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愛ある”地元”への憧れ

栃木、石川、三重、宮城、沖縄…どこでも良い。東京で暮らしていると、いわゆる地方から上京してきた人と話す機会がよくある。その度に私は「いつかは地元に帰りたいと思いますか?」と質問するのだが、やはり最近では「東京に残りたい」と答える人が多い印象だ。何でも揃っていて便利だから、仕事のチャンスが多いから、友達もみんなこっちにいるから、などなど。その理由を聞いて、わかるぅ、と頷きながら、心の中でどこか寂しさを覚える。都市集中が進み、社会全体として地縁が薄れていることはもちろん、私自身も地域に根ざした関係性がほとんどないことに気づかされる。

こうした人が私含め若者を中心に増えている中、ごく稀に「やっぱり地元に帰りたいです!」と抑えきれない地元愛を振りまく人がいる。何で、と聞くと、決まって彼らは自分たちが生まれ育った土地を愛しているのだ。便利とか、給料が良いとか、友達が多いとか、そんな欲望ありきの薄っぺらな理由からではない。地元のために働きたいとか、地元の人たちが好きとか、地元の自然が好きとか、もっと温かく内発的な理由からだ。今の時代にどちらが望ましいかと言われれば難しいが、少なくとも、そういう”守るべき”土地に未だ出会えていない私は、後者の考えができる人が羨ましい。

そもそも、ある地域への愛はどのようにして生まれるのだろうか。よく言われるのは「共生」することであり、地域をコミュニティとして捉えた時には、それが大きく間違っていないことがわかる。学生時代そして社会人になってからを振り返っても、閉ざされた世界で何か共通意識を持ちながら長い時間をともに過ごした仲間は自然と親しみが湧いた。だとするならば、東京愛は住む人皆が育んでいるだろうか。おそらく東京が壊滅した時にそれが初めてわかるのだろうが、今で言うならばその愛は見えづらい。皆が「夢」や「自由」を追い求めるニューヨークとは違い、東京は皆がばらばらに刹那の共生を楽しんでいるからだ。コミュニティでありながらコミュニティでないと言われるのはそれ所以である。

最近では、オンラインサロンの登場やブロックチェーンがもたらす独自経済圏などにより、「コミュニティ」という言葉がむやみやたらと使われている。しかし、実生活に目を向けると、上述したように、地方では新しく繋がる機会が激減し、都市では繋がりの深さが失われ、どちらもコミュニティとしての機能が失われつつあることがわかる。地域通貨(トークン)を使ってそれを復活しようという取り組みも見られるが、果たして効果はどうだろうか。外発的要因で人を繋げようとしても、そこに愛は生まれない気もする。どうであれ、人の集まり方や集まる理由、意味は変化しつつあるということだ。時代遅れと言われるかもしれないが、ないものねだりだからこそ、私は旧来的な愛ある”地元”に憧れる。

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