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2『オイディプス王』

 法政大学の授業「創作表現論」で学生が書いた作品の中から秀作を紹介します。第2回のお題は『オイディプス王』です。

「創作表現論」についてはこちらのページをご覧ください。

「石鹸(『こちら葛飾区亀有公園前派出所』1232話へのオマージュ)」 田村元

「テーブルに置いてあった石鹸を知らない? 」
 母が僕に尋ねる。
「知らないよ。石鹸なんて」
 僕はぶっきらぼうに答える。今、僕はスプラトゥーンに忙しいのだ。出来るだけ話しかけないでほしい。母は、ガチマッチの過酷さをわかってはいないのだ。
「おかしいわねぇ。せっかく清美ちゃんのお母さんにもらったのに」
 清美ちゃん。その名前が聞こえた瞬間、僕の心臓は跳ね上がった。と、同時に敵の攻撃であるシャボン玉が、僕の操作するイカに当たった。自機がロストした。普段ならショックで泡を吹いて倒れたくなるところだが、この際ゲームなどどうでもいい。
「な……なんで清美ちゃんのお母さんから、石鹸なんかもらうの?」
 僕は、声色から動揺が察することができないよう、平静を装って母に問いを投げかける。母に、僕が清美ちゃんを好きだとバレたら何を言われるかわかったものではない。
「この間、中学校の参観会があったでしょう? その時、清美ちゃんのお母さんと話す機会があったんだけど、清美ちゃんのお母さんからすごくいい香りがしたのね。それで…」
「それで? 」
 いささか、食い気味に問うてしまった気がする。自省。
「それで、清美ちゃんちでは、お洗濯物を手作りの石鹸でするからいい香りがするって言ってたのよ。で、清美ちゃんのお母さんが、よかったら一個どうぞって」
「へぇ……」
 なるほど。それで石鹸をもらってきたわけか。母は遠慮というものを知らないからな。大方、清美ちゃんのお母さんに図々しく石鹸を要求したというところだろう。全く呆れる。だが、グッドジョブだ。清美ちゃんと同じ香りの石鹸。清美ちゃんの可憐さを構成するマテリアルを入手してきたことは大いに評価できる。男子中学生は、好きな子の香りをおかずに、どこまでもいける。
「で、その石鹸がないんだ」
「ないのよ。まさか、あなた石鹸食べちゃった?」
 でた。母のつまらない冗談だ。石鹸を食うバカなどいるはずがない。もう少しものを考えてから、話し始めてほしい。
 「おかしいわねぇ。確かに、テーブルの上に置いておいたのに。
 「テーブルに置いてあったものが、何もせずいきなりなくなるわけがないよ。みちこが、ままごとの道具にでも使ったんじゃない?」
 みちこは六歳になる僕の妹だ。バカなので、人形と石鹸の違いもわからないだろうから、石鹸盗難の犯人である可能性は高い。なんなら、みちこが石鹸を食べたという可能性もある。みちこはバカなので。
「それが、みちこは石鹸の包装を開けただけで、テーブルから動かしてないっていうのよ」
「それじゃあ、母さんが違うところに動かしたんじゃないの。それで、どこに置いたか忘れたんでしょ」
「いや、私はさっき帰ってきたばかりだから、動かしようがないわ。」
 みちこの言うことも母の言うことも信用ならない。が、そう主張している以上信じるしかない。これ以上問い詰めても感情的になり、探索が困難になるだけだ。それに、石鹸に僕が執着していることを悟られたくはない。
「じゃあ、さ。探しとくから石鹸の特徴を教えてよ。」
「あら、珍しく親切ね」
 親切ではない。清美ちゃんの香りがほしいだけだ。そして、清美ちゃんの香りを僕から奪う奴を、僕は許さない。
「えっとね、大きさは消しゴムを一回り大きくしたくらい」
 思ったより小さい。手作り石鹸とはそう言うものなのだろうか。
「それで、色とりどりの六個セットになってるの。」
 なるほど。セットにするから小さいのか。
「あとは、綺麗な包み紙に包んであったわね。そんなところよ」
 母の言う石鹸の情報は、僕の想像から大きくかけ離れていた。石鹸というものは、白くて大きいものだけではないのか。色とりどりで、包み紙に包まれているとはまるで洋菓子ではないか。そういえば、さっきスプラトゥーンをやりながら食べたおやつの洋菓子はうまかった。が、それはどうでもいいことだ。今は石鹸探索に脳を使おう。
「母さんはテーブルのどこに石鹸を置いたの? 」
「端っこの方ね。テレビがある方向の端っこ。みちこもそこから動かしてないって」
「端っこって…洋菓子が置いてあったところの近く? 」
「洋菓子? 何それ、今日はおやつ用意してな…」
 母が急に黙った。
「どうしたの? 別の場所に置いたことを思い出した? 」
「う、ううん。いや、石鹸のことなんてどうでもいいわね。また、貰えばいいだけだし。それより、あんた水でも飲まない? 」
 母の様子がおかしい。
「どうしたんだよ。石鹸、どうでもよくないだろ。せっかく人にもらったのに」
「いいったらいいのよ。それより、水を飲みなさい」
 母の行動があまりにもおかしい。なぜそんなに俺に水を飲ませたがるんだ。行動に整合性がない。僕は母のそう言うところに腹が立つ。
「よくねえよ! それになんだって僕に水を飲ませようとするんだ! 石鹸の話の途中だろうが!」
 怒鳴ってしまった。いけない、冷静にならねば。
「いつもそうだ! いつも話してる途中に違うことをしようとする! うんざりなんだよ!」
 しまった。全然冷静になれないどころか、さらに怒鳴ってしまった。
「うるさいわね! 石鹸ごときにムキになって! もしかして清美ちゃんのこと好きなんじゃないの!? そして水を飲みなさい!」
「ちっちげえよバカ! 清美のことなんて全然好きじゃねえよ! 水も飲まない! 」
 意外にも母が言い返してきたので、さらに僕も言い返してしまう。いけない、このままじゃ。
「それもそうよね! 清美ちゃんだって、あんたのこと汗臭いって言ってたもの。だからきっと石鹸をくれたのよ! もしあんたが清美ちゃんのことを好きだったら、あんたがかわいそうなくらいよ! 水は飲みなさい! 」
 待て。衝撃的な事実を言わなかったか。
「あ…汗臭い?」
 自覚していなかったが、僕は汗臭いのか? しかも、清美ちゃんにもそう認識されている?
「汗臭いのはいいから、水を飲みなさい! 今すぐ! 」
 母が怒鳴る。
「だから、なんでそんなに水を飲ませたいんだよ! 」
 僕も怒鳴り返す。
「あんたがテーブルの上の洋菓子を食べたからよ! 」
「なんでテーブルの上の洋菓子を食べたら水を飲まなきゃいけないんだよ! 」
 僕がそう叫んだ瞬間。僕の中で、一つの答えが導き出された。洋菓子のような石鹸。僕が食べた菓子。母の冗談。石鹸を食うようなバカ。つまり、つまるところ。
「あんたが、テーブルの上の石鹸を洋菓子と間違えて食べたからよ!」
 バカは、僕だった。僕は急いで、母の差し出した水を飲み干すと、泡を吹いて倒れた。

