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1「はんどたおる」(立川志の輔)

 法政大学の授業「創作表現論」で学生が書いた作品の中から秀作を紹介します。第1回のお題は「はんどたおる」です。

「創作表現論」についてはこちらのページをご覧ください。

「鏡」 金子実央

 嫌な夢を見た。鏡に映る自分を見つめる夢だ。
ただ自分の姿を眺めているだけのはずなのに、そこに映る自分は何故だか奇妙に思えて仕方なく、まったく別の存在のように感じた。見ている、というよりも見られている感覚が強い。
 特に言葉を発することもなく、動くこともしない。自分の身長よりも二、三十センチばかり大きい鏡の前に立っているだけ。そして、この夢が終わるのをひたすら待つのだ。
「昌大、起きて。まーさひろ」
名前を呼ばれ、肩を揺さぶられる。
「ん……」
 僕は目を覚ます。視界いっぱいに映るのは、呆れた様子で僕を見つめる美里。同棲している僕の恋人である。
「いつまで寝てるの、もうお昼だよ」
「ああ、ごめん……」
 もぞもぞと体を起こす僕。それを横目に、ため息をつく彼女。
「あのさ、昌大が仕事忙しいのはわかってるよ?毎日頑張ってるのも知ってる。だから、この時間になるまで起こさなかったけど……」
僕に向き直って続ける。
「でも、今日は私達の三年記念日じゃん。前から、水族館行こうって約束してたじゃん。私、ずっと楽しみにしてたのに……」
そう言って、俯いてしまう。よく見ると、彼女は普段と違う装いだった。いつもはデニムしか履かない彼女が、真っ白のワンピースを着て、いつもは一つに髪を束ねている彼女が、波打つように髪を巻いて下ろしていた。きっと早くから起きて準備をしていたのだろう。
僕は焦って、頭を下げる。
「美里ごめん。大事な日なのに、起きられなくて」
そっと彼女の手を取る。
「今から行こう、待たせて本当にごめん」
 ぱっと顔をあげた彼女。その目には涙が滲んでいた。
「……いいの?」
「当たり前、約束してたんだから」
「で、でも、昌大は明日仕事でしょ?今から行ったら、帰り遅くなっちゃうよ」
「大丈夫。せっかくおしゃれしてくれたんだし、僕だってずっと楽しみにしてたんだから。すぐ準備するから、待っててくれる?」
「うん……!」
 頷いた彼女の、屈託のない笑みを見て、ほっと胸を撫で下ろした。
顔を洗いに洗面所へ向かう。そして、鏡に映る自分を見る。
「三回目、だったな」
 ぽつりと呟く。今日も見た。奇妙な、嫌な感じのする夢だ。ここ最近、同じ夢を見ている。似たような夢ではない、まったく同じ夢。しかも、それが夢の中だと認識することができる。だが、目が覚めることはない。僕にできるのは、終わりをじっと待つだけだ。
「昌大、今日何の靴履く?」
玄関から聞こえた美里の声にはっとする。
「あ……黒!黒の革靴出しといてほしい」
「わかったー」
 一旦考えるのはやめよう。今日は大事な日だ。さっきのお詫びも兼ねて、たくさん楽しませてあげなければ。そうして、僕は手早く身支度を済ませ、彼女と家を出た。
 行き帰り運転するつもりでいたのだが、僕は疲れているだろうからと、美里が行きは運転してくれると言ってくれた。もちろん遠慮したが、半ば強引に助手席に押し込まれたため、素直に好意に甘えることにした。
 最初は、彼女と今日の予定を話したり、ラジオを聴いたりしていたのだが、少し開いた窓から流れ込んでくるそよ風と、柔らかい春の陽に、ついまどろんでしまった。そこからの記憶は、正直あまりない。気がつくと、自宅のベッドだった。隣には、僕の手を握りながらすやすやと眠る美里の姿。
 とりあえず、無事に帰宅できていたので一安心だ。僕は多分、疲れが溜まっているのだろう。時間を見ようと、彼女から手を離して枕元に置いてあるスマートフォンを取った。すると、何かが揺れた。スマートフォンに何か付いているようだった。暗くてよく見えず、部屋の明かりを付けた。
 起き上がって、見てみる。そこに付いていたのは、イルカがモチーフになったストラップだった。
「これ、なんだ……?」
 見覚えのないストラップに、首をかしげつつ記憶を辿っていると、
「ん、おはよう……早いね?」
 美里が目を覚ました。
「あ、あのさ、美里。このストラップって……」
 彼女に見せてみると、
「え?これ二人でお揃いにしようって言って、昌大が買ってくれたんじゃん。何言ってるの、大丈夫?」
 軽く笑いながら言われてしまった。僕はひどく戸惑ったが、
「そ、そうだったよね、僕まだ寝ぼけてるのかも、はは」と、誤魔化した。
「変なの」
 彼女に不思議そうな顔をされたが、それ以上の追及は免れられた。僕は彼女から逃げるように洗面所に行き、仕事に行く準備を始めたのだった。
 それから数日が過ぎた。この日僕は四度目になる、例の夢を見た。夢の内容は変わらない。いつも通りだったから、さほど気にせず仕事に向かった。
 外に出てみると、雨が降っていた。僕は普段は車通勤なのだが、こんな日に限ってガソリンがほとんどなかった。ガソリンスタンドに寄って行く時間はなかったため、近くの停留所からバスに乗ることにした。バスは割とすぐに来た。ちょうど通勤の時間帯で、なおかつ雨なものだから、車内はとても混み合っていた。吊り革を掴みながら、窓の外をぼんやりと眺めていた。なんてことない、ありふれた街並みだ。
