リブレ画像

今、「普通に食べる」ということの意味が問われている

「健康である」ということの意味は時代とともに変貌している

医師であり、批評家でもある太⽥充胤は『アートとしての病、ゲームとしての健康』の中で次のように述べています。
古典的な意味での健康とは、端的に言えば「病気のないこと」でした。逆に言えば、自覚的な意味では「私は病気でない」と感じられているとき、身体の中でなにが起こっていようと「私は健康である」と言ってしまうことができただろう。つまり身体感覚によるフィードバックが、健康かどうかを判断する重要な位置を占めていたわけです(太⽥充胤、アートとしての病、ゲームとしての健康 ―10年後に読む『ハーモニー』、p14〜15、2018)。

しかし、生活習慣病という行政病名や健診制度の普及によって、糖尿病、高血圧、脂質異常症といった疾病に対する国民の認知度は広がり、「健康である」ということは身体感覚に頼ることはできないという認識は広く定着しました。

ゲームとしての健康

これまで多くの糖尿病患者、特に1型糖尿病患者は⾃らの「身体情報」に直接的にアクセスする⽅法をほとんど持たず、「医者か占い師にでもその価値判断を委ね、そのアドバイスを信じるほかない、言わば、極めて魔術的な世界に⾝を置いていた」と太田は言います(太⽥ 充胤、同p16)。身体感覚によるフィードバックが無効な病んだ身体を持つという意味において、糖尿病患者は「自らが所有する身体」「感覚では感知できないバーチャルな身体」に分離しているとも言えます。太田はこうした状況をゲームに喩えて、リアルな身体を持つ我々が、バーチャルな身体を持つキャラクターに扮して勝ち目のないゲームを繰り返していると述べ、「ゲームとしての健康」と表現しています。

身体感覚の信頼性が揺らぐ時代におけるリブレの衝撃

そんな中2017年、革新的な血糖モニタリングシステム「FreeStyleリブレ」が誕生しました。これによって、糖尿病患者は身体へのアクセスが格段に容易となりました。これは素晴らしい進歩なのですが、その一方で憂慮すべきことも指摘されています。
リブレの登場によって、自覚的な健康と実際の健康との間の乖離が明らかとなり、身体感覚によるフィードバックの脆さが露見することとなりました。私たちはいつでも いとも簡単に身体情報にアクセスできるようになりました。それはちょうど「自分の身体を超解像度で知覚できるようになったようなもの」(太⽥ 充胤、同p14)とも言えます。常にリアルタイムに連続的な生体情報に晒されるようになったことで、臨床的には多くのメリットが生まれました。しかし、その陰で24時間、常にリブレに監視されることで、まるでパノプティコンに収監された囚人のように血糖値に怯えながら暮らしている人たちがいることが指摘されています。つまり、リブレを使いこなすことによって、自分の「身体の主権」を取り戻し、自由裁量の健康(太田充胤、同p19)を手に入れることができる人々がいる一方で、身体の主権を取り戻すどころか、血糖値に怯えながら暮らす人々が生まれているというのです。

リブレ導入の決定には全人的な判断が求められる

糖尿病患者に対してリブレの導入を検討している医師は、血糖管理をどのようにすることが、その患者にとってベストであるのか、全人的に捉えて、慎重に判断することが求められるのではないでしょうか。リブレの適応を誤ると、連続血糖データに振り回された結果、「自分らしい食」とはなんだったのか?気がつけば分からなくなっているといったことが起こり得るのではないか?自覚的にはまったく健康なのに驚くほどの高血糖になっているという強烈な体験に対する反応は人さまざまで、おそらくすべてではないにしても、こうした体験に対する感受性の強さが人を糖質制限食に向かわせるのではないかと思われます。

糖尿病と摂食障害の意外な共通部分

糖尿病と摂食障害は一見するとまったく異なる病気のように思われます。しかし「共通する部分」もあります。そのことについて考えてみました。摂食障害という病気はさまざまな社会的な文脈がその発症に関与していると考えられています。摂食障害についてはズブの素人なので、誤っているかもしれませんが、それは端的に言えば、「痩せ願望」や「肥満恐怖」などから生まれる食行動の異常によって、次第に「自分らしい食」を見失っていく病気と、僕は捉えています。糖尿病と摂食障害という一見すると異なる2つの病気は「自分らしい食を失う」という意味では共通する部分があるのではないかと考えます。

食に纏わる悩みは社会的な文脈の影響を強く受けている

糖尿病患者や摂食障害当事者が抱える食の悩みは「食欲を抑えられない」「血糖値が上がることが怖くて食べられない」「肥満が怖くて食べられない」「美味しいものを食べることに罪悪感を感じる」「太ってはいけない」「自分の身体を愛せない」など、そのほとんどは医学的な問題というよりは「体型」や「糖尿病」に対する社会の視線に大きな影響を受けていると言えます。例えば、8月16日に投稿した「食の文化人類学者をめざす」を読んだある患者さんから「『糖尿病患者は美味しいものを食べてはいけない』という観念が、わたしにもありました。その呪縛から解けてから1型糖尿病に素直になれたような気がします」という感想をいただきました。こうした、いわば社会から派生した苦しみを抱えている方がたくさんおられると思います。

普通の食べ方を忘れてしまった!

 糖質制限食を実践している40代の患者さんがある日、こんなことを言いました。
「糖質制限食を10年以上やってきて、気がつけば普通の食事を忘れてしまった」
文化人類学者・磯野真穂さんが著された『なぜふつうに食べられないのか:拒食と過食の文化人類学』(春秋社)の中にも摂食障害当事者の「今まで自分がどのように食べてきたのか、分からなくなってしまった」という一節が出てきます。空前の健康ブームとリブレをはじめとする身体モニタリングシステムが発達した今、「普通に食べる」という行為の意味が問われる時代を迎えたと言って良いのではないでしょうか?

「食べる喜び」を失わないために

「身体感覚で捉えることができない高血糖体験の恐ろしさ」と「自分らしい食を手に入れたいという思い」のせめぎ合いの中から、糖尿病患者は「自分らしい食」を手に入れようと努力しています。食べる喜びを失わないようにするためには、身体情報に振り回されずに血糖管理を主体的に行う強い意志が求められます。

9月30日、ビジョンセンター日本橋、本館503号室で開催予定の「『食の多元的な意味』を考えるシンポジウム」では、こうした医学や栄養学だけでは解決できない食に纏わる諸問題について、参加者と討論したいと思います。関心のある方はご参加下さい。
Facebookイベントページ
https://www.facebook.com/events/263414764256721/

【参考文献】
太⽥充胤、アートとしての病、ゲームとしての健康 ―10年後に読む『ハーモニー』https://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/lemdi04/2821/

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