「エディプス・コンプレックスの刺し合い」 松嶌ひな菜

 ぴこん、と母の携帯が耳障りな音を立てたので、わたしは読んでいた本から目を上げた。明るくなった画面が、否が応でも目に入る。しゅーくん、と名付けられたアカウントから、一件のラインがきている。「仕事入る前に電話できない?」
 半年ほど前から、母と連絡を取るようになった男の人だ。母の働いているスナックで出会ったらしい。25歳なので、今年40になった母より15歳下ということになる。といっても母は、スナックでは30歳ということになっているので、本人は5歳差だと思っているのかもしれない。恋愛関係にあるのかは、聞きたくもないので尋ねたことはないけれど、送ってくるラインの内容はただの友達のそれではないと思う。
「んじゃ行ってくるねー、モエ」
 軽い足取りで、洗面所から母が戻ってきた。胸元のあいたタイトなドレスに薄手のコート。金色に近いほど明るい色の髪を強く巻き、昼間よりぐっと濃く派手なメイクを施している。真っ赤な爪を光らせて携帯を取り上げると、画面を一瞥してバッグに突っ込んだ。きっと行き道に電話をかけるのだろう。わたしは素知らぬ顔で本を置き、玄関に向かう母を見送る。
「いってらっしゃい、お酒飲みすぎないようにね」
「はいはーい」
 じゃーね、と赤い唇でにっこり笑って、母はドアを押し開ける。丈の長いコートがひらりと翻り、たっぷりとつけた香水が重く香った。ドアがバタンと勢いよく閉まる。夜8時。母の一日の始まりの時間だ。
 鍵をかけ、本の続きを読むべく部屋に戻った。今頃母は、「しゅーくん」に電話をかけているだろう。もしもしー?という母の声が聞こえてくるようだ。男の人相手には高くなる母の声だけれど、「しゅーくん」と話すときの母は、むしろ少し低く、甘い声を出す。大人の女、みたいな、そんな雰囲気の声。スナックから帰ってきた夜中に電話をしているのを、何度か耳にしたことがある。嫌な声、と思う。母親が女の声で話すのを聞いて、気分のいい18歳の女の子はあまりいないと思う。
 母は、わたしの実の父とは、わたしが生まれる前に別れたらしい。詳しくは知らないけれど、わたしが物心ついた頃には父はもういなかったから、たぶんそういうことなのだと思う。わたしは父のことを、全くと言っていいほど知らない。唯一知っているとすれば、本が好きだったらしいということだ。小学校の頃から本ばかり読んでいるわたしを見て、母が言ったことがある。「本が好きって、あんたのお父さんに似たんだね」と。
 本を開いてページに目を落としたとき、すこし考えた。わたしのお父さんは、どんな本が好きだったんだろう。