 しばらく眺めていたのだが、突然、得体の知れない恐怖感に襲われ始めたのだ。体が小刻みに震え、視界が歪む。息が荒くなる。理由はわからない、ただ何かが違う。感じたことのない違和感。気持ち悪い、耐えられない。
 周りの乗客も、さすがに僕のただならぬ様子に気づいて、席を開けて座らせてくれた。誰かが水を飲ませてくれる。しかし、そんな親切にしてくれる人たちにさえ、僕はひどく怯えてしまっていた。
 次の停留所に止まると、乗客を掻き分けて進み、目を凝らして運賃表を見て、十円玉を八枚と一円玉を払って、バスから逃げるように降りた。自分を呼ぶ声が聞こえたような気もしたが、気にしている余裕はなかった。雨が降りしきる中、傘も差さずにがむしゃらに走り続けた。
 どのくらい時間がかかったのだろうか、よくわからなかったが、なんとか自宅に辿り着くことができた。駐車場を通り過ぎようとしたところで、仕事に出掛けようとしていた美里と、ちょうど鉢合わせてしまった。
「え、ひろまさどうしたの!?」
「ひろ、まさ?」
 彼女は聞き覚えのない名前で、僕のことを呼んだ。心配そうに顔を歪め、駆け寄ってくる。
「びしょ濡れじゃない、ほら」
 彼女は自分の傘に入れようと、僕の腕を掴む。
 しかし、
「触るな!」
 僕は反射的にその手を払い、叫んでしまう。
 美里は驚いて、それと同時に何か恐ろしいものを見るような視線を向けた。冷静ではいられない状況でも、恋人にそんな表情をされるのは辛くて、痛くて、苦しかった。何より、そうさせている自分が怖くてたまらなかった。僕は何も言えず、その場をあとにして家の中に駆け込み、鍵もドアガードも閉めた。
 ドアをガチャガチャさせる音が聞こえたが、これ以上今の自分を彼女に見られたくはなかった。
 ベッドに寝転ぶ。何度か深呼吸をしていると、少し落ち着いてきた。考える。どうして美里は、“ひろまさ”と呼んだのか。彼女の表情、声色、ふざけている様子は一切なかった。その名前に思い当たる節はまったくない。そして、さっきバスから見た景色を思い出してみる。
 よく通る交差点。信号機。左から、赤、黄、青。道路を埋め尽くす自動車。やけに左ハンドル車が多かった。そういえば、バスも左ハンドルだったような気もする。普通はどっちだっただろうか。何が違ったのか、妙だと思ったのか。考え続けたが、一向にわからなかった。だが、一つ確実に言えることがある。
「絶対にあの夢のせいだ」
 たかが夢が、僕を狂わせ、そのせいで美里を傷つけた。僕の平穏な日常を奪った。
許せない、許せるわけがない。僕は怒りに震えた。
 そこで、はたと思い当たる。あの夢を、僕が終わらせてしまえばいいのではないか、と。
「鏡を……壊すんだ」
 そうだ、どうして思いつかなかったのだろう。鏡がなければ、映る自分に見つめられることもない。もう二度と同じ夢は、見られなくなるだろう。僕はこれしかない、と思った。ほんの少し、怖い気持ちはある。しかし、この悪夢を終わらせることさえできれば、きっと日常を取り戻せる。怯える必要はなくなる。そう信じて、僕は目を閉じ、眠りについた。
 ふと気がつくと、僕は例の鏡の前に立っていた。そこには、もちろん僕も映っている。いつもと変わらない夢だ。僕は一度深呼吸をする。緊張して強張った体をほぐすように。それから鏡に近づき、手で触れた。鏡の向こうの自分も同じ動きをするが、明らかに今までよりも強い視線を感じる。
 そして、拳を強く握って、思いっきり肘を引く。渾身の力を込めて、疾風の如く、鏡に向かって拳を突き出した。鏡の中央に小さくヒビが入る。同時に、拳に焼けるような痛み。熱。血。なんとか耐えながら、僕は無心で鏡を壊しにかかる。何度も何度も、拳をぶつけた。気が遠くなるほど繰り返していた、そのときだった。水の底から発せられたような、重い響きを伝える音とともに、鏡が崩れ落ちた。一気に辺りが白い埃に包まれる。
 次第に視界が開けてきて、僕の目に映ったのは、紛れもなく僕だった。鏡がなくなっても、鏡の向こうにいたはずの自分は僕の目の前にいる。言葉が、出ない。彼は、僕を見つめ、口の端を吊り上げる。鏡がないからわからないが、僕は多分、今こんな顔はしていない。
 そして、
「君が、“ひろまさ”だよ」
たった一言。僕とまったく同じ声で彼は言い、僕を両手で突き飛ばした。予想だにしない行動に、体勢を崩し、そこで僕は、意識を手放した。
「大昌、起きて。ひーろまさ」
 名前を呼ばれ、肩を揺さぶられる。
「ん……」
 僕は目を覚ます。視界いっぱいに映るのは――――
「み、さと?」
 彼女はおかしそうに笑った。
「ええ?誰それ、浮気してるの?」
 その言葉に僕は愕然とした。そして、僕はようやく気づいたのだ。僕が今、何者なのかということも。もう二度と、あの夢を見ることはできないということも。あと僕がやるべきことは、彼女に確かめるだけだ。それで、全て終わりを迎える。
「ねえ、変な質問してもいいかな」
「ん?何?」
 僕は真っ直ぐ彼女を見つめて、尋ねる。
「君の名前は?」
 彼女が吹き出す。
「何そのボケ、やっぱり今日変だよ?」
 くつくつと笑いながら、僕に言う。
「いいから、答えて。お願い」
 僕は息を詰めて、彼女の言葉を待つ。
 ひとしきり笑った彼女は、その小さな手で僕の手を握る。変わらない温度、温もりを感じた。そして、いつも通りの屈託のない笑顔で、
「“里美”だよ」

