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東京大空襲 追悼集会に参加して。

広島・長崎への原爆投下を除けば、史上最大の犠牲者を出した東京大空襲から、今年の3月10日で78年経過しました。

東京大空襲とは、アジア・太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)に、アメリカ軍が首都壊滅を目指してB-29爆撃機の編隊を編成し、合計300機以上の兵力を投入して爆撃を行った無差別絨毯爆撃作戦のことです。

1機平均6トン、300機合わせて約2000トンの焼夷弾により、東京はわずか3時間で火の海となり、約10万人以上の民間人が亡くなったのです。

無差別絨毯爆撃作戦とは、マッターホーン計画(もしくはマッターホルン計画)と呼ばれる対日戦略爆撃機計画の一環として実施されたものです。
同攻撃により、日本本土は壊滅的な被害を受けました。

「東京大空襲資料展 空襲による被害図」

東京大空襲は、その中でも最も大規模な空襲であり、日米双方にとって太平洋戦争における決定的な転換期となりました。
重要な工業施設を選別して爆撃する精密爆撃ではなく、非戦闘民が住む都市そのものを焼夷弾で無差別に焼き尽くすという民間人虐殺を目的とした、史上最大規模の無差別爆撃です。

「東京大空襲資料展 展示写真」

広島・長崎を除けば、その被害は非常に大きいです。しかし残念ながら、民間人の被害者は補償の対象外となっています。

全国空襲被害者連絡協議会・河合節子さん主催の東京大空襲追悼集会では、亡くなった民間人のお名前をご紹介し、冥福を祈念するとともに、戦争の悲劇を次世代に伝えるために、毎年、追悼集会を行っております。

今年の追悼集会では初めて、朝鮮人犠牲者のお名前および収容されていたアメリカ軍のB29爆撃機の搭乗員62名のお名前も追加されました。

ニュースでも報道されましたので、ご興味ある方は是非。

こちらの集いの会に私も読み上げスタッフとして参加し、犠牲になった方々の名前を読みあげさせて頂きました。

会場場所は、東京都江東区にある「東京大空襲・戦災資料センター」です。

「小名木川」
東京大空襲では、大勢の人がこの川で亡くなったそうです。
「東京大空襲・戦災資料センター」
小名木川近くにありました。
「世界の子どもの平和像」
「世界の子どもの平和像 解説」

追悼集会には、会場に入りきれないほどの参加者がおり、30代から70代の男女が中心でした。
若い人もいましたが、ほとんどの人が70歳を超えており、東京大空襲で犠牲になったご遺族のお身内でした。
在日韓国人の人、アメリカ兵捕虜の関係者の方など様々で、戦争は人種問わず多くの人を苦しめる悲劇なのだということを強く感じました。

私が読み上げさせて頂きました犠牲者の方々の人数は48人。お名前を読み間違えないよう、慎重に読みあげましたが、それでも緊張してしまい、少し声が震えていました。
特に同じ名字が続くと、ご家族全員が空襲によって命を落とした悲劇を突きつけられたような気がして、胸が締め付けられました。
頂いた名簿は今でも大切に保管しています。

空襲は女性や子ども、お年寄りの方が犠牲になられたものだとばかり思っていましたが、朝鮮人の犠牲者の名簿には若い男性のお名前が数多く記載されていました。
これは、徴兵や学徒出陣で若い日本人男性が戦地へ連れていかれた結果、男性労働者が減り、その対策措置として朝鮮人労働者が動員されたという背景があるようです。

映画「パッチギ!LOVE&PEACE」において、1944年の済州島で日本軍の徴兵を逃れた在日朝鮮人の青年が、南方の島を逃げまわる様子が描かれていることを思い出しました。
そこでは日本人、在日朝鮮人、原住民の人々が爆撃に巻き込まれ、悲鳴をあげるシーンが数多くありました。

この作品は反日の偏った視点で描かれているため注意が必要ですが、戦争は人種関係なく苦しみをもたらすのだと痛烈に訴えているのだと思います。

「東京大空襲資料展 吉野山隆英作」
戦争絵画を描かれる方です。

話が逸れました。 
かくいう私も近代科学史を学ぶまで、日本人以外の戦争犠牲者について考えた事は殆どありませんでした。
初めて彼らの存在を知ったのは、広島で被爆したアメリカ兵捕虜の慰霊碑が建立された特集を見た時です。