 その週の土曜日は、雨だった。2限だけの土曜授業を終えて、借りていた本を返しに図書室へ行く。高校の図書室にしては蔵書が多いと思うけれど、1冊ずつしか借りられないので、毎日のように来ては本を返してまた新しく借りている。この日も1冊借りて帰った。「オイディプス王」という欧米古典だ。シェイクスピアがきっかけで好きになった欧米古典だけれど、ソポクレスの作品を借りるのは初めてだった。
 午前11時。この時間は家で母が寝ているので、なんとなく帰りづらくて、土曜授業のあとはいつも時間をつぶしてから帰る。行くのは大体ファミレス、近所だと同級生がいそうだから隣駅まで歩く。席はいちばん奥の端っこ。宿題を終わらせてから、借りた本を読むことにしている。今日のはあまり分厚くないから、すぐ終わっちゃうかな。そんなことを考えながら、ドリンクバーだけ注文して温かい紅茶を淹れた。
 宿題が片付いたので、今日借りた文庫本を手に取る。ページには、台詞だけが連なっている。病と飢えに苦しむ人々に、耳を傾けるオイディプス王。そこに妃イオカステの弟が登場し、この苦しみから人々を救うには、前王であるライオスを殺した者をこの国から追放しなければならないと告げる。オイディプス王は、何としてもその犯人を明らかにしようとする。そこに連れてこられたのがテイレシアス、盲目の預言者。犯人はオイディプス王その人であると、そう言うテイレシアスにオイディプス王は激昂する。それでも尚テイレシアスは言い募る。オイディプス王は実の父を殺し、実の母と結婚したのだと。
 すこしずつ、すこしずつ、何人もの言葉が集まって真実へと導いていく。テイレシアスの言ったことは、果たして本当だった。オイディプス王は、テーバイの地で、ライオスとイオカステの間に生まれた子供。お前は実の子供に殺される、という神託に怯えたライオスは、生まれたばかりのオイディプスの両踝を刺し貫いて捨てさせる。オイディプスはそこで死んでしまうはずだった。けれど、羊飼いの慈悲によって彼はコリントスの王に預けられ、実の子として育てられる。青年になったオイディプスは、お前は実の父を殺し母と交わる、という神託を受け、それを恐れてコリントスを離れ旅に出る。呪いから逃れられたと思ったが、そうではなかったのだ。その旅こそが、オイディプスを呪いへと導く。道中、オイディプスは道で会った老人を殺してしまう。それこそが、本当の実の父、ライオスだった。
 旅の果てにテーバイにたどり着いたオイディプスは、国民を苦しめていたスフィンクスに知識で打ち勝ち、テーバイの王となって前王の妃を娶る。元王、つまりライオスの妃だった人。それこそが、オイディプスの実の母だったのである。
 真実を知った妃は首を吊って自害。オイディプス王は自らの両目をつぶして放浪の旅に出る、というところでわたしの借りた本は幕を閉じた。あまりにも救いようのない悲劇。全部知ったうえでもう一回読み返してみる。一字一字、食い入るように読む。読めば読むほど痛々しく胸に迫ってくるのに、なんだろう、この、虜になってしまう感じは。
 2度読み返したところで、ずいぶん時間が経っていたことに気が付いた。紅茶に手をつけなかったことにも気づいた。せっかくドリンクバー頼んだのに、もったいない。すっかり冷たい紅茶をするすると啜りながら、今読んだ悲劇を思い返す。
 実の父を殺して、母と結婚してしまったオイディプス王。
 親だと知らなければ、殺すことも、異性として愛することも、できるのかな。
 不意に、父のことを思った。わたしは、わたしの父を知らない。父を父だと思って生活したことがない。もしも父に会ったとしたら、お父さん、だと思うのか。それとも、異性だと思うのか。
 会ってみたいな、とぼんやり思って、驚いた。今まで、会ってみたいと思ったことなんてなかったのだ。存在していることすら、幻のような父だから。
 時計を見ると、午後2時だった。そろそろお母さん起きてるかな。紅茶を飲み干して立ち上がる。外に出ると雨は小降りになっていて、家に着くころにはすっかり止んだ。