「怖い親友」 N

 僕は堀木の考えていることが全くわからない。堀木とは小学生からの仲で、どういう縁なのか、同じ高校、大学に進学した。腐れ縁とは言わない、別に堀木のことが嫌いとかそういうわけではない。ただの幼馴染。それだけなら良かった。堀木は以前、僕のことを親友だと言ったことがある。それを聞いたとき、戦慄が走ったのを今でも生々しく思い出す。あれは恐怖だった。堀木は、僕のことを親友だと言ったのだ。堀木のことを不気味だと避け、恐れている僕のことを。僕は決して人の気持ちが分からないとかK Yとかではない。ただ堀木のことだけは、どうしても理解できないのだ。
 小学生、堀木は要領が良く、なんでもそつなくこなす。決してガヤガヤ騒ぐタイプではなく、優しく、大人びていた。そんな性質によって周りから憧れの的となっていたのだろう、クラスの人気者、ってやつだ。一方僕は、まあそこそこにクラスには溶け込んでいた、と思う。勉強も運動もまあまあ出来たほうだ。どうやら周りの人達には、僕が堀木の腰巾着のように見えていたらしい。心外だ、むしろ堀木の方が僕の近くに寄ってくると言ったほうが正しいだろう。この時僕はまだ堀木には恐怖心など抱いていなかったから別にそれでよかったのだが。
 中学生、ここで最初の事件が起きる。それが僕の、堀木に対する恐怖心を生み出すきっかけとなる。その日、堀木に放課後勉強を教えて欲しいと頼まれ、二人で教室に残っていた。そこへ女子が一人教室にやってきた。性質からいってわかると思うが堀木は女子にモテる。その女子は堀木に自分の気持ちを告白しようとしていたのだろう。そんなことはなんとなくわかる。僕は邪魔者だ。
「堀木くん、話があるんだけど……」
「悪いけど、俺今から大庭に数学教わるからさ」
「でも……」
「ああ、あと多分お前は僕とは釣り合わない」
 聞き耳を立てていた僕はその場に立ち尽くした。時が止まったかのように感じた。
「大庭!」
 はっと気がつくと堀木はノートを広げ、問題を指差していた。女子の姿はなかった。
「あ、ああ」
 夢だったのかと思わせるほど、何事もなかったかのように堀木は数学の問題を解いている。堀木と向かい合い、数学の問題を解く。永遠かのような時が過ぎて、気づけば堀木と共に家へと向かっていた。
「ねえ、さっきの〇〇さん……」
 恐る恐る、さっきのことが夢ではないか確かめる。今思い返すと、よく聞いたものだ。
「ああ、〇〇、泣いてたね」
 夢ではなかったようだ。なぜ夢とまで疑うか、それは今まで見てきた堀木が優しかったからである。今まで暴言や、悪口など言っているところを見たことがなかった。それなのにあんな振り方をするとは信じ難かった。それにあの女子とはいつも親しげに話していたから……
「〇〇のこと好きだった」
「え?」
「それなのに告白しようとするから……」
 どうして? あんなにこっ酷く振ったというのに。
「自分から言いたかったとか? 先に言われたから嫌になったのか?」
「そういうことじゃないんだ」
 これ以上は何も聞かなかった。どうしてなのか、ずっと考えていてもわからなかった。
しばらく経って、堀木は別れ際にこう言った。
「俺はいつも本当のことしか言わないから、大庭。じゃあな」
 本当のこと…。好きだったはずの女子に放った、釣り合わないという言葉、あれが堀木の本心だというのだろうか。今まで人を傷つけることなんて絶対にしなかった、僕にはそんな堀木があのような言葉を放ったとは信じ難かった。女心は難しいという。だが僕には女より堀木の方が難しい。本当のこと、この言葉に僕はなんとも言い難い違和感を感じた。
 高校生、堀木は僕に勉強を教わるくらいだし、全く勉強をしている素振りもなかったから当然進学先は分かれると思っていた。しかし高校の入学式、堀木がいたのだから驚いた。
「大庭じゃないか。お前案外勉強できたんだな」
 なんだと、僕は君に勉強を教える立場だったんだ。なぜそんなことが言える。堀木に対して得体の知れない暗い感情が湧いた。あの時と同じような、違和感。気持ちが悪くなった。僕はその感情から逃れるため、高校では堀木と距離を置こう、そう決心した。そして僕は明らかに堀木を避け始めた。堀木もそれを察したのか、部活の仲間とよく一緒にいるようになった。その頃、僕は約十年間掛けていた眼鏡を手放し、いわゆるコンタクトデビューをした。どうでもいい話だが、これが第二の事件の始まりだった。僕は堀木と会うのを避け、図書室に行くのが日課となっていた。その日も図書室へ行ったのだが、そこに堀木の部活の友人がいた。すると思いもよらないことに、そいつがいきなり「メガネの方がお似合いだってよ。ガリ勉」と言ってきたのだ。堀木のやつ、僕が避けているのを感じて友人伝いに嫌味を言ってきやがった。この時は少し腹が立ったが、別にそこまで嫌な感情は湧いてこなかった。問題はこの後なのだ。その日、堀木が帰り際に僕のところに駆け寄って、久しぶりに一緒に帰ろうと言ってきた。面と向かって断る勇気のなかった僕は渋々承諾した。
「話すのは久々だな」
「うん」
 堀木のやつ、どういうつもりだと不審に思っていたところ、堀木はあの言葉を放った。
「こんなこと話せるのは親友のお前しかいないんだけど……」
 正直、その後何を話していたかは覚えていない。ああ今でも思い出す。心臓が脈打つのを感じる。昨日までの距離はなんだったのか。さっきの嫌味は? この男は何を考えているのだ。
「そういやメガネやめて、なんだか垢抜けたな」
堀木への得体の知れない違和感は恐怖へと変わった。怖い。この男のことは、理解出来ない。これが堀木への恐怖心を生んだ、最も恐ろしい出来事だった。
 現在、僕は大学二年生。なんと例の恐ろしい男と同じ大学に通っていて、そいつは今目の前で食事をしている。なぜ一緒にいるのか? わからない。そしてやはりこの男は怖い。今この時、こいつは一体何を考えているのだろう……
「大庭、大庭ってば」
「ああごめん。なんの話だっけ?」
「お前たまにそうやって考え込むよな。俺はお前が何考えてるか、さっぱりわからない。まさか俺への不満か?」
「なんだって? 今、僕が何考えてるか……」
「さっぱりだよ。いきなり真剣な顔して黙り込んで、怖いからな」
「僕は君の親友か?」
「いきなりなんだよ。そうだと思ってるけど。やっぱお前、怖いわ」
 堀木が笑っている。堀木が僕のことを怖いと言った。
「親友って怖いものなのか?」
「俺の親友は怖い」
 堀木と僕は同じだったのか。ずっと一緒にいるのに、お互い何一つわかってない。この先も、きっとわかり合えないのだろう。
 心臓が脈打っている。ただ、これは恐怖の動悸ではないようだ。
(短く収めるのは難しかったです。小説なるものを書くのは初めてなのでご容赦ください。先生は読んでいてお気づきになったかも知れませんが、この話を思いついた時『人間失格』の堀木が頭に浮かんだので、太宰さんへのリスペクトを込めて大庭と堀木という名前を使わせていただきました)