こちらも記事として書きたかったのですが、今回の記事は東京大空襲になるので、参考動画を投稿させて頂きます。

その事実を初めて知ったとき、知らなかったことに罪悪感を感じ、いても立ってもいられずアメリカ兵の捕虜について調べ始めました。
そして東京大空襲で亡くなったアメリカベの捕虜について、また彼らの存在を風化させないよう努力している方々もいることを知りました。

追悼集会では、戦争中に捕まったアメリカ軍の人たちについて研究している日本の団体「POW研究会」から、米国出身で千葉県佐倉市お住まいのバートン・ブルームさんが、62人のアメリカ軍捕虜のお名前を読み上げてくれました。
その時、彼らがどういうことを経験したかを詳しく教えてくれました。

原爆の犠牲となったアメリカ兵と同じように、彼らは墜落などで捕虜になったB29爆撃機の乗員でした。
収容先の東京陸軍刑務所で、1945年5月に山の手大空襲に遭い、逃げるのを日本人看守らにふさがれ焼死したそうです。

他のアメリカ軍捕虜の事例についても、POW研究会から見る事が出来ます。

会場との意見交換でブルームさんは「彼らの追悼には複雑な思いを抱く日本人の方々がいるかと思います。空襲で亡くなった方々を追悼し記憶することで、後世の人々が戦争の愚かさを何としても回避できるようにしたい」とお話されました。 

また追悼集会に参加された方の中には、徴兵で満州に送られた方もおり、「昨今のウクライナ報道を見る度、心の中で泣いていました。戦争は絶対にしてはいけません。ロシアはウクライナへの侵攻をすぐにでも止めるべきです。アメリカも早く武力支援をやめて、平和への道を模索してほしいです」と語られました。

意見交換の後半には、戦争経験者の方々のみならず、経験者の子供世代、さらに孫世代の若い世代の方々も参加し、互いの考えを共有できました。 

特に印象に残った方々の発言を、うろ覚えではありますが、書き起こさせて頂きます。

徴兵経験者の父に代わって反戦運動に参加する女性
「平和の道を模索せず、戦争への道を突き進む政府に憤った父が、病室で「俺を国会議事堂へ連れて行け」と娘の私に懇願してきました。父には徴兵経験があります。病に倒れた父に代わって、私が参加しています」

戦争経験者を親に持つ男性
「両親から戦争の話を聞き、様々な戦争遺跡を巡り、様々な証言を聞くうちに、戦争がいかに悲惨で愚かなものか分かりました。戦後78年経った今でも、多くの人が苦しんでいます。戦争経験者を親に持つ世代の一人として、このような歴史を繰り返してはいけない。誰もが二度と戦争を経験したくないと思っているはずです」  

平和活動に参加する女子高校生
「犠牲者の数を通じて空襲について学んできましたが、名前を読み上げることで、彼らの生活や当時の状況に思いを馳せ、戦争は忌むべき行為だという思いを再確認しました」

在日韓国人の青年。
「戦争で亡くなられた方々への追悼というだけでなく、 我々の世代から戦争のない世界への一歩を踏み出さす為には、互いの国の歴史や文化を尊敬し、認め合えるようにならなければならない」

どの国にも加害の歴史と被害の歴史、両方の側面がある。片方の側面だけを取り上げるのではなく、双方の立場から歴史を知る必要があるのではないか。

何故戦争が起き、罪のない人々が命を落とすのか、戦争を正当化する為の理屈を並べる前に、今一度冷静に歴史を振り返る時が来たのではないか。

そうすれば、戦争がもたらす悲しみを繰り返さないためにどうすべきなのかが見えてくるのではないか。

今回の意見交換会では、そうした参加者の方々の思いに触れることができました。
自分が想像していたよりも遥かに多くの方々が、戦争についいて、また今現在の世界情勢について真剣に考えてくれている事を知りました。
そして、自分の無知さや考えの浅さを恥じると同時に、これからもこの歴史を追い続けようという強い気持ちを抱きました。

追悼集会の最後、主催者の河合節子さんと共に、戦争で亡くなった方々のご冥福と世界恒久平和を祈り、1分間の黙祷を捧げました。

改めてこの場を借りて、戦争で犠牲になられた方々のご冥福をお祈りします。















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