 その日の夜のことだった。いつものように出勤する母を見送り、お風呂に入って、寝るまでの時間をぐずぐずと過ごしていたわたしの携帯が鳴った。母からの着信だった。
「もしもし、モエ?あのさ、お客さんの入りが悪くてさ、早いんだけどもう店閉めることになったんだよね。そんでさ、今日友達が飲みに来てくれてたんだけど、そのコがすごい酔っぱらっちゃってさー、自転車で来てんのよ、このまま帰すと絶対マズいからさ、今日ちょっと寄らしてあげてもいい?」
 え、と言ったきりわたしは固まってしまった。酔っぱらいの?客を?うちに連れてくる?今から?深夜0時過ぎてるけど?
 黙り込んで何も言わないわたしに、母が一生懸命言い訳を並べている。いや、転ばれても困るしさ、モエ明日休みでしょ?ちょっと喋ってあげるだけでいいからさぁ、ねぇ、嫌?
 嫌に決まっているということがわからないんだろうか、この人は。そして、それをわたしが断った場合、明日一日中仏頂面をしている母と休日を過ごさなきゃならなくなるということも、わからないんだろうか。
「いいよ」
 できるだけ感情を込めずに短く答えると、食い気味のありがとう!が返ってきて電話は切れた。
 母とその男が来たのは、それから5分くらい経った頃だった。電話の時点で、きっともう近くまで来ていたんだろう。わたしが断るなんて選択肢、最初から母の頭にはなかったらしい。
 腕を組まんばかりにして母と入ってきたその男を見た、わたしの最初の感想は、「ああ、こいつがそうか」だった。
 色褪せた茶色いぼさぼさ頭。よれたTシャツにだらしないスウェットパンツ。次の感想は、「お母さん、こんなのがタイプなの?」である。
「モエただいまー、ごめんね急に。これ友達のしゅーくん」
「こんちはー、モエちゃんか、話よく聞いてるよー」
 あはは、と愛想笑いで返す。男が迷いなくローテーブルの前に座るのを見て、あぁこの人来るの初めてじゃないんだな、と思った。
 母が男の隣に座ったので、わたしは二人の前に座ることになった。いかにも不健康そうにむくんだ顔をした男だった。これがお母さんのタイプなのだとしたら、わたしのお父さんもこんなのだったのかな、嫌だな、なんて考えた。
「モエちゃんいくつだっけ?高校生?」
「そうですけど」
「へー、いいねー、っていうかモエちゃん、お母さんそっくりの顔してんね」
「よく言われます」
 母と顔が似ていることは、よく言われることだったけれど、この男に言われるとなんだか気持ち悪かった。
「なにー、なに話してんのー」
 母がお酒の缶をいくつか抱えてきた。酔いをさますために寄らせたんじゃなかったっけ?なんて突っ込みは意味がないとわかっているのでしないけれど。
 男はあまり呂律の回らない口で、驚くほどよく喋った。流し込むようにお酒を飲んでは、だらしない顔で母に話しかけている。わたしは黙って部屋に引っ込むわけにもいかず、ただそれを見ている。そのうち男は母に腕を絡み付けて、下ネタを連発しては、にやにやと母の顔を覗き込みだした。酔った母は抵抗することもなく、お酒で赤くなった顔を崩して嬉しそうに笑っている。
 不意に男が母の髪を鷲掴みにした。乱暴に顔を近づけると、ためらうこともなく唇を重ねた。時間が凍り付いたような気がした。
 二人の顔が離れても、まだ目の裏にさっきの光景が焼き付いていた。一瞬ののち、ものすごい嫌悪感と吐き気が込み上げてきた。ちょっとお手洗い行く、と絞り出してトイレに駆け込んだ。胃のなかにあったわずかなものが全部逆流した。自分が吐いたものを見ても、まださっきの二人の顔が生々しく脳裏にあった。今なら二人を殺せるような、それほどの衝動がこみあげた。
 トイレを流して、洗面所で手を洗い、そのまま床にへたりこんだ。動悸はなかなかおさまらなかった。わけもわからない涙が流れ出して止まらなかった。30分くらい経って、ようやく呼吸が落ち着いてきた。
 部屋に戻ると、母はテーブルに突っ伏して眠っていた。その寝顔を見て、ばかばかしいような、呆れたような、なんだか気の抜けたような気持になった。男は隣で携帯をいじっていて、わたしが入ってくるのに気づくと目を上げた。
「おかーさん寝ちゃったよ」
「みたいですね」
 だらしなく緩み切った、酔っ払いの顔を見て、刺してやろうか、という気持ちがまた突き上げてくるのを感じた。テーブルに、わたしの使っていたシャーペンが転がったままだった。わたしはそれを手に取って握りしめた。殺せまではしなくても傷は残せるだろうと、冷静に冷静じゃないことを考えた。刺しやすいように利き手に持ち替えたとき、不意に気になった。
「ねぇ、うちのお母さんの、どこがいいの」
 自分の声じゃないような、とげとげしい声で聞いたのは、そんなことだった。
「ちょっと若く見えるのはわかるけど、お兄さん別に同世代の女の子いくらでもいるでしょ。なんでうちのお母さんなの」
 男は、聞かれたことの意味を、回らない頭でなんとか処理しているようだった。そして、ゆっくりとこう口にした。
「お母さん、みたいだから」
「は?」
 男と目が合う。その表情が、かすかに切なそうだったのは気のせいか。
「お母さんを、自分のものにしたような気持になるから」
 こつりと音がした。わたしが右手から落としたシャーペンだった。