「はんどたおる1」 魚取ゆき

 会社の後輩から自宅にハンドタオルのセットが届いたのはその日の夕方で、開けたのは翌日の朝9時だった。夜明けからたらふく母乳とミルクのブレンド(内訳はちょうど半々だ)を飲んで朝はやくからお昼寝モードにはいり、ぐずっていたあかりをマー君が隣の部屋に寝かしつけに行くと、きのうの夜からマー君と交代で、眠ったり起きたりを繰り返していたわたしは、リビングのあかりを消して、ソファで仮眠を取ることにした。
 目が覚めたとき、30分しかたっていなかった。隣の部屋からは物音ひとつせず、マー君もあかりもまだ隣の部屋で眠っているようだった。きのう届いたままテーブルに置きっぱなしになっていたピンク色の正方形の箱が目について、開けると二つ折りの名刺サイズのグリーティングカードと、ブランドものらしいハンドタオルが入っていた。
≪ハッピーバレンタイン! あと、出産もおめでとうございます≫
 ハンドタオルを広げてみると、赤い縫い取りのある丸いフチに、わたし名前のイニシャルが刺繍してあった。
 M.S
「だれそれ」
 思わずわたしはつぶやいた。

 出産と結婚とほぼ同時にしてしまったので、何だかいろいろ実感がない。産休・育休を取った実感もないし、マー君と結婚をした実感もないし、赤ちゃんを産んだ実感もなければ、何なら、生きている実感もない。いわゆる産後ブルーなのかもしれない。
 ハンドタオルを送ってきた後輩はわたしと同い年の、会社での年次は2つ下になる後輩だった。昨年、わたしのいる会社に中途入社で入ってきた彼女は、大学に入学するときに二浪したのだといって、一貫してわたしに対して後輩として接した。彼女は音大のピアノ科卒だった。別にタメ口でも構わないのだが、彼女はだれに対しても後輩のようなスタンスで接し、職場では年上の女性のべテラン社員を中心に、男女問わずかわいがられる若手社員のような立ち位置になった。
「今日の晩メシ何にする?」
 隣の部屋からマー君がやってきた。マー君は朝起きたときより眠そうな顔をしていて、きのうのままのグレーのジャージ姿で、頭に寝ぐせがついている。
「牛丼」
「また牛丼でいいの」
「うん」
「牛丼って母乳に悪くないかな?」
「いいでしょ別に」
 マー君はジャージの上にジャンパーをひっかけて、財布を手で持って出ていった。マー君はジャンクフードばかり食べているのに、私の母乳の栄養分に関しては、特別に気をはらっている。
「まあ、いいか」
 わたしはひとり言を言った。
 
 マー君がいなくなると、家の中はしんとする。家の中がしんとするとなぜかいつも、リビングの奥のピアノの上においてある、死んだマー君のお姉さんの額縁の写真が目に入る。小さい写真を引きのばしたのだろう、輪郭の線はぼやけていて、目線は焦点を定めず、カメラのほうをむいているから、モナリザみたいに見るたびに目が合う。その顔はハンドタオルを送ってきた会社の後輩のその顔に、少し似ているといつも思う。額縁の横にあるふつうサイズの写真たてには、当時小学生だったらしいマー君と、そのとき中学校にあがったばかりだったマー君のお姉さんが、聡子さんといっしょに小豆島に行ったときの写真が入れてある。この一年で、マー君よりとわたしとの年齢差が、3歳から2歳になってしまった、死んだマー君のお姉さん。
 わたしたちが子ども作るタイミングはとても変だった。マー君のお姉さんが留学先の南米で急に亡くなって、まだ一か月も経っていなかった。結婚は、お互い完全に合意でのいわゆるできちゃった結婚だった。
 マー君は思ったよりもすぐに帰ってきた。マー君は両手から下げたビニール袋をテーブルの上において、がさがさ音を立てて牛丼やサラダや味噌汁のパックを取り出した。牛丼を食べているとき、隣の部屋からあかりの泣き声が聞こえた。マー君は牛丼をかきこんでいた手を止めて、隣の部屋に走っていった。
 わたしはまだこの生活に慣れていないんだ。サラダをフォークでかき集めていたわたしは、なぜだか急にそう思った。

