ラスボスの正体とその記憶

今日の本題は、ひとつ前の記事の続編になる。

ラスボスとの再開(脳内)が訪れたのは、あまりにも突然で、それでも不思議と抵抗することなくその状況を受け入れることができた。

とはいえ、私の体は大きく反応していて、吐き気がするくらいに全身が痛みと苦しさを発していた。

でもこの体の苦しみが、あのラスボスに対する思いなのだな。ってことくらい、すぐに理解できた。

この痛みと苦しみと、向き合うしかない。


体が発する感覚へと深く沈んでいく、
徐々に表面にある吐き気の奥へと進んでいく、
そこで感じるものは、「恐怖」だった。

怖い、怖い、とにかく怖い。

これが過去の私、あの頃の私が感じていた恐怖か。


あの頃、私はどのくらいの年齢だったのか?

幼少期の2歳半からはじめた習い事の大先生が私のラスボスの正体。

それから少なくても15歳までの期間はお世話になっていた場所。


記憶しているのは9歳頃の私、

この女性の姿を見るだけで涙がでてしまう私。

そんなことが何度もあったけど、
あれは安堵の涙だったはず。

少なくても私の記憶では、あれは安堵の涙だった。今日この人は悪魔じゃない、よかった。

でも、違う。
今向き合わなきゃいけないのは、その安堵の元にあった恐怖だ。

涙が流れ落ちるほどの安堵感を感じてしまったその発端だ。


それは、巨大な恐怖。
この女性に対する巨大な恐怖。

私はあの人が創り出す世界が怖かったんだ。

いつ首を取られて吊るし上げられるかもしれないというプレッシャーに常に怯えていなければいけなかったんだ。

1秒たりとも気を緩めてはいけないというプレッシャーが、心を締め付けていたんだ。


私はどういうわけか、彼女のお気に入りで、いつも近い距離のところに置かれていた。

私自身が彼女に吊るし上げられた経験は少ない。


しかし目の前で私の仲間が次々に吊るし上げられていく恐怖。

明日は我が身なのだ。

必死になって自分の身からホコリをださないように息を殺して過ごしていた。いつ自分も足元をすくわれるんじゃないかと思うと、恐怖で下半身に力が入らなくなる。

14歳、遂に私自身が吊るし上げられる時がきた。

しかし私を吊し上げたのはラスボスではなかった。

私より3つ年下の仲間であり、幼い頃から沢山の思い出を分かち合ってきた可愛い後輩だった。彼女もまたラスボスのお気に入りであり、我が身を守ることに必死だったことに、私は勘付いていた。いや、私だけじゃなく周りの誰もがそのことに気を張っていただろう。

彼女はラスボスの愛する孫娘だった。

彼女に向けられた祖母や実母からの大きな期待は、周囲の身勝手な評価と嫉妬に魂を宿らせた。それは彼女の中でプレッシャーとして今にも爆発寸前だったし、彼女の内側で傷ついたプライドは、そこにある全ての人間的温もりを凍りつかせるほどの威力を放っていた。彼女の端麗でフランス人形のような面持ちが、氷のように冷え切った彼女自身をさらに冷酷に見せていた。彼女もまた犠牲者だったし、そして感受性が強く同時に勇気のある子だった。


その彼女が私を吊し上げた。

あの時、私の心がついに鈍い音を立てた。

もう、修復は不可能だった。

その後、私はキリのよいタイミングでその世界から離れることを選び、田舎の中学と高校に心を無にして通うだけの存在になった。

自分自身に「感じないこと」を意識的に課して、全てに警戒し威圧的な態度で挑んだ。

体重がみるみるうちに10キロ、20キロと増えていった。

制服が入らなくなり、指定ジャージもパツンパツンで、恋愛どころじゃなかった。


私はこんなところで何をしているのか。
こんなはずじゃなかった。
これから何をして生きていけばいいのか。
毎日どうやって時間を過ごせばいいのか。
放課後の正しい過ごし方って。
部活って。
友達を作るって。
友達ってなに。
学校ってなに。
勉強って、クラスって、先生って、親って、仲間って、、生きるってなに。


なにもかもわからなかった。


学校が楽しいなんて、感じたこともなかったから、
楽しそうにしている周囲の笑顔、笑い声、優しさ、共感、女子、男子、全部ぜーんぶ、憎らしかった。

青春なんてクソ食らえだった。


卒業しても心は晴れなかったし、成人しても、就職しても、バックパッカーで世界の中心へ出ても、途上国で人と触れ合っても、なにをしても生きる勇気とか、生きる意味とか、喜びとか幸せとか、そんなもんちっともわからなかった。


私は憎んでいた。
ずっとずっと、あの時のことを憎んでいたんだ。

だって、私は傷ついたんだ。
裏切られた気がしたんだ。
仲間だと思っていたんだ。
愛があると思っていたんだ。
支え合っていると思っていたんだ。
悲しかった、

そして、ずっとずっと怖かった。そして孤独だった。

あの世界、あの女性、その周囲の大人たち、
仲間の傷、心の痛みは、私の痛みだった。

なんて醜い世界だったんだろう。

無抵抗な子供だった私、
その時の恐怖と向き合う術なんてあるわけがない。

大人の矛盾に立ち上がることなんてできっこなかったんだ。

それで良かったんだ。



今、これから、私があの時のわたしの感情を全て浄化していくよ。

怖かったわたしも、寂しかったわたしも、心細くて泣いていたわたしも、ちゃんと感じきって、全てを昇華するよ。


私は長い間、ラスボスは母親であると思っていた。

インナーチャイルドを癒やして統合を重ねるうちに、母親との関係性が良い方向で安定した。今では母親に対する恨みや怒りはない。

それでも自分の内側にまだ何かが引っかかっている、そんな感じがずっとしていて、それでラスボスが母親ではなく、あの頃の記憶だったことに気がついた。


それから時がたち、ようやく私の中にいるラスボスが姿を見せた。

私の人生きっとここから面白いところなんだろう。

今不思議と胃の辺りがスーッとしている。


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