「流転」 岡本夏実

 僅か親子三代の間に、テバイの都は三度もの悲劇に襲われた。数多の人が死に、テバイの都はどこも血肉がこびりついて、しばらくはきっとその臭いも薄れないだろうと、誰もがそう思っていた。それは余りに大きなものがテバイから失われたからで、その喪失感を埋めるその手段を、テバイに住む誰もが持ち得てはいなかったのだ。
 テバイから王は去った。かつてスフィンクスを退け、しばらくの安寧を築きあげ、そして此度の災いをも解決しようとしたその男は、人々の推挙を得て王となって、皆に信じ愛されていた。誰もがその人生の絶頂を疑わず、また、その男に守られる都テバイの未来を信じていた。ところが彼はその王としての言行を発端として持ち得ていた全てを失い、杖と衣とを除けば何も持たない寂しい盲人として、彼に全てを与えたこの都を追放された。
 そしてテバイに残されたのは、その血を穢されたことを周囲に知られた子供が四人ばかりと、王妃の兄とその家族だけだった。だが彼らでは、絶対的な王を失ったこの都を、かつて神の怒りを買ったこの国を立て直すことは不可能だった。ああいや、ある程度を取り戻すことは出来てはいたのだが、かつての繁栄はもうそこには無かった。時代が進めば或いは再びそれを得ることもあったかもしれないが、少なくとも、その時を生きた彼らの手にそれが戻ることは決してなかったのだ。
 アポロンの、そして自身の願いによりテバイを追われたオイディプス、かつては王にまで上り詰めたその青年は、しかし今や目も見えぬ、光も感じぬ老爺となって、栄光の地から遥か遠く、最早当人もその名を忘れた深い山脈の果てでその命を散らした。木々の他に何も見当たらぬようなその辺境の地では、時折道を間違えでもしたのか迷い込み力尽きる旅人の他にオイディプスの心を乱すものは無かった。静かな山での暮らしの中で、彼らだけがオイディプスに、かつて捨て去った都の華々しさを語ることになったが、オイディプス自身はもう、自らそれを求める気力を持つことはなかった。
 彼はその残りの生涯を、失った妻であり母であるイオカステを偲ぶことと、それから彼の残した子供たちの今を思って嘆くこととに費やして、とうとう他に何も成し遂げないままで黄泉に下った。彼が見たのが楽園であったのか煉獄であったのか、それを語ることが出来るものはいない。かつて彼にあまりにも過酷な神託を下したアポロンやその同輩、つまりは神々の類であればもしかするとそれも為せたのかもしれないが、今や彼らは語られる側でしかなく、彼らが人間に語り掛けるなどということはない。神殿も英雄譚も栄華を誇った都でさえも、全ては時と人との流れの中で過去になって、誰もその真実を知ることは出来なくなってしまったのだ。
 だがそれは、かつてその都を彩っていたものが全て失われた、ということではなかった。神殿はその外観を残し、英雄譚は神話として語り継がれ、時に書物として世界のそこかしこにあった。そしてそれよりももっと世界中に散っていたのは、そう、かつてその都に暮らしていた人間たち、その魂を持つものだった。それは、どの時代においても、どの国においても存在した。国の残っていた時代から、それが滅び過去の遺物になった現在に至るまで、世界のそこかしこに彼らはずっとあり続けていたが、しかしかつての国々を、栄華を誇ったその都を、誰も取り戻そうとはしなかった。
 それは、彼らがそれらに見切りをつけたからという訳ではない。そもそも、見切りをつけることが出来るような記憶を、知識を、再びこの世に生まれ出でたその魂は持っていなかったのだ。彼らがかつて持っていた、時には魂に刻みつけていたそれらは、楽園を旅立つその前に、その口に含んだレテの河の水の一掬いによって失われていた。だから彼らは、前世の一切を気にすることなく、世界のあちこちに散り去って、新たな生を得て楽園から去ることになっていた。国が廃れ文化が廃れるその中で、人々は各々その土地の、その人物の持つ思想の中に溶け込んでいって、楽園から、そして煉獄から人間の姿は失われていった。
 だが、そうした流れに反して、ただ一人飽きもせずに黄泉と現世を行き来する旧い人間がいた。肉体を失い傷がその身体から消え去ってなおその眼を閉じて開かず、それによって、レテの水を十分に飲まないまま、その記憶を残したまま現世に戻ってしまったその青年は、その名を、その記憶を持ったままであったばかりに再びその過酷な運命を繰り返すことになった。
 彼は何度も生まれては預言を受けたその親に疎まれ、時には半死半生の目に遭わされてから、時には最後の慈悲なのか何もされないままに捨てられ、そしてかつての生でそうであったように、心優しい誰かの手によってその命を救われた。その後のことはもう、語るまでもないだろう。育ての親の下で育ち、ふとしたことでその現状を疑い、神託を受け、時には人間の手によって未来を予知されて、育ちの親の元を離れる。そしてその後何も知らぬまま、受けた神託、或いは予言を、現実のものとしてしまうのだ。
 最後にはすべての真実を知って絶望するという所まで、彼の人生はいつも同じ道を辿った。それどころか、むしろその一部分をこそ、彼は毎度味わうことになった。そしてその絶望の中でかすかに、だが確信をもって、かつての生を思い出した。すべての始まりである、テバイの王にまでなったあの人生を。何度もこうしてオイディプスであり続けていて、未だにかつて受けたあの神託から逃れられていなかったのだということを。
 だからこそ、彼は彼のままずっと、忘却という慈悲を与えられないまま、何度も人間として生を受けることになってしまったのだ。彼は何度も深く絶望し、そして結果として再び、その目を損なうことになった。そしてまた、その記憶を濯がれないままに、黄泉を去り現世に至るのだ。生まれるたび失う記憶によって、持ち得る記憶によって、そして何よりも生まれたその時代と場所によって、細部が多少変わりはしたが、大筋はいつも変わらない。
 何とも不幸なことに、オイディプスはずっと、彼であることから逃れられないままでいた。

