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地図から消された島 〜大久野島〜


大久野島①
大久野島②

美しい瀬戸内海に浮かぶ小さな島、大久野島。 島全体が国民休暇村に指定されたリゾート地ですが、78年前の敗戦時まで、この島は24時間態勢で監視され、一般市民は立ち入ることができない秘密化学研究所として使用されていました。

通称 毒ガス島

正式名称・東京第二陸軍造兵廠火工敞忠海兵器製造所。
毒ガスの王様と呼ばれる「イペリット」、世界的に最も有名な毒物のヒ素を化合した「ジフェニルシアノアルシン」、そしてナチスのホロコーストで使用された「青酸カリ」等の毒物が大量製造された軍事島でした。

ツタに被われた発電所跡①
毒ガスを製造する為に必要となる電力を供給していた。

最盛期には5000人〜6000人が従事し、年間1200トンもの毒ガス製造した負の歴史を持つこの島は、戦後78年たった今もなお、多くの悲しみと苦しみを生み出した場所として語り継がれています。

しかし広島平和記念資料館や長崎原爆資料館に展示される写真のように、当時の惨状を伝えるものはほとんど存在しませんでした。毒ガスに関する証言も国際法ジュネーブ議定書に違反する行為であり、口外することは許されませんでした。そのため、長らく歴史の闇に埋もれていました。

しかし毒ガス製造に携わった元工員の人々が戦後慢性気管支炎等の後遺症に苦しめられ、さらに癌に侵された方も大勢いるという事実が、それを許しませんでした。
元工員の人々、そして大久野島に残る製造所跡地は、日本の加害史を語る上で欠かすことのできない戦争遺跡なのです。


毒ガスとは?

毒ガスとは、液体や固形を微粒子化させ、空気中に散布もしくは吸引させることにより、敵を殺傷させる化学兵器を指します。

毒ガスは近代戦(第1次〜第2次世界大戦)に使用された近代兵器のイメージがありますが、実は歴史上最も古くから使用された兵器の一つです。 

ギリシャのペロポネソス戦争(紀元前431年~紀元前404年)で、スパルタ軍がアテネ軍の要塞を占領するために、硫黄の煙を使いました。これは「ギリシャの火」と呼ばれるもので、硫黄や石炭などを燃やして作り出されます。この火は亜硫酸ガスを発生させるため、有毒なガスが広がりました。

では古代の毒ガスと、近代の毒ガスの決定的な違いはなんでしょうか?

それは使う範囲の広狭、規模の違いです。
古代の毒ガス兵器では、一度の戦いで限られた範囲に毒ガスを使用していました。ある国と別の国が戦っていて、ある場所で戦闘が起こると、その小さな範囲でしか毒ガスを使わなかったのです。
それに対して、近代の毒ガスは広範囲にわたって長期的に使用されます。ある国が別の国と戦争をしているとき、複数の場所で長期にわたって毒ガスを使ったのです。

また科学技術の発展に伴い、様々な物質をミクロレベルまで分析できるようになった結果、数多くの化合物が発見され、より強力な毒性を持つ化合物が次々と開発されるようになりました。
当初は呼吸器障害を起こさせる程度の威力しか無かったものが、次第に神経系を破壊するような凶悪なものへと進化していき、やがて大量製造されるようになったのです。 

忠海兵器製造所は、そんな化学兵器全盛期に産声を上げた大規模軍事施設でした。

電話の自動交換機室跡。
アメリカ軍の空襲に備え設置されたもの。

 日本軍の毒ガス史  

忠海兵器製造所について説明する前に、当時の薬品製造について説明していかなくてはいけません。 

日本軍が毒ガス製造に本格的に乗り出した第1次世界大戦前後(1914年〜1918年)、それまで薬品を輸入していたドイツが対戦国となり、日本への輸出を禁止したため、全国的に深刻な薬品不足に陥りました。
その対応策として、政府は製薬会社に対する薬品国産の指導や工業生産の指導、さらには専門家の育成を目的とした薬学専門学校の設立などの施策を本格的に実施しました。
これにより、第1次国産化時代が到来したのです。