 午後、マー君はあかりを寝かしつけると、ちょっと行ってくると言って財布を手で持って出かけていった。たぶん、パチンコに行くのだろう。駅のすぐそばにパチンコがあって、マー君はときどき歩いてそこに行った。そしていつものように30分ほどで帰ってきた。帰ってくると、マー君はわたしには「おう」と声をかけ、わたしよりも先に、あかりを見る。
 高校を卒業してから地元の健康薬品会社で働いていたマー君は、わたしが育休を取るといっしょに育休を取り、わたしよりも熱心に育児をした。
「ごめん、ちょっとキッチンの棚からミルクのパックもってきて。水色の大きいカンカンに入ってるやつ。封開けてるやつね」
 隣の部屋からマー君がわたしに呼びかけた。
「うん」
「あ、ていうかいま、母乳出る? あかり、ちょうど今お腹すいてるっぽいから、出るならあげといたらいいと思うんだけど」
「うーん」
「どうする? やめとく? ていうかまだおっぱい痛い? 痛いならミルク用意するけど」
 わたしがあいまいに返事をすると、マー君は気にするそぶりもなく、じぶんでキッチンに行ってミルクのカンを取って、あっという間にお湯をわかし、そそくさと部屋に戻っていった。
 マー君のお姉さんが死んでから、マー君はきゅうに子どもをほしがった。男でも女でもいいけど、やっぱりできれば女の子がいい。マイちゃんに似ててもおれに似ててもどっちでもいいけど、何となくどっちにも似てる女の子。バスケ教えたり釣りを教えたりして育てるんだ。
「うん」
 圧倒されてわたしは言った。それまで、マー君は結婚の話はおろか、これからも一緒にいるかどうかさえ、話すのがおっくうそうだったのに。わたしの両親は嬉しそうだったし、聡美さんだって涙を浮かべて喜んでくれた。わたしの両親は、マー君の貯金とあわせてわたしたちが住む家を買ってくれたし、小学校の用務員として働いている聡美さんは、週末になるとスーパーで買ってきた食糧品や、日用品類、インテリア用に花屋で束ねて買ってきた花束をもって、しょっちゅう様子を見にうちに来てくれる。
 あかりが産まれて、2か月半になる。わたしは、全身から栄養とエネルギーが流れ出てしまったみたいで、何だか腑抜けになってしまった。本能のスイッチがオフになって、知らない人間になったみたいに感じる。
 財布を持って、マー君はまたどこかへ行っていた。リビングの壁時計がコチコチなっていた。いつの間にか涙が出ていたのを、テーブルに置いてあったハンドタオルで拭いて、ついでに鼻も思い切りかんだ。
 鼻水をつけた形のまま、ハンドタオルはテーブルの上で山折りになっていた。
 そうしているうちにマー君が玄関に帰ってくる音がして、それを待ちかまえていたかのように、あかりも大きな声で泣きはじめた。

「はんどたおる2」 魚取ゆき

 東京駅から一時間かけてさいたま市の与野にある自宅に帰ってくると、妻がユーチューブで立川志の輔の「はんどたおる」を見ていた。このあいだ市役所で開催される日本語支援クラスに行った帰り(私は妻を車で市役所まで迎えにいった)、今日クラスで日本語の先生が話していた落語を聞いてみたいと妻が言ったので、「はんどたおる」をおすすめしておいたのだ。
 妻は、今朝起きたときのままのパッションピンクのフリースを着て、猫背を丸めてパソコンに向かっていた。天井のパソコンの真上の位置に蛍光灯があり、切れかかって点滅していたが、妻はそれには構う風もなく、どこまで内容を理解しているのかはさだかでないが、鼻の奥で笑い声を立てて落語を見ていた。
「オカエリ」
 急にふりかえって妻は日本語で私に言った。それからマウスで動画の停止ボタンを押して立ちあがり、思ったよりもあなたは早く帰ってきた、夕食は作ろうと思えばすぐにでも作れるが、今日のごはんは何が食べたいかという意味のことを、日本語で伝えようとして途中であきらめ、日本語と英語が混ざりあった、不明瞭な日本語で私に言った。
「冷蔵庫に昨日スーパーで買ってきたメザシとホタテがあると思うんだけど、賞味期限が近いかもしれないから、今日はメザシとホタテが食べたいなあ」
「え?」
「メザシとホタテ」
「メザシ? 」
「メザシ」
「ホタテ?」
「うん。ホタテ。貝ね、パックに入った貝」
「あー、貝ね? わかった。メザシと貝ね。アンダースタンド」
 妻はエプロンをつけると、キッチンに行き、まもなくキッチンから、シナモンとバターが焦げる匂いと、いきおいよく油のはねる音が聞こえてきた。私が食べたいのは日本風のメザシとホタテの塩焼きか、メザシとホタテの煮つけなのだが、妻が作るのはたぶん、シリア風のメザシとホタテの料理なのだ。
 15分もしないうちに妻は大皿にいっぱいの、オリーブオイルのにおいのするシリア風のメザシとホタテのシナモン炒めと、湯気の立っているフムスファラフェルをもってキッチンから出てきた。そしてさらに、妻がタブーリと呼んでいる、いつも出てくるバジルをチリチリにしてトマトとキヌアで和えたサラダと、バターのにおいのするカリフラワーの揚げものを持ってきた。最後に、シリアから持ってきたのだというシリアコーヒーを注いで、テーブルについてから思い出したかのように、炊飯器からごはんをついで持ってきた。
 私がフムスファラフェルに箸をつけるのを、しゃもじを持ったまま妻は見ていた。

