にも、吃音のことを話した記憶はありません。僕にとって吃音は誰にも言えない秘密であり、それを知られないようにビクビクしながら大学生活を送っていました。しかし、将来のことを考えれば考えるほど、吃音の不安はますます大きくなっていく感覚がありました。社会に出る時期がだんだんと迫ってきて「吃音を早く治さなければ」という焦りがあったと思います。
大学3年の頃に、教育実習のお願いの電話を出身高校にかける機会があったのですが、第一声がまったく出ず、何度も電話を切りました。きっと事務室の方は間違い電話だと思ったに違いありません。

仕事

ご縁があり、地元に帰って高校の理科の教員になりました。教員はとにかく一日中しゃべっていなければなりません。授業はもちろんですが、会議や家庭連絡など話す場面は多岐に渡ります。当初は不安しかありませんでしたが、一つ救われたのは「授業では吃音が出にくい」ということです。おそらく、授業の内容の方にかなり意識をもっていかれるので、吃音をネガティブに意識することが少ないのだと思います。対象が高校生とはいえ、子どもだという認識も緊張感の緩和に繋がっていたのかもしれません。それでも言いづらい場面があったとしても、「あの~」などのフィラーを多用して、話しやすいタイミングを見つける程度の工夫で何とかなります。普段から吃音の改善に向けて、様々な書籍を読んだり、自分の声を録音したり、しゃべっている自分を録画したりして研究するのがルーティンでした。
それでも難しかったのは、自己紹介と電話です。吃音者あるあるですが、自分の名前を言うのが何より苦手です。おそらく自分の名前が度重なる失敗体験と結びついていて、極度に緊張してどもりやすい状態になるのだと思います。電話も同様で「話さなきゃ」という焦りがさらなる緊張を生みます。校外の方が参加する会議での自己紹介や保護者への電話では、いつも吃音の症状が出て自己嫌悪に陥りました。そういった場面では「難発」の症状があり、それでも無理に声を出そうとすると、「た、たたた、」のように連発気味の発声になりました。自己紹介の順番を待っているとき、処刑台に上っていくような気持ちになり、冷や汗が出て心拍数が急上昇します。

現在

高校の教員になってから15年以上が経ちました。中堅になって人前で話す機会はさらに増えました。驚くべきことですが、現在では中学生やその保護者を対象とした高校説明会で、学校代表として20分のプレゼンテーションを任されています。本校のオープンスクールでも最も重要な学校説明を担当しています。今でも吃音の悩みは続いていますが、ここ数年で症状がかなり改善されたように思います。
僕は「吃音ノート」をいつも持ち歩いていて、吃音改善について試したことやその成果や気づき、感じたことを書き残すようにしています。吃音に対する考え方は人それぞれで、吃音は改善しようとか、吃音は受け入れようとか、いろいろな意見があると思います。僕は、吃音は「自分の人生に課せられたミッション」だと思っているので、たとえ吃音が治らなかったとしても、吃音の改善に向けて死ぬまで努力し続けたいです。せっかく親にもらった体ですし、吃音があっても「この体を絶対乗りこなしてやるぞ」という気持ちです。一方で、頑張った結果として吃音が治らなかったとしても、それはそれでいいとも思っています。人生は吃音の有無だけでは決まりませんし、吃音がなければ、ここまで自分と向き合えなかったんじゃないかと。吃音を通じて、自分としっかり向き合って深く繋がれたのなら、こんな人生も悪くないんじゃないかと思います。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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