陸軍による毒ガスの製造は、日本国内で薬品の生産基盤が整いつつあった時期でした。
陸軍はシベリア出兵時、ロシアが連合国軍側の一員として毒ガス戦に参加していたことから、毒ガス兵器の有効性に注目したのです。

毒ガスは比較的安価に製造が容易であるほか、少人数で大量製造が可能という利点があります。また銃火器ほど厳しい訓練を必要としなく、かつ簡便な操作が可能であること(毒ガスの副作用は改めて説明するとして)も大きな長所です。
第1次国産化時代を迎え、国内でも薬品製造が本格化した日本には、毒ガスを量産するための条件が整っていました。
それゆえ、陸軍は国内で本格的な毒ガスの開発を始めるために、陸軍科学研究所を設立しました。
この研究所は後に、秘密戦の中心となる登戸研究所となりました。

前置きが長くなりました。
当時の日本では、軍事利用の用途に転用可能な分野は例外なく発展しました。
鉄道、船、飛行機といった交通機関から、電話、ラジオなど通信機器類に至るまでです。
軍事利用可能と判断された毒ガスが急速に発展していったのも当然と言えるでしょう。
しかしこの技術の進歩こそが、先進西欧諸国をも凌ぐほどの原動力となったことは確かであります。
ですが技術の急速な発展は、常に人々の生活に大きな犠牲を要求し、それは時に予期せぬ事態を招きました。
この記事ではそうした事例を紹介しながら、忠海兵器製造所が製造した毒ガスについて述べていきたいと思います。 

毒ガス島の誕生

芸予要塞時代の桟橋跡。
芸予要塞時代の桟橋説明板。

忠海兵器製造所が誕生したのは、陸軍科学研究所が設立してから9年後の1929年。
その間、陸軍は第1次国産化時代の波に乗るように、化学兵器の研究・開発を行う陸軍科学研究所を設立し、各国の化学研究所を調査させ、参考となる研究資料の収集に努めました。
技術将校の育成にも力が入り、毒ガス戦技術の中枢部にいたメツナー博士を招き技術指導を受けるとともに、薬学専門学校卒業者を将校に登用するなど積極的に人材の確保に乗り出していました。
しかし設立当初の陸軍研究所には予算が少なく、研究施設や製造施設の規模も小さいものでした。そこで、科学研究組織の拡大に伴い、新たに化学兵器製造所が全国各地設立されることになりました。
そのうちの一つが忠海兵器製造所というわけです。

日清戦争後、砲台設置地として選定されて以降、大久野島は日本軍の基地が置かれており、軍の関係が深い土地柄でした。
そのため爆薬を製造する設備も整えられていました。その設備を利用し、さらに毒ガス専用の工場建設を経て開所式が開かれました。 

医務室跡。
薬物中毒に陥った工員が診察と治療を受けていました。

忠海兵器製造所が設立された際、工場は島の南東部に位置し、イペリットや催涙ガスなどの製造施設や倉庫などが5箇所だけでした。
化学兵器の大量生産体制を固めていった陸軍中枢部の方針や日中戦争の勃発など、時局の変化により、工場設備は拡張されました。

ここで毒ガスの種類について、簡単に触れておきたいと思います。

大久野島で製造された毒ガス

第1次世界大戦を機に登場した毒ガスはそれまでの戦争を一変させ、近代戦の幕開けとなりました。 

最初に使用されたのは塩素ガスと呼ばれる支燃性ガスで、水の殺菌等に使われる工業用ガスでした。
塩素の最大の特徴は、単体の状態で存在する分子であり、様々な物質と結合しやすく、その種類によって作用や活用される領域は大きく変わります。また水溶性も高いため、体内に吸収されやすい特徴があります。
つまり塩素を高濃度で吸い込むと、目や鼻や喉の粘膜に溶け込み、急性気管支炎や呼吸困難を引き起こします。さらに肺に入り込んだ場合、うっ血肺水腫を引き起こし、最悪の場合には命を失う可能性があります。 
しかしその刺激性の強さゆえ敵に察知されやすく、また防毒マスクで容易に防御できる事が難点でした。 