 妻と出会ったその日、わたしは友人の結婚式で、与野から東京に出ての帰りだった。2年前まで犬・猫専門のペットフード店を経営していたわたしは、取引のあるペットショップの、年の離れた新郎に頼まれ、祝辞のスピーチをすることになっていた。一か月前から内容を練りあげ、清水の舞台から飛び降りるつもりで当日スピーチをはじめたものの、元来のあがり症と滑舌の悪さで、自分でも途中で何を言っているのか分からなくなってしまい、二次会が終わるやいなや、逃げ帰るようにして帰ってきた。
 そのレストランに行くのははじめてだった。自宅とは逆の方向に、与野駅から歩いて5分ほどの住宅街の中にそのレストランはあり、民家のような外観に、ペンキの文字でドバイ料理レストランと看板が出ていた。子どもの落書きのような文字で、ペンキが乾ききらないうちにタテにしてしまったのか、赤いペンキがところどころ血のように垂れ下がっている。これまで入る勇気はなかったのだが、その日、祝辞のスピーチを失敗して、半ばやけくそになっていた私は、結婚式の引き出物をもったまま、やけに重い店の入口のドアをひっぱった。
  店内は思ったよりも広かった。クリスマスが近いからか、店のレンガ風の壁にはクリスマス風のモールやビニールの飾りつけがしてあって、常連客らしい4、5人の客たちがいっせいにこちらをふり向いた。みなアラブ系の顔立ちだった。
「どのドバイ料理がおすすめですか?」
 と聞いたわたしに、ウエイトレスをしていた妻は首をふってためらうそぶりを見せ、このレストランで出てくるのはドバイ料理ではなくシリア料理なのだ、と言った。ドバイ料理レストランというのはドバイ料理レストランというレストランの名前で、出てくる料理はドバイ料理ではなくシリア料理で、店長もその家族もみなシリア人で、一昨年の10月、シリアから日本に来た難民なのだと英語で言った。
「じゃ、なぜドバイ料理レストランという名前なの?」
「ドバイ料理のほうがお客さんが来ると父が言った」
 妻は、妻は店長の3人いる娘のうちの、一番下の娘だった。

 夕飯が終わると、妻はまたパソコンに向き直って、一時停止してあったさっきのユーチューブの落語の残りを見た。落語は、蛍光灯のくだりだった。私は、落語にもうすぐシュークリームが登場するのを見計らって、冷蔵庫からちょうど買ってあったミニシュークリームのパックを出して、妻のところに持っていった。
「アリガト」
 妻はパックをあけて無造作にシュークリームを取って口に入れた。
 妻との結婚式には、日本にいる妻の家族は全員来た(妻の両親、妻の2人の姉、上の姉の夫であるトルコ人と、夫の連れ子であるらしい子ども、下の姉のヨルダン人の夫、そのあいだに最近産まれたばかりの双子の女の子)。わたしの元妻と、そのあいだの息子ふたりと、上の息子の妻とその子どもは来なかった。その替わりにというわけではないが、結婚式には高校時代のカメラサークルの何人かの友人と、大学のときの旅行部と自転車部の連中、年に一度はとある女性ボーカルのコンサート(昨年は東京ドームだった)に一緒に行くことにしている友人と、ペットフード店経営時代の知りあいを数人呼んだ。
 「はんどたおる」を見終わった妻は、キッチンに水を飲みにいくと再び戻ってきて、テーブルに新聞を広げたままぼんやりしている私の目の前で手をふった。妻は淹れたばかりのシリアコーヒーのマグをテーブルに置いた。コクのある灰のような味がするシリアコーヒーを飲みながら私がうなずくと、妻はふたたびパソコンの前に座って、「はんどたおる」をあたまから再生しはじめた。

