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【書評】地雷グリコ/青崎有吾(角川)【ひつじの本棚】

はじめに


 本日の書評は「地雷グリコ」。
 「第三十七回山本周五郎賞」、「第七十七回日本推理作家協会賞」、「第二十四回本格ミステリ大賞」etc…… 名だたるミステリ賞をほしいままにし、ついには2024年の直木賞にもノミネートされた話題作だ。
 あくまで私の主観にはなるのだが、この作品は2024年上半期において「最も素晴らしい読書体験を与えてくれた本」である。

決して「暇を持て余した神々の遊戯」ではない

 
 グリコ、ジャンケン、坊主めくり、だるまさんがころんだ。
 日本人であれば誰もが幼少の頃に一度は遊んだことのあるゲームだろう。それらゲームが長きにわたり愛されている理由は、なんといってもそのルールの「シンプルさ」にある。
 しかし、ゆえにそれらの遊びは所詮「子供の遊び」だと捉えられていることが多く、軽視されがちである。というのも、今やゲームといえばルールの複雑さこそがステータスにすらなっているからだ。正確には、「複雑な要素を組み込める余地のあるルール」とでもいうべきであろうか。
    戦略、読み合い、時の運、そうした要素が複雑に絡み合い、対戦相手や状況が変われば、その都度、戦略や展開も変わる高度なゲームが時代に求められているのである。
    ゆえに、「じゃんけん」だけでは覇権コンテンツにはなり得ないのである。 
    結果として、現代のゲーム系ミステリ・サスペンスでは、「難解かつ複雑なルール」と「それを一瞬で理解する参加者」たちによる、暇を持て余した神々の遊戯が行われているのである。
    我々読者はそれを「ほえー」っと傍観する観衆にすぎなくなるのだ。

 そんな中、青崎有吾『地雷グリコ』は、じゃんけんやグリコといった我々に馴染みの深いゲームにスパイスのように「プチ改造」を加えることで、圧倒的な奥行きを持ったゲームへと昇華している。
 勝負の天才たる女子高校生の射守矢真兎いもりや まとが、次々と現れる対戦相手と独特のルールで行われる「あそび」を繰り広げていく。
 この作品の素晴らしさは、「我々の立たされている視点」が、蚊帳の外ではないことにある。
    例えば、タイトルにもなっている「地雷グリコ」は、「互いがあらかじめ決めた『地雷』が埋められた段を踏むと、10段下がる。」と、ただこれだけのゲームなのである。だが、ただこれだけ、にもかかわらず、決して単調な展開でもなければ、予想通りの結末でもない。
    ルールの単純明快さと、そこに盲点のように存在するルールの穴。一見すると不可解な射守矢の一挙手一投足が、五分、十分・・・・・・と読み進めていくうちに、「戦略」という意味を持った言葉に変化していく。
    作中の対戦相手やギャラリー同様に、私たちはその遅効性の毒に侵されていくのである。

    また、主人公の射守矢をはじめとした登場人物のキャラクター性がこの作品に青春小説としての肩書きをもたらす。
    読者目線にいる普通の女子高生で射守矢の親友である鉱田は、大枠の語り部としての役割を果たす。射守矢という変人に翻弄されつつも、互いを尊敬し合っており、射守矢にとっても、鉱田にとっても、心の中心には互いが存在しているのである。
    その他、生徒会のくぬぎ、江角の掛け合いなどライトなテイストのコメディが、緊張感を和らげる役割を果たす。
    そうして、物語が進んでいく中で「過去」について語られていく。白熱のゲームの傍らに息を潜める美しくも哀しき友情の一幕。
    赤く烈しい炎、青く優しい風、白く冷たい雨。
    それぞれが、さながらじゃんけんの三竦みのように絡み合う、怒涛のロジカル青春ミステリーだ。

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