そこで、一酸化炭素と塩素の熱反応により得られる極めて毒性の強い化合物、いわゆるホスゲンが毒ガスの主流となっていきます。  
ホスゲンの別名は二塩化カルボニル。水または水分と接触すると、徐々に加水分解を起こし、 腐食性の塩化水素が生じます。 これは喉の粘膜でも同様の反応を示します。
つまり人間が吸入すると、口腔内で高濃度の塩酸ガスが発生し、急性薬物中毒に陥るのです。
さらにホスゲンには無症状期間があり、吸入後の急性気管支炎による呼吸困難から約3時間後、肺水腫や喉頭痙攣を引き起こし、死に至らしめます。
大戦中の毒ガスによる死者の80%以上は、ホスゲンによる窒息死によるものと言われており、その威力の大きさが窺えます。

このように、塩素ガスもホスゲンも人体に与える影響は非常に大きく、その毒性は極めて高いものでした。

しかし、これは毒ガス史におけるプロローグに過ぎません。これら2つの毒ガスは特定の部位に対してのみ効果を発揮する窒息剤でした。
大戦後期になると、さらに他の化学物質を加えた、より強力で殺傷能力の高い毒ガスが続々と登場してきたのです。

それが大久野島で大量製造された毒ガスになります。 

シアン化水素(青酸) 
日本軍秘匿名「ちゃ1号」
水素のシアン化物。HCM。
極めて猛毒な化合物で、常温化でも気体になりやすく、呼吸器官のみならず皮膚や粘膜からも吸収されるうえに、希薄な気体でも毒性を示す。
アウシュビッツの大量殺戮でも使用され、日本軍では茶瓶を割って気化させるか、ボンベで放出して使用されていた。
吸入すると血液や体液に浸透し、細胞内に取り込まれてミトコンドリア中の電子伝達系を阻害し、その結果細胞は酸素が供給されなくなり、死に至る。 
つまりシアン化水素が全身に回りきると、脳の延髄にある呼吸中枢も機能停止に陥り、呼吸困難による窒息死となる。
窒息剤が特定の器官にのみ毒性を発揮するのに対し、シアン化水素は全身の細胞レベルで作用する血液剤である。

マスタードガス
日本軍秘匿名「きい1号甲:ドイツ式」
                          「きい1号乙:フランス式」
                         「きい1号丙:ドイツ式不凍」
塩素と硫黄の化合物で、2,2'-硫化ジクロロジエチル。
本来は無味無臭だが、当時の生成過程では不純物が混じりやすく、からしの様な臭いが付くことからこの名前が付けられた。
毒ガス史上最も多くの人命を奪ったといわれる、毒ガスの王様。その強さは窒息剤、血液剤をも凌ぐびらん剤である。
びらん剤とは水疱を起させる毒物のことで、吸引するとDNAを含む多くの細胞を損傷させ、免疫機能のバランスを保つサイトカインに異常が生じ、皮膚を慢性的に炎症をさせ皮下組織を破壊していく。
シアン化水素と同じく、呼吸器官のみならず皮膚や粘膜からも吸収されるうえに、どの部位でも同様の症状を引き起こすため、人体中で最も広範囲にわたって深刻な障害を与える。
高濃度に吸い込むと、血球を作り出す骨髄を抑制し、1~2週間後に敗血症に至ることがある。
日本軍では爆発と共に霧状となる砲弾か、車に積んだ容器から毒液を振りまく撒毒で使用された。

ルイサイト
日本軍秘匿名「きい2号」 
マスタードガスと同じくびらん剤だが、主な損傷場所は細胞内のミトコンドリア膜、つまりエネルギー代謝に関わるピルビン酸脱水素酵素の阻害である。
喘息症状を抑制する酵素のグルタチオンにも作用するため、咳やくしゃみが激しくなり、呼吸困難に陥る。
またルイサイトにはヒ素の成分が含まれている為、咽頭や食道に咽頭や食道等に激しい嘔吐・灼熱感を伴う症状を引き起こし、腹痛・嘔吐を併発し、コレラに似た症状を起こす。
日本軍では爆発と共に霧状となる砲弾か、車に積んだ容器から毒液を振りまく撒毒で使用された。

