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私にとって読書とは

まずは上の写真を見ていただきたい。
これは本日私が食したパンケーキだ。
私は時間休を取って少し早く退勤し、上野で美術館とカフェを巡るという非常に文化的な華金を送った。

そんなお洒落女子である私は、移動中も本の1冊くらい読んで当然のはずである。
だがしかし、私は昔の言葉で言うと「ツイ廃」だった。
本が鞄にスタンバイしているにもかかわらず、つい開いてしまうSNS……
そこで私は、旧Twitterで巻き起こるある議論が気になってしまった。
思っていることをつらつらと旧Twitterの下書きに打ち込むうちに電車は上野へ。
それでも気が収まらない私はホームでも文字を打ち込み続けてしまったのであった。

せっかく有意義な休みを過ごしているというのに旧Twitterの下書きだけでこれほどの時間を潰してしまうとは、なんと馬鹿げたことか。
いやしかし、人間にはアウトプットも大事だ。
ただでさえ絵をインプットする予定だったのだから、電車の中くらいは発散に使った方がいい。

さて、長々と認めた例の下書きだが、このまま眠らせてしまうのは勿体無い。
しかしあまりにも長すぎるため、久々にこのnoteを使ってみることにしたのだ。
以下の文章は例の下書きのコピペである。
旧Twitterに上げるつもりで書いたものなので文体が一気に変わる上、始まり方がエアリプっぽくて唐突なので気持ち悪いと思うが、そのあたりはご容赦いただきたい。
私にしては短い記事で、このダラダラした前置きを含めて1600字程度である。
どうかあまり目くじらを立てずに読んでいただけるととても嬉しい。





例の作家さんに関しては読んでもいないし、AIを批判する意図のもとあえて使っているという話も耳にしたのでここでは置いておきます。
しかし、私は創作物、特に小説においてAIが使われるのは基本的に「嫌だ」と感じてしまいます。

決してAIの作ったものが人間より劣っているとは思いません。
現状は劣っていたとしても、そのうち美しい文章や面白い起承転結を次々と産み出せるようになるでしょう。
そうなったとき、誰が書いたかを知らないままAIが書いたものと人間が書いたものを読み比べたら。
どっちが面白かった?と訊かれて人間の方を選べる自信は正直ありません。

しかし、私はそんな話をしているのではない。
AIが質の高い作品を作れるのならそれでいいじゃないか、と言う人とは創作物に求めるものが根本的に違うのだと思います(※その考えを否定するわけではありません)

例えば小説を読んでいると、心が震えるような素晴らしい一文に出会うことがある。
たった一文に心を奪われることがある。
私の場合、その感動は「この小説の言葉・文章は全て生身の人間が紡いでいる」という前提と信頼のもとに成り立っていると思います。
私を救ってくれるこの言葉を書いた人間がこの世にいる。
そこに思いを馳せることは、私にとって大切な読書の一部なのです。

しかし、小説に当たり前にAIが参入するようになると、「この言葉はAIが機械的に出したものかもしれない」という疑念が生まれます。
時代なんだから少しはいいじゃないか、という意見もあると思いますが、「もしかしたら私の好きなこの一節はAIのものかもしれない」なんて思いたくありません。
いくらAIを使っているのが人間だからと言われても、なんだか裏切られたような気分になってしまうと思います。

実際どちらが書いたのかというのはさておき、その疑念は私の思う読書にとって明らかにノイズであり、読者(私)と作者の信頼関係は崩れてしまう。
だから私は小説にAIが入り込むのは今のところ嫌だと思っています。

これが感情論だと言うのならそれで結構。
私が読書において最も重視するのは感情なので。
でもまぁ、人間最初は抵抗を感じてもなんだかんだと慣れていってしまうものです。
数年後、私がAI作家にハマっている可能性もあるでしょう。
そしたら一貫性がない人間だと後ろ指をさされるかもしれない。
でも明日は明日の風が吹くってことで、とりあえず今の私はこう思うってことを大事にしたい。

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