余白を想像する

ネットで、残念なプレゼントとか、もらったらがっかりする、もっと強めに言えばセンスを疑うプレゼントなどというような話題を目にすると、欲しいか欲しくないかで言われれば悩んでしまうものの、そこまで言わなくても…と勝手に悲しくなることがある。また私は、プレゼントの本質はそこにはないと感じている。

プレゼントの本質というかサビは、その人のことを考えている時間などというとちょっとありきたりかもしれないが、私はそのサビの部分を偶然目撃したことが何度かある。

以前、某ファンシーショップで働いていた。こういったご時世に性別で分けるのは野暮かもしれないが、来店するのは8割がた女性客のお店だった。残り2割の男性客も、ファミリーのお父さんかカップルの片割れというような感じで、男性1人で来店する人はほぼいなかった。

なので、男性お1人のお客さまはかなり目立った。そういうお客さまはだいたいそわそわしていて、居心地が悪そうで、でもじっくり時間をかけて品物を選ぶ。そして、「彼女がこのキャラクターが好きなんですけどこれどうですかね?」などと遠慮がちにたずねる。

私はその瞬間、あぁ、彼女がこの場面を見られたらいいのに、この姿こそがプレゼントなのにと思っていた。プレゼントの品物とともに、それを探しているときや、勇気を出してお店に入る姿、彼女の喜ぶ姿を想像しながら真剣に品物を吟味する姿の映像がもらえたら、ネットでの悲しい議論も少しは減るのではないか。

プレゼントを探す一連の姿を見るのは現実的ではないので、私たちができることは「見ていない間にあったこと、つまり余白を想像してうめる作業」だと思う。

私が思い出せる限りで初めて余白を想像したのは、幼稚園の頃だ。

箸が転げてもおかしいならぬ箸が転げただけでなぜかかなしい園児だった私はその日、お気に入りのクマのゴムを幼稚園の砂場で失くして号泣していた。優しい先生がたに慰められ、帰宅しても落ち込んでいた。クマのゴムは不運なことにリボンの形をしていて見つけにくいばかりでなく、ベージュの色で砂場に紛れてしまっては見つけられないと思った。実際自分でも頑張って探してみたけれどとても見つけられず、泣く泣く帰宅した覚えがある。

次の日、優しい先生がにっこりと「ユリ科ちゃんのゴムかな?」と差し出してくれたクマのゴムを見たとき、私は嬉しさのあまりまた泣いていた。そしてうちに帰って、私が探しても探しても見つからなかったゴムを先生がどれくらいの時間をかけて探してくれたか、私の帰ったあと、見ていない間に何があったのか、私のために砂場と同じ色のゴムを探す先生の姿を想像してまた泣いた。

クマのゴムはそれまでも宝物だったが、その日を境に特別な意味を持つ宝物になった。そうしていつしかクマのゴムそのものよりも記憶のほうが大切な宝物になった。

今、子どもたちと関わる仕事をしていて、改めて余白を想像することの大切さを感じている。行動や起きたことの裏に何があったか、その過程はどんなものだったかを柔軟に想像することが大切であると日々感じている。もちろん、想像するだけでなく立ち止まって事実確認をすることも必要ではあるけど、その人の立場になるべく近づき想像することを基本としたいと思っている。

先生の笑顔と、私の想像した先生の姿は、今でも私をあたたかい気持ちで守ってくれているような気がする。私もいつか子どもに、そんな風にあたたかい気持ちをプレゼントしたいなと思っている。

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