ジフェニルシアノアルシン
日本軍秘匿名「あか1号」
くしゃみ剤。ヒ素と炭素の間に化学結合を持つ化合物で、低濃度でも吸入すると鼻腔内粘膜を刺激し、激しいくしゃみ、咳、涙などを起す。
高濃度で吸い込めば、ルイサイトと同じく目眩や嘔吐を引き起こし、呼吸困難に陥る。 
日本軍では爆発と共に気化する砲弾か、軽石の粉末に付着させ、筒に詰め、点火とともに煙を出すあか筒が使用された。

塩化アセトフェノン
日本軍秘匿名「みどり1号」
涙腺周囲の神経を刺激して涙を催す催涙剤。
催涙性物質の中では最も毒性が高く、粘膜からの吸収率が非常に高い。そのため皮膚につくと疼くような痛みや痒みを感じる。

ホスゲンは「あお剤(購入品)」、発煙剤のリクロロアルシンは「しろ剤」と毒ガスの種類によって日本軍の毒ガスの呼称は異なりました。

これらは満州事変から太平洋戦争の中で次々と改良が加えられ、殺傷力を高めていきます。
その量は大久野島だけで合計約6600トン製造され、国家総動員の名のもとに学徒勤労動員・勤労報国隊が従事し、女性を含め6500人以上が生産に従事したと言われています。

発電所跡②

ではどのような流れで毒ガスは大量製造されていったのでしょうか?
満州事変から満州国建立、そして日中戦争へと続く日本の侵略戦争時代を後押した二二六事件を踏まえ、当時の医薬品製造技術の向上、そして毒ガスの大量生産体制についてもう少し掘り下げたいと思います。

毒ガス製造と医薬品製造

忠海兵器製造所で毒ガスの大量製造が活発化したのは、1931年の満州事変以降、15年戦争と呼ばれる大規模な国家間戦争に突入した頃です。
化学戦の指導将校の育成を目的とした陸軍習志野学校が千葉県に設置され、毒ガスの実戦研究が始まり、やがて毒ガス演習が日本のみならず満州国でも行われるようになりました。  

レオナール・フジタ作「ノモンハン事件」
満蒙国境をめぐって日本とソ連が衝突した軍事衝突事件。
化学兵器の毒ガスのみならず、生物兵器の細菌も使用。
レオナール・フジタ作「ノモンハン事件」②
レオナール・フジタ作「ノモンハン事件」③

一方政府は医薬品の「国産化推奨令」を掲げ、アスピリンやエフェドリン等の重要医薬品の国産化を図り、その専門家を育成する為の専門学校を各地に設立しました。
多くの薬専卒業生は大手製薬会社企業を選び、満州や台湾、朝鮮など海外の製薬事業展開の原動力となりました。
この時代の医薬品生産額は最大2億円に達し、その内30%が外地(満州・台湾・朝鮮)け輸出であったとされます。

毒ガス製造と医薬品製造、一見すると別問題のようにも思えますが、以外にも共通点は多くあります。どちらも原料に化学物質を使用する点と、国策事業として設備投資と技術開発促進が行われた点です。
しかしまだ医薬品の国産化が安定し始めたばかりの状況では、原材料の調達は困難を極め、工場建設の資金も十分ではありません。
毒ガス製造を推し進める陸軍と、医薬品製造を最優先に考える政府との対立は否が応でも日増しに深まり、やがて両者は衝突することになります。

それが浮き彫りになったのは、1936年に起きた二・二六事件です。

二・二六事件とは、皇道派と呼ばれる天皇主義派の青年将校によって起こされたクーデター事件です。
満州事変により、陸軍の政治的な力が強くなるにつれ、皇道派と統制派の対立は、やがて内部抗争にまで発展し、ついには二・二六事件という形で爆発したのです。
この事件により陸軍の政治的な影響力は決定的になり、次いで日中戦争へと繋がる、日本にとっては大きな転換期になりました。