 だが、それも今回ばかりなのかもしれない、と人の世に対する興味を失って久しいとある神は知らず呟いていた。彼が本来持つ権能では立ち入ることの出来ないこの黄泉の片隅に、同じ神であるものに頼み込んで入り込んだ彼のその視線の先には、常にない程にぼんやりとして小さな塊があった。人間であるかも分からない、しかしこの楽園の片隅に一瞬でも存在し、それどころかこの河の側に無意識にでも辿り着いてしまうこの魂は、もうそれを信じている人間が、この世界を訪れる人間がただ一人であったからこそ、かつて己が神託を下した男、それにより苦難に満ちた終わりを迎えることになった男であると認識された。生まれることもできず、故に子供の姿にすらなれず、であれば本来はそのまま、この河を通らずしても現世に還るこの魂は、その苦しみに満ちた記憶に、苦難を約束された名に縛られるからこそ、ここに居る。そう、この塊には、一体どのくらいかは分からないが、自我があり、記憶があるのだ。
 かつてであれば、この神は、この人間を、罪人と呼ぶことが出来た。不治の病根と呼び立てて、彼が得たその居場所から、彼の手の中に溢れていた幸福から、彼を遠い地まで、二度と這い上がれないほどの絶望の淵まで追いやってしまうことが出来た。
 しかし今、彼にはもう、そうすることが出来そうになかった。泣きも喚きもせず、それどころか何の反応も示さないまま目の前でただ揺れているこの塊はもう、かつての王であって、かつての男であって、そうではない。場合によっては、人間としてすら扱われないかもしれない。事実、人間の間でそうされたからこそ、この魂は今ここにあるのである。
 かつて、孕んだ子を生まず流すことは、職によっては、地位によっては当然の禁忌とされていた。そして神の力は多少とはいえまだ強い力を持っていて、そうされないような、そうできないような母親の腹に、この男は宿されていた。だからずっと、こうなることは、ありえなかった。
 だが今、神の力が薄れたのか、それとも神託の力が薄れたのか、はたまた人間がそれに抗うだけの力を持ったのか。そのどれが原因かは分からないが、この男は、これまでの長い旅の中で初めて、産み落とされることなくこの場へと戻ってきた。彼は今、人間であって人間ではなく、生者であってそうではなく、そして、あの男であって、そうではない。
 ──であれば、終わらせてやろう。
 神は、かねてからの傲慢さでもって、この男をもう、終わらせてやることにした。ふわふわと大した実体もないままに彷徨うその塊を指先で掴んで、足元に流れるレテ河の、その澄んで冷たい中に晒す。その身体を押し流そうとするその水を、押し込まれるまま飲み下す、そんな簡単な動作でさえ出来るかも怪しいその塊を、ずっと、ずっと、その指先に捉えて離さない。彼が全てを忘れてしまうまで、彼のその身に染みついてしまった忌まわしき運命が流れ去るまで、目を逸らさずに、神はその魂を見つめていた。そして、長い時間をかけて、その塊は、その実体を失っていく。仮にも神であれば、それしきでその魂を掴めなくなることはなかったが、感覚は徐々に失われていく。そして、その指先に触れるものが、神自身の指以外なくなったその時、ようやく、神はすっかり重くなった腰を上げた。
 これでもう、この世界を訪れる者もなくなるだろう。かつては人の活気に、そして彼らが作り出していた美に溢れていたこの楽園も、今はもう、ただ静かなだけだ。見て醜いところは無いがただそれだけで、そうなればもう、誰がこの地を訪れるだろう。
 そしてそれは、神自身の力がまた失われることも意味していた。彼を、彼らを真剣に信じる者がまた一人減った今、果たして明日この身が、この意識があるものかも定かではない。
 それでも、これでよかったのだと、つままれた指から解放されるや、ふわり目の前から消えていく魂を見て、彼は一人勝手にそう思っていた。

 そうして、長い長い旅路の果てに、一つの魂はようやく平穏を得た。レテの河の流れに全てを溶かされた今、オイディプスという男の名も記憶もようやく全て失われて、彼が彼のまま苦しむことはきっともう無いだろう。
 それに伴って、世界からはいくつもの悲劇が失われた。だがそれももう、かつてほど目立つものではなかったし、世界は未だ悲劇に溢れている。今ようやくの平穏を得たあの魂もまたいつか、もしかするとようやく得た今世においても、別の悲劇に巻き込まれるのだろう。そしてまた、生まれて死んで、広い世界を、長い歴史の中を巡っていくのだ。
 それを語るものはもうどこにもいない。それを知り得るものもきっと、少なくとも今を生きる人の中には、もう現れはしないだろう。現世にあるのは今だけで、そこに過去を、あのテバイでの苦難の日々を、オイディプスの経験した痛みを、その身をもって知るものはない。それだけがきっと、彼にとって、そしてあまねく全ての人間にとって、救いであるに違いなかった。
                                end

「わたしだけが知らない世界1」 魚取ゆき

恋も知らないし愛も知らないと言って死んだらしいテイレシアスが告げる災厄
本当はみな知っているクレオンは天に向かって激高している
腕時計をなくしたと夫が言った。女のところ? 古代ギリシャだと夫は言った
Tinderで出会ってしまうような恋はありなのか? 考えるのに時間がかかっている
宅配便のハンコを押しているあいだにスープは沸騰してしまったまた3年が過ぎてしまった
今日は一日中ネットでギリシャを見て過ごしたわたしは自殺をしないイスカリオテです・か
死ねと言って投げた文庫本のカバーがとれた、私の本なのに何をするんだと夫が叫んだ
生と死は白・黒ではなく白・白であるソポクレスの手は折られねじれている
(子ども)の)いない)夫婦)は)幸せ)か? 逆転【ペリペディア】はないと決めていた
預言とは叶えないほうがはるかに難しいオイディプス王に土ふまずはない
スフィンクスは愛されもしないし愛しもしない吐く息は白い空にどこまでも伸びていった

