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第六感は霊感的なものじゃない〜固有感覚なんて知らなかった

今年3冊目に図書館で借りて読んでいる本はこちらです。
"妻を帽子とまちがえた男"

タイトルで即借りると決めました。
話の内容も展開も読むまで分からない、どこに連れていかれるのか分からないミステリーツアーのようなウキウキ感が湧いていました。
読み始めてみて分かったのは、この本は神経医学における様々な症例を扱っている本であり、自分が読む前に抱いていたイメージとは途方もなく遠い本だったということでした。

とはいえこれまで神経医学の本なぞ読んだことのなかった自分にとっては降って湧いた未知との遭遇、これも何かの導きなのだろうとページを何度も戻っては語彙を調べながら読み進めていきました。では心に残ったフレーズを抜粋していきます。

病気こそは、人間の条件のうちの最たるものといえるだろう。
動物でも疾病(disease)にはかかるけれど、病気(sickness)におちいるのは人間だけなのだから。

英語では動物の病気に対してsickを使わずdiseaseを使うようです。
これだけでも私のような英語苦手おじさんからするとトリビアなのですが、精神的な病であるsickは人間にしか適用されず、それ故に人間であるための必要条件と言えるというのはその言い回しも含めて良い知識の補完になりました。
僕たちは人間であるが故に病気になるのです。(知ったかぶり)

神経学や神経心理学の歴史は、左半球の解明・研究の歴史だったと言えなくもない。

これも私の無知さ故に勉強になったフレーズです。
もちろん脳の部位によって何を司っているかが違うことくらいは知っていましたが、右脳と左脳ではその機能の解明の歴史が大きく違う。
客観的に明確に観測できる脳が由来の障害が左脳によるものがほとんどで、右脳由来の障害は分かりにくかったらしいです。神経心理学の歴史を垣間見えて知的欲求が満たせました。

記憶こそがわれわれの人生をつくりあげるものだ。記憶がなければ、われわれは無にひとしい。

記憶に関する障害を抱えた患者のエピソードで出てきた孫引きのフレーズ。
元はルイス・ブニュエルという方の発言だそうですが、どういう功績を残した人かまでは書いていませんでした。
医者だと思ったのにググっても映画監督しかヒットしないので出典は不明。
”記憶”が”自分”というのはなかなか良い説だと思った。
思考や趣向、人格といったものもこれまでの経験=記憶から構築されているし、環境も記憶があるからこそ成り立つものと言えると思う。
ただ、じゃあ忘れてしまったものは意味がないのかというとそうではないと思う。
本の内容や映画の内容を忘れることなんてザラにありますが、忘れたからといってその経験が意味がなくなるなんてことは無いと思いたいからです。

シェリントンが「人間にそなわるかくれた感覚」と呼んだ六番目の感覚とは、からだの可動部(筋肉、腱、関節)から伝えられる、連続的ではあるが意識されない感覚の流れのことである。

これが一番驚きました。
シックスセンスという有名な映画があったり、第六感という名称で特殊な能力が備わっている人が紹介されることがあります。
そういった情報のせいで第六感というのは人智を超えた超感覚だと思っていました。
ですが第六感はそういったものではなく”固有感覚”という名称がきちんとあり、誰にでも備わっているものであることが少なくとも1900年台前半にシェリントンというイギリスの生理学者によって提唱されていたんです。
30数年間生きてきて自分は100年も前から提唱されてきた第六感を知らず、人間には五感しかないと思い込んできた自分の無知さがコワイ。
今後は人間には第六感まであるんだよと伝えていきたいと思います。

まだ半分までしか読んでませんが一旦ここまでで締めます。
想像より内容が濃過ぎな本でなかなか読み進められなくてヤキモキしてますが、
そういった状態の自分もまた楽しみながら最後まで読みたいと思います。

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