この事件の背景には、度重なる天災と飢饉、それに伴った経済の行き詰まり、さらには政治腐敗といった状況があり、彼らはこの腐敗した政府を倒そうと決起したのですが、この事件以降、陸軍による研究と開発が進められた主な毒ガス兵器製造は、最盛期を迎えていくのです。
病院や医師がいない農村部へ行き渡らせる為の医薬品が、この事件を機に陸軍による毒ガス兵器生産へと流れ、やがて軍需優先の政策へと転換して行くことになるわけです。

正式名称「医薬品及び衛生材料生産配給統制規則」。
これは医薬品の生産や配給、価格は全て政府が管理するという意味です。
ほぼ同じ時期に陸軍兵器行政本部(兵器に関わる行政、研究、審査、製造、貯蔵、配給を管理)が設置されているので、医薬品も例外なく陸軍管轄下での管理がなされました。
同時期に大久野島の正式名称も「第六陸軍研究所」となったので、二・二六事件の影響たるや……。

彼らの言い分は理解(納得は出来ませんが!)しますが、素晴らしい理想、主義主張だけでは良い社会にはならないのでしょう……。

話は脱線しますが、陸軍も福祉医療政策を軽んじていたわけではありません。国民病であった結核撲滅の為、衛生省の設立を構想していました。

ただあくまでも男子を兵士にする為に、女子に沢山の子どもを産ませる為に必要だったのです。これが優先政策となった結果、ハンセン病や精神障害者、知的障害者のように、治療やリハビリが必要な人たちへの福祉医療は後回しにされ、監獄同然の病舎に閉じ込める結果となってしまいました。

近衛文麿の評価は賛否がありますが、軍事体制の中で福祉社会を築くために厚生省を設置し、高等小学校を義務化させ、健康保険・厚生年金・日本医療団を創設するなど、軍主導に偏らないよう数々の改善策を提案し、国民の福祉の向上に努めていた面は見過ごせない部分かもしれませんね……。

話が逸れました。 
兎にも角にも第六陸軍研究所は、アメリカ大統領ルーズベルトによる警告があるまで毒ガス兵器開発に邁進していきます。
しかし一方で毒ガス開発製造に従事していた工員は長期に渡り危険な毒ガス作業に従事することによる、健康被害に苦しめられました。

被毒の苦しみ

大久野島で開発、製造された毒ガスは、製造工員の体を蝕んでいきました。
それは、皮膚の発疹や呼吸器官に対する刺激症状だけでなく、深刻な病症にまで発展していったのです。

発電所跡③
発電所跡④
発電所跡⑥
発電所跡⑦
女子動員学徒による風船爆弾実験も行われた。

製造工員は、ゴム製の防毒マスク、長靴、手袋を身に着けて作業に従事していました。
最盛期では二十四時間態勢で毒ガスを製造し続け、悪臭が漏れ出ないよう、地下工場には換気装置が備えられていました。しかし工場内に設置された休憩室にも毒ガス特有の悪臭が漂い、天候が悪化し雲が低くなると、室外でもマスクなしではいられないほど、劣悪な環境下で製造に従事していたのです。
また、イペリットやルイサイトはゴムを通過し、人体に直接作用して皮膚や目、咽頭、呼吸器などの粘膜を傷つけ、結膜炎や助膜炎、肺炎、気管支炎などの健康被害を引き起こしました。 

毒ガスは、神経症状や体の機能に悪影響を及ぼす化学兵器です。
血液を通じて体全体に広がり、脳の上位機能への障害や視野の狭まり、記憶力の低下などの影響が出ることがあります。
特にルイサイトの製造は、免疫力が低下することで体力も下がり、発ガンのリスクも高まることがあります。
衣服に付着した部分だけでも皮膚がただれたり頭痛に悩む人もいましたが、効果的な治療法はなく、軍の上層部は毒ガス被害を隠していました。
後に彼らは「被毒者」として戦後も苦しみ、多くの命が失われました。