「佐久比詩郎のサブカル日記~立川志の輔『はんどたおる』編~」 西島周佑

 万来の拍手と共に舞台の幕が下りる。本日最後の演者は幕が落ちきる最後まで笑顔を絶やさず、幕が落ちきってからも暫くの間拍手は止まなかった。そうして和やかで爆笑が広がってはいても、私語は一切存在しないという演劇の舞台とも少し異なる不思議な時間に、再び和気あいあいとした雰囲気が取り戻された。
「ふう…」
 佐久比詩郎は肩の力を抜く。見ている最中は気にならなかった椅子に縛られていた感覚が解けて、楽な姿勢へと自然に移行する。観客席に座っていた周りの客が続々と身支度を整えて会場を出ていくが、まだしばらく出口付近が混雑しているので少し間を置いてから退散することにする。客層を観察してみると若い人もチラホラ見受けられたが、やはりそこそこお年を召した人が多い印象だった。
 口を開けば日本の文化は大切だとか言う若者もわざわざ高いチケット代を払ってまで落語を見ようとは思わない。つまるところ落語の講演はデートスポットには中々成り得ないのだろう。映画であれば学生は千円前後で見れてしまうだろうし。自分だって両親がチケットを譲ってくれなかったら一生来なかったかもしれない。
 ふと意識を周囲に回すと隣の席に連続で座っていた二人の女性の会話が耳に入る。
年齢は二人とも40代前半くらいだろうか。
「立川志の輔さん、面白かったでしょ」と声をかけた。
「私落語って初めて聞いたけど面白いのね」話しかけたもう一人は落語の経験者で、誘われた初心者といった風のようだ。
 少しぼうっとしている初心者らしき女性にもう一人の女性は笑いかける。
「でしょでしょ。寄席で実際に目の前で話してくれるのって臨場感あって良かったでしょう?たくさんのお客さんがいて、皆で笑える空間が出来てるって感じなのよ!」
「そうねぇ…楽しかったわ」
 興奮気味に話しかけられてももう一人の女性はゆっくりとしたテンポで返した。
「今回立川志の輔さんが話してくれた“はんどたおる”はユーチューブにもあるから聞いてみてね」
 荷物を畳みながら出ていこうとする女性に、もう一人も慌てて頒布されたパンフレットなどの荷物をまとめて席を立つ。
「確かユーチューブのはまくらが違った話になってるわよ」
「…まくらって何だっけ?」
「ヤダ、もう。最初の―」
 和やかに談笑を続けながら去っていった婦人たち。聞き耳を立てていた間に幾分か出口が空いたので詩郎も外へ出ることにする。感想としてはデートスポットが落語の講演、というのも悪くないと思えるくらいには面白かった。大笑いとまでは辿り着かないでも、心から面白いとクスリとなってしまったのは久しぶりだ。また寄席の席で落語を見たい、そう思えた。福引でチケットを当てて譲ってくれた両親には感謝しなくてはならない。
 ポケットに手を突っ込み、原付バイクの鍵を握りながら軽い足取りで外へ向かう。自宅近くのスーパーで食料品を買ってから帰ろうと思い、立ち寄った。会計を済ませようとするとレジで目についた物があった。
「またか」
 目の前の光景に思わず声が出てしまった。後頭部を掻いて思考を整理したかったのだが、利き腕には買いものかごが握られていたせいで叶わなかった。自分にはちょっとした特殊能力があって、小説や映画や漫画アニメに至るまでサブカルチャーに触れると…その内容に関連した小さな出来事が身の回りに起こる、ということだ。ある時は侍が関係した映画を見た帰りに、刀を差した和装のコスプレイヤーと鉢合わせた。またある時は医者が主人公のドラマを見た次の日、適当に歩いていると大病院に辿り着いたりした。
 もっとも、サブカルチャー作品に触れたとき必ず発動する能力ではなく、起こるかはまちまちなので特殊能力というよりも他の人よりも多く縁があるくらい、とも言える曖昧な代物だ。なので偶然の範疇…と言えばそれまでなのだが、統計的に見て自分がその偶然に遭遇する確率は常人よりも遥かに高いように思える。偶然は何度も遭遇しないから偶然だと言うのに。
 中でも今回の出来事はかなり再現のクオリティが高い。目につくのは購入金額2000円到達でエコバッグのおまけという広告とレジ手前に置かれた特売品のエクレアだ。エコバッグはシンプルで使いやすそうな無地の物で、幾つかの色のバリエーションを選べるようだった。エクレアはプラスチックの入れ物に入った工場生産っぽい安価の物で、元々そんなに高くない物が消費期限の関係で半額にされている。確か劇中で奥さんは3000円の購入特典のハンドタオル欲しさに特売のシュークリームを550円分買って旦那さんに呆れられていたっけ。幸い混んでいる時間帯では無く、後ろに人が閊えて居る人もいないので落ち着いて対処することにする。
 詩郎は特売のエクレアを一つ手に取り、買い物かごに入れてそのまま会計の台に乗せた。
「お会計お願いします」
「はい」
 若い女性の店員にこやかに対応し、次々とレジに品物を通していく。冷凍食品も買ったので早く家に帰らなくちゃなぁと思いながら仕事風景を眺める。
「お会計1680円になります」
 2000円でエコバックのおまけ表示を見たときに大体1500円くらいだったなぁとは察していた。やはりまた全く意図しないところで小説のシュチュエーションと近い状況を作り出してしまったらしい。
「2000円からで」
 1000円札二枚を取り出して会計を済ませた。 小銭を文鎮代わりにレシートを手に置かれ、買い物かごに入れられたビニール袋に入れ替える作業へと移る。
「はんどたおる」の話の中で奥さんは買っても200円するかどうかのハンドタオルの為に550円多く支払ったが、普通の人間はそんなことはしない。ハンドタオルなんて一度二泊三日の温泉旅行にでも行けば余るほど貰える。奥さんは店側に550円タダで渡したのではなく、シュークリームを手に入れた上でハンドタオルも貰えたと旦那さんに説明していたが、消費期限間近のシュークリームを抱えることは果たして見返りとして釣り合っているのかという問題だ。
 詩郎は牛乳など重い物から順にビニールに詰め込んでいき、冷蔵品は一か所に固めるようにして品物を移していく。作業の頭の中で詩郎は再び今日の落語を回想する。今日聞いた中でも立川志の輔さんの“自分で創作した話を自分自身で語る”というのはやはり落語界でも凄いことなのだろうか? 詳しくないから正確な比較は出来ないが、あの躍動感はその道でも実力派であることを伺わせてくれた。両親に「ためしてガッテン」の人も出るのよと言われて、テレビで見ていたあの顔が本当に出てきて驚いたが、それ以上に寄席での生き生きとした姿に目を奪われた。
 完全にビニール袋へ移行し終えたので右手に取っ手を通して足を進める。すると出口に向かう途中で銀色の支柱に下げられた広告が目に入った。レジ手前で見た購入金額2000円到達エコバッグプレゼントのチラシだ。この特典はハンドタオルなどよりか後々のレジ袋削減にも繋がる店側の良い投資だと思う。
 落語を聞いていて思ったのは話を聞く聞き手のこちらが持つ“常識”というのも話を面白くする要素の一つかもしれないということだった。「はんどたおる」を例にするなら話の主軸となった夫婦の独特な価値観から生まれるハチャメチャな会話が面白さの殆どだった。何故それが面白いのかと考えたとき、我々聞き手は独特ではない普遍的な価値観、言い換えれば常識のフィルターを持っているからで、それによって話の中の登場人物の独特な出来事が滑稽で笑える物語と昇華されるのかもしれない。普通はハンドタオルなんて欲しがらないから、面白く感じるのだ。
 加えて物語らを躍動感あるように話す演者。小さな面白いを爆発させるお客らの場の空気感。あの寄席の要素全てが、古くから伝わる落語を作り出す文化の継承そのもののように感じた。
 ふと我に返って、エコバッグプレゼントのチラシを睨む変な人になっていたことに気が付く。よく利用するスーパーなので今度からはエコバックを持ってきて、店側の意図通りレジ袋削減に貢献してあげるとしよう。
 現実を面白くしてくれるのは自発的な出来事なのか、それとも偶発的な出来事なのか。そんなことを考えながら佐久比詩郎は帰路につくため、自動ドアの外へ出た。