「わたしだけが知らない世界2」 魚取ゆき

 その町でわたしはバレーボールをしていた。午前中の授業が終わってしまうと、わたしは午後も授業がある上級生のクラスを廊下の窓からのぞきながら、韓国人のクラスメートたちと階段を降り、正門の近くの食堂でごはんを食べたあと、留学生宿舎の部屋にこもって勉強をした。机の上に教科書やプリント類をひろげ、宿題をやり、単語を覚え、できなかったところを復習し、習っていない文法を予習した。すると、たいてい3時ごろになるとドアが控えめにノックされて、あけると部屋の前にバレーボールを抱えたミーシャが立っているのだった。
 ミーシャの腕の中でバレーボールは相対的に小さく見えた。ミーシャは、ロシア人と言われてわたしがイメージするような、いかにもロシアっぽい顔つきをしていて、背が高く、肌が白くて、いつも困ったような顔をしていた。30歳をとうに超えていて、結婚はしておらず、下手だったがバレーボールが好きだった。ミーシャは上級生の中ではいちばん簡単なクラスにいて、ほかの人たちよりも授業が終わるのが少し早かった。ミーシャでなければ、ここに来る前はロシアの海軍で2年働いていたという、ロシアで生まれ育った朝鮮族の、背が低く運動神経のいい22歳のヴィクトか、同じくロシア生まれロシア育ちの朝鮮族で、いつもかわいい女の子に囲まれてへらへらしている、髪を短く刈りあげた19歳のヴァレリャが来た。コートに行くとほかの国の留学生もいたけれど、いずれにせよ、バレーに誘いに来るのはきまってロシア人だった。
 大通りに面した留学生宿舎から、丘のほうに登る坂を10分、15分ほど歩くと、中国人学生たちのキャンパスがあり、食堂や学生会館や運動場がまとまっていた。運動場に面して、運動場から近いほうにバスケットボールコートが、遠いほうにバレーコートが並んでいて、バレーコートは全部で9面あった。わたしたちは空いているコートに入り、バレーの経験や運動神経や男女比などを鑑みて、何となく2組にわかれると、さいしょは決まって運動神経のいいウィクトが強いサーブをし、コートのうしろでかまえているヴァレリャがそれをレシーブした。途中でメンバーが帰ったりして、バレーのメンバーが足りなくなると、ヴァレリャが隣のコートに交渉しに行って、隣のコートで暇そうにしているバレーのうまい中国人を1人か、2人、連れてきた。中国人の学生たちはコートにぎゅうぎゅう詰めになってバレーをしていて、遊びではないボールの速さの、レベルの高いバレーをしていた。連れてこられた中国人はわたしたちにあわせてボールを打っていたが、退屈するのか、30分もすると元のコートに戻っていった。あたりがすっかり真っ暗になり、夜間のライトがこうこうと照りつける夜7時か、8時までバレーをして、最後まで残っているのはだいたい、ロシア人のヴィクトと、ミーシャと、ヴァレリャと、サーシャ人と、韓国人のキム・ジヨン(23歳だが34歳くらいに見え、ヴィクトと2人並ぶと、中学生が2人いるみたいだった)、中国人だけれど中国人の学生と一緒にいるところを見たことがなく、いつもわたしたち留学生とばかり遊んでいるDK、日本人はわたしとユカだった。ユカは生まれも育ちも国籍も日本人だが、パスポート的な血筋でいうと4分の3が中国人で、もともとの血筋でいうと4分の3が日本人だった(親同士が、旧満州でのいわゆる残留孤児二世で、ほかにも複雑な過程がいろいろあり、そのような血の構成になったのだという)。
 残っているメンバーはバレーが終わるともう店じまいをしかけている学生センターのフードコートにいって晩ごはんを食べ、そのあとみなで歩いて留学生宿舎までもどった。
 いっしょにバレーボールをするメンバーはだいたい、20歳前後か、22、23歳くらいで、27歳のわたしは、30を超えているミーシャの次に年長だった。が、しゃべれないので何となく一番年下のように扱われていた。留学生たちはみな外国人向け中国語クラスの上級クラスにいた。こっちに来てから中国語をはじめたわたしは、一人だけ基礎クラスにいて、1か月や2ヶ月では、自由にしゃべることがほとんどできなかった。わたしはみなが話しているのを黙って聞いているか、子どものように一言、二言、周りの言うことに反応して何か言った。

 延吉【えんきち】について1か月がたったころ、日本にいる夫から段ボール箱でものが届いた。あけてすぐ目に入ったのは、醤油にみそ汁セットにかつお節、それから急いでものをトランクにいれてきたので、トランクに入れ忘れてきた夏用の衣服や、シャンプー・化粧品類、いちばん底に、いれておいてとお願いしてあった日本語の中国語文法書と、さらに気をきかせて入れてくれたのか、日本語の本が何冊かあった。平家物語の上・下巻セット、平家物語現代語訳の上・下巻セット、なぜかオイディプス王の文庫もあった。
≪日本語ホームシックにならないように!≫
 夫からのメモがはいっていた。あいかわらず丸っこくてかわいい字だった。夫とは毎晩シャワーを浴びたあとに電話をしたけれど、わたしは延吉にいる間に、夫が送ってきた日本の本をけっきょくいちども読まなかった。