軍の上層部は危険な作業に対する報酬として、危険手当が支給され、工員の給料は他の職業と比較すると非常に高額でした。
 また、毒ガス中毒によって労働が困難となった工員に対しては、島内に設置された医務室での診察と治療を受ける権利が与えられました。しかしこれは、工員を迅速に現場に復帰させるためのアフターケアの一環だと思われます。

毒ガス中毒による労災事故は工員だけでなく、兵器工場で働く工員や職員も頻繁に起こり、最悪死に至ることがある危険な作業でした。記録には「火工廠忠海兵器製造所職工変死」と記されたそうですが、毒ガスによる死傷者を隠蔽するための偽装工作の一つだった可能性があります。

兵器工場の危険な作業が表に知られるわけにはいかないため、職員の口止めも行われました。工員たちは作業後は自宅に帰れないほどの多忙な環境に置かれたため、心身共に厳しい労働環境だったことが窺えます。
しかし毒ガス製造の安全対策は改善されず、せいぜい工場内に小鳥を飼うことで毒ガスの濃度を判断する程度の対策しかありませんでした。

今現在島には毒ガス工場被害者の殉職碑が建立され、当時の犠牲者たちを悼む場所となっています。
しかし毒ガス製造の真相は時の権力者によって隠蔽され、毒ガス兵器の開発や使用に関する歴史的事実は公表されずに闇へと葬られてしまうのです。

大久野島のウサギ。
実験動物が野生化したそうです。
医務室跡付近の消火栓。

戦後の大久野島

やがて忠海製造所は1945年8月15日、敗戦を告げる昭和天皇の玉音放送によってその歴史に幕を閉じました。

玉音放送の内容は、雑音のためよく聞き取れず、工員たちの反応も混乱している様子でした。
広島、長崎への原爆投下による強烈な恐怖のさめやらぬ中、いよいよ本土決戦を目前にしていた工員たちは、突然の敗戦宣言に一体何が起こったのか理解できないまま、混乱の只中に取り残されていたのです。

それでも敗戦の翌日、島に保管していた毒ガスの投棄が始まりました。
毒ガスは海洋投棄され、工場や貯蔵庫は解体。工員の中には毒ガスの廃棄に反対を唱え出る人もいましたが、敗戦に伴うアメリカからの責任追及を恐れた陸軍は、給料が倍になる100%加給を提示し、毒ガス投棄に同意させる隠蔽工作を行ったのです。

進駐軍占領後は、毒ガス疎開で他の島へ移されていた毒ガスも大久野島に集められ、海洋投棄が進められました。使用された容器は焼却などの消毒処理をした上、島内の防空壕に埋められました。

北部砲台跡①
12cm速射加農砲、砲側庫が設置されていました。
北部砲台跡②
毒ガス資料館パンフレットに記載されたマップ。

この一連の破棄作業はルイサイト作戦と呼ばれ、アメリカの毒ガス兵器廃棄報告書に克明に記されています。

毒ガス工場と工員たちの運命は、東京裁判によって左右されることになりました。

東京裁判の正式名称は極東国際軍事裁判。
アメリカやイギリスなど連合国が、日本の戦争指導者たちを裁くために行われた国際的な裁判でしたが、公正な裁きとは程遠い、戦勝国による一方的な裁判でした。

ところが中国大陸侵略用の毒ガス製造を推し進めた日本軍上層部の責任は、国際法違反だったにもかかわらず、免責されました。
明確な理由は明らかになっていませんが、毒ガスによる人体実験等の研究成果が軍事利用されようとしていたことと、日本軍の毒ガス使用を裁けばソ連との軍事衝突において不利に働くと考えられたからとされています。加えて、毒ガスを法廷で取り上げれば、人道に対する原爆の問題が浮上するためとも揶揄されています。
尚、日本軍の科学戦の要となった登戸研究所も同じ理由から免責されました。

登戸研究所の東京裁判について①
登戸研究所の東京裁判について②
登戸研究所の東京裁判について③
登戸研究所の東京裁判について④

大久野島の工員も戦犯として裁かれることはありませんでしたが、その多くは戦犯の恐れが付きまとう中で戦後をスタートし、毒ガスによる被毒症状に苦しめられながら、後の人生を歩んでいく事になります。