「短編小説(はんどたおる)」 北川穂高

  春先から2か月ほど、アパートの近くにあるリサイクルショップで働いた。この店には町田に引っ越して来てから、食器などの小物をそろえるために数回足を運んでいた。いつもガラ空きで、店員は平和ボケした顔をしていた。それで俺はここで働くことを決めた。
 狭い店内の大半は壊れかけの家電と使い古された食器たちで埋まっていた。俺の仕事は棚にあるこれらの商品を見栄えよく並べ直すことだった。
「一目見たときに、これはいい商品だな!って思わせれば、客は買ってくれる」と店長は俺に繰り返し言った。
 俺はゴミ同然の商品たちをできる限り見栄えよく飾り、置いた。俺はこの作業が得意だった。俺が置けば、どんな商品でも少しだけまともに見えた。客たちは俺に騙されて商品を手に取り、すぐにその正体に気づき、商品価値と相応の雑な置き方で棚に戻した。そして、それを俺がまた並べ直す。その繰り返しだった。並べ直すたびに、自分がこの店で買い物を数回したことを思い出した。なんでこんなに俺はバカなんだろう。
 たいていの人間は1度来たら、2度と来ることはなかった。しかし、ピンクのパーカーのじいさんは違った。彼は3日に1度は必ず来た。そして家電や食器に目もくれず、店の隅にある子供用のぬいぐるみのコーナーを物色していた。そして必ず1個だけ、手のひらサイズのぬいぐるみを買って帰った。
 「あいつはボケ老人なんだ。ボケると子供みたいになるって言うだろ」と店長は言った。俺もそうなんだろうと思った。1人暮らしで年金をもらって生活していて、楽しみは再放送番組と庭の水やりと散歩。ボケちまっているから、ここに頻繁に足を運んでしまう。「お、こんな店がこんなところにあったのか!」という具合に。そしてよくわからないけれどぬいぐるみを買ってしまう。家に帰り妻の仏壇に無数に積まれてるぬいぐるみの山を見て、不思議に思う。もう買うのはやめておこうと心に決めて、時代劇を見てそんなこと忘れてしまう。俺はじいさんを見るたびにそんなことを考えた。そしてじいさんのことを考えれば考えるほど、俺の心は灰色の膜に覆われていくような感じがした。そして決まって母親のことをすこし想い出した。
 その日、俺はレジカウンターに座って雨の音を聞いていた。それと窓を強く打つ、風の音を。店内に客はいなかった。棚の商品はずっと前に並べ直してあった。することがなく、暇だった。壁のシミを見て、たまに窓の外を見た。雨がアスファルトに打ち付けられて跳ねていた。
 じいさんは外がより一層暗くなったときに来た。傘も持たず、いつもの格好で。
「雨がひどいね」とじいさんが言った。「タオルか何か、貸してくれない?」
じいさんのピンクのパーカーは雨でぬれて、床にぽたぽたと水を垂らしていた。泥だらけになったスニーカーが歩くたびにキュッキュッと音を立てた。
「ちょっと待っててください」
俺はそう言って、レジ裏の従業員控室に行った。店長はいなかった。控室を見回したが、タオルらしいものは見当たらなかった。あるのは古い週刊誌とDVDだけだった。俺はその奥にある従業員用のトイレに入った。洗面台にタオルが掛けてあることを俺は覚えていた。
 タオルを手に取り、店内に戻った。
「どうぞ」
「ありがとう」とじいさんは言って、それを受け取った。
じいさんはまず頭を拭いた。頭に髪の毛はひとつも残っていなかった。店にある食器のように、つるんとしていた。それから顔にタオルを充てて、そして俺を見た。
「おい、なんだこれ」じいさんは俺をにらんでいた。「これ臭すぎやしないか」
そりゃそうだろうな、と俺は思った。トイレのタオルが替えられてるのを俺は見たことがなかった。ずっと吊るされたまま、みんなに使われていた。そして窓のないジメジメとしたトイレで水はすぐに乾かず、菌が繁殖して、臭いを出しているのだ。
「すいません」と俺は言った。「でも、これしかないんですよ」俺の声はいつもより少し大きかった。
「ふつー、用意しとくものだろう、なあ」じいさんはそう言って、タオルをレジカウンターに置いて、いつもの店の角に向かった。
 じいさんが泥で足跡を床に付けていくのを見ながら、「なんでこいつは今日ここに来たんだろう」と思った。雨の日ぐらい家でじっとしているべきだ。こいつの人生はどれぐらいつまらねえんだろう!なあ!
 俺はタオルを手に取り、従業員用トイレに向かった。タオルを洗面台横に掛け、そして用をたした。それから洗面台で手を洗い、タオルで手を拭こうと思ったが、さっきの会話を思い出し、手を拭かずにトイレを出た。
 レジに戻ると、じいさんが小さな豚のぬいぐるみを持って立っていた。
「これを」じいさんは言った。
俺は値札に書いてある金額を読み上げ、それをレジに打ち込んだ。じいさんはピッタリの金額を俺に渡して、こう言った。
「まえから、思ってたんだが」じいさんはそう言い、俺の耳を指指した。
「そのイヤリングは女みたいで気持ち悪い、そういうのはやめたほうがいい」じいさんはそれを言い、商品を手に取り、また雨の中へ戻って消えた。
 これは母親の形見だった。三日月形の真っ赤なイヤリング。俺はこれを1年前から、ずっと付けていた。俺はこれを命の次に大事にしていた。
 これがじいさんと俺の最後の会話になった。この2日後に突然リサイクルショップは閉店したのだ。「これからはネットショップの時代なんだ」と店長は俺に説明して、雀の涙ほどの退職金をくれた。俺は特に文句はなかった。その2日後にはガソリンスタンドのアルバイトを見つけることもできた。
 じいさんをその後、1度だけ見かけた。俺のアパート近くにある児童公園にじいさんはいた。じいさんはその公園の中に立っている電柱を見上げていた。


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