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さかあがり、できるかな?[できない=悪いことではない]

みなさんこんにちは、長箸です。今日は「さかあがり」の話です。
「できない=悪いこと」ではない、というテーマをさかあがりを例にとってお話したいと思います。
良かったらお付き合いください^^

さかあがり、できましたか?

みなさんは小学生のころ、さかあがりできましたか?
私は保育園のころから練習をして、小学校くらいでなんとかできていた気がします。「小学校に入ったとき、できないと困るから」と保母さんが言っていた記憶があります。(3月生まれで同級生よりも体が小さかったので、なるべく差が出ないように、という配慮だったのかもしれません)

小学校の体育の授業で、クラスメイトが見ている前でさかあがりのテストが実施されたとき、得意な子は軽々とやってのけ、一方苦手な子は何度もチャレンジしては地面にドサッと足をついて。その子の悔しそうな恥ずかしそうな様子が印象的で、胸が痛かった記憶があります。

できない=悪いこと という刷り込みがありませんか?

もちろん、さかあがりを練習することで筋力を育てたり体の使い方を工夫すること、諦めずに努力をしてできないことができるようになる喜びを味わうことはとても大切だと思います。でも、同時に「できない」ことが恥ずかしいことだ、という認識もここで刷り込まれたように思います。
できないことが恥ずかしい、悪いことだ、という感覚はありませんか?
さかあがりに限らず、「平均点以下=恥ずかしい・悪いこと」というのも同じ。
でもそれって、本当でしょうか?


「できる」も「できない」も抽象度を上げれば同列

「できる」も「できない」もひとつ抽象度を上げれば(視点を上げて見れば)同列です。
「できる」「できない」はただの状態にすぎず、良いも悪いもありませんし、しかも今後変化していく可能性もあります。
平均点云々も、平均を取る範囲を広げたり狭めたり、年代や期間を変えたら全く違う基準になりますから、あるポイントで切り取って上か下かを評価したに過ぎません。偏差値もそうですね。
この世に絶対の価値などありませんし、できる=良い、できない=悪いではありません。
自分にとってどちらが好ましいか、どうなっていくことが望ましいかということはあっても、できないことそのものを恥じる必要はないのです。

大切なのは、自分のゴールにとって重要かどうか

多くの社会人にとっては、さかあがりは特に必要ないと思います。私自身、最後にさかあがりしたのがいつだったか、全く記憶にありません。もしかしたら小学生以来していないかもしれません…。笑
でも、体育の先生であったり、子供たちに運動を教える立場の方であれば、さかあがりはできたほうが良いですよね。
その人が何を目標としているのかによって、物ごとの重要性は変わります。
つまり、ゴールにとって重要なのかどうか、です。

私たちは、他者の評価基準で他者から評価されることに慣れてしまっているのかもしれませんね。
学校教育ではすべての科目で評価が下されるため、全方位で平均点か、それ以上でないといけないという感覚が刷り込まれているかもしれません。
確かに小学校・中学校くらいまでの基礎的な学力を身に着ける時期には、勉強の必要性を本人が理解して学ぶことは難しく、大人が適切に評価をしながら学力を伸ばしていけるよう導いていくことが大切でしょう。
でも、きっとこの文章を読んでいる方は義務教育は卒業されたある程度大人の方だと思います。

あなたの人生を決めるのはあなた自身です。

自身を評価するなら、評価の基準は自身のゴール。心から望む、誰に止められても成し遂げたいwant toのゴールです。それも達成方法が分からないほど高い、現状の外側に設定したゴールです。
このゴール達成にとって必要なことがあったら、書き出してみましょう。
わざわざ現状の外側に設定してるのですから、当然できないことだらけです。でもそれで良いのです。
今できていないことには何も問題ありませんし、凹む必要も焦る必要も、自身を責める必要もありません。安心してゴールの世界とのギャップを良く見て、何が足りていないかをしっかりと認識しましょう。

同時に、ゴール達成にとってマイナスになる習慣があったら、こちらも書き出してみましょう。(一歩踏み込むなら、どうしてそのマイナス習慣ができてしまったのか、も深堀りしてみると良いと思います。自分のゴール達成を阻む習慣があるのだとしたら、それは他者の評価や価値観が刷り込まれた結果かもしれません)

設定したゴールが、あなたが心からやりたいことなのであれば、きっと行動が生まれるはずです。
焦らずじっくり、楽しんでまいりましょう^^

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