この時、毒ガス製造に関する記録は全て焼却処分され、大久野島はいったんアメリカから日本に返還。1950年に瀬戸内海国立公園に指定され、毒ガス島の歴史は抹消されました。

瀬戸内海国立公園と大久野島について⤵

https://chushikoku.env.go.jp/content/900127908.pdf


しかし朝鮮戦争が始まると、アメリカ軍は大久野島を弾薬の保管場所として接収。一般の人々は入る事ができなくなりました。
明治時代、日本軍によって要塞が築かれたことで軍島となり、大戦時は毒ガス島へと変貌した大久野島は、再び戦争に利用されていたのです。

朝鮮終戦後(1960年)は、厚労省により大久野島は国民休暇村に指定され、3年後(1963年)には完成した施設が一般開放され、観光地として再スタートを切ることになりました。

しかし海に廃棄された毒ガスへの恐怖や島に残る戦争の痕跡は、戦後も消えることがありませんでした。
一般開放後も毒ガス兵器は島内の至る所から発見され、大久野島の負の歴史は多くの人々の記憶に刻まれることになるのです。

自衛隊の調べで、毒ガスを埋没したと思われる壕内に、あか1号(くしゃみ剤)が大中小合わせて652個ほど発見された際には、あまりの量の多さに絶句したと伝えられています。後に島中の土壌にあか1号の原料である砒素が溶けていると判明し、致死性のある毒ガスでない事から、島の土壌に埋められていたのだと推測されました。

海辺。
毒ガスの原料に使用された砒素が含まれていたそう。

さらに毒ガスボンベや、海水浴場増成中に腐食した毒ガス容器が発見されたこと、戦時中に使用されたとされるドラム缶が埋まっていたことから、竹原市議会は「毒ガス完全防除と毒ガス障害者援護対策の充実」 を決議。政府に島内一斉点検と安全宣言を出すように要請しましたが、いまだに明確な回答は得られていないままです。
また、被毒者への救済制度も、原子爆弾による原爆症に苦しむ生存者に比べると手薄で、政府による救済措置が施行されるまでに終戦から9年という長い時間を要すことになります。島や海に破棄された毒ガスの健康被害の対策さえ、未だに十分とはいえないのが実情です。  

毒ガスに対する安全宣言がなされていない島、それが大久野島です。

現在、忠海製造所跡地には毒ガス資料館が建立され、大久野島の歴史を学ぶことができます。
大久野島の過去と現在を学べる貴重な場となりました。毒ガスについて詳しく展示されている資料館は、世界でこの毒ガス資料館だけです。
毒ガスの歴史を学ぶと共に、戦後を生き抜いた工員たちの足跡を辿ることもできます。

毒ガス資料館

今回のお話のように、一見平和な島に見える観光地で、朽ち果てた兵器工場跡が発見されることは珍しくありません。
しかし大久野島で毒ガス製造が行われていた事実、それによって多くの人日が命を落とした事実は、一時抹消されましたが、後世に語り継ぐことで、日本の歴史の一ページとして刻まれました。
歴史には、時として様々な真実が闇に葬り去られていることもあります。毒ガス事件も同様で、戦後日本の歴史から永久的に消滅することになるかもしれなかった、隠された真実です。
一度失われた真実がもし復元できるとしたら──戦争体験者が次々にこの世を去りつつある今だからこそ──それは歴史を取り戻すという事だと思うのです。

以上が忠海兵器製造所に関する概要と、そこで起こった毒ガス製造の真実についてでした。

長い記事を読んで下さりありがとうございます。
途中から専門性に欠ける、グダグダ記事となりましたが、よろしかったらご参考にしてください。
また新しい情報がありましたら更新いたします。

ウサギと戯れました。
推しのロック・ホーム
ウサギの糞ソフトクリームとロック

参考文献
・隠されてきた「ヒロシマ」 毒ガス島からの告白
・日本薬学史学会 薬学史入門 
・大久野島毒ガス資料館パンフレット
・陸軍登戸研究所の真実
・毒物劇物取扱責任者

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