 バレーをはじめたのは3月の終わり、延吉に来てまだ1ヶ月も経っていないころだった。わたしのいる中国語入門クラスには12人の韓国人がいて、最初はもう1人ロシア人がいたのだけれど、授業開始早々、漢字の煩雑さに嫌気がさしたようで、あきらめてロシアに帰ってしまい、結局韓国人12人と、日本人わたし一人のクラスになった。みなゼロから中国語をはじめた人間ばかりで、さいしょはニーハオくらいしか聞き取れなかったから、先生は英語と、韓国語をつかって授業をした。休み時間になると韓国人の学生たちは韓国語で冗談を言いあい、授業が終わると、わたしを交えて近所の食堂か韓国料理屋(朝鮮料理屋なのだが、彼らは韓国料理屋と言っていた)に行って、韓国料理(というか朝鮮料理)を食べた。そしてごはんを食べ終わるといくつかのグループにわかれてどこかに遊びにいって、わたしは留学生宿舎にもどって勉強をした。
 ある日の午後、キャンパスの坂道を歩いていたわたしは、わたしたちと同じようにつたない中国語をしゃべり、何となくその場から浮いている、留学生たちの集団に出くわした。先頭のミーシャはバレーボールを抱えていた。何を言われているのかわからなかったが、一緒に行こうと誘われていることはわかった。そうしてわたしはバレーボールをはじめた。
 バレーをはじめて3日もしないうちに、わたしの腕は青あざや赤あざだらけになった。そのうち、授業で一緒になるクラスメートや担任の教師にも心配されるほどになり、大学の正門の前に並んでいる薬屋で、店員に言われるままシップと痛み止めスプレーを買って(店員のおばちゃんはわたしが中国語も朝鮮語もできないことを知るととても不思議そうな顔をした)、夜寝る前に手当てをしてはいたのだけれど、毎日バレーをしていては、大してよくはならなかった。小学校のとき体育の授業でバレーをしたことがあるくらいのわたしが唯一得意だったのはサーブだった。中学校のとき、テニス部で習ったサーブの要領で腕を大きく回し、サーブした。ボールは親指の根元にある筋肉のこぶのところではなく、手首や、腕と手首のあいだにあたり、サーブをするたびに手首や腕が病的にシクシク痛んだ。
 一度、薬局でもらった青いシップをつけたままバレーをすると、シップのシワがそのままボールのアザになって、両手首には赤いあざの上に、鎖でつながれていた人のような、不穏な赤黒いアザの線が何重にもなってできた。腕を腫らして留学生宿舎に帰ってきて、ちょうどシャワーを浴びて髪を乾かしおわったころ、ドアがノックされ、開けるとミーシャが立っていた。ミーシャは留学生宿舎の共同キッチンからもらってきたのだと言って、氷の袋を差し出した。
「明日から2、3日休んだらどう? あなたの腕は細くて、折れてしまいそう」
「谢谢【シエシエ】」
 ミーシャは困ったような顔をして首をかたむけ、ドアをしめた。

「ここ絶対、お化けいるよ。ごはん食べてるとなんかぞくぞくする」
 ユカはそういうことをよく言った。学生センターの中のフードコートでごはんを食べるとき、ユカはきまって麻婆饭【マーポーファン】を頼んだ。スプーンで麻婆饭【マーポーファン】を食べながら、ユカは顔をしかめるいつものくせで、顔をしかめてそう言ったのだった。
「なんか感じが悪いのよ。もう座ってるだけでぞくぞくする。見えないけど、何か、そういうの……鬼子【グイズ】(お化け)? いや、ここだけじゃなくて、もう日本でもどこでもそうなのよ。感じるとこではどこでも無条件に感じるって言うか。ウチのお母さんもそういう霊感がある人だから、たぶん遺伝なんだと思う」
 ミーシャが適当な相槌をうった。DKとヴィクトはこの手の話に興味がなさそうで、2人でサッカーの話をしていた。ジヨンはなぜか前のめりになった。ウラジミルも話を聞いていなかった。ユカはそう言う話をするわりには、いつものようにフードコートでごはんを食べることをあまり気にしてはいないようだった。
「在俄罗斯呢【ザイウーロースーナ】(ロシアでは)?」
 ジヨンが聞いた。
「人がたくさん亡くなったようなところはね」
 ミーシャが言った。
「炭鉱の事故があったところとか、殺人事件があったところとか、小さい子どもが亡くなったようなところでは、お化けの話もけっこう聞くけどね」
「じゃ、サハリンでは日本人のお化けがたくさんいるんじゃないの? 前に何かで読んだけど、雪を掘ったら今でも人骨が出てくるらしいよ」
 ユカはこの手の話も好きだった。
「さあ、日本人のお化けは聞いたことはないけど」
 ミーシャがまじめに答えて首を傾けた。
「ぼくの母はサハリンでトナカイのお化けを見たらしいよ。1月のクリスマス期間中の、夜中に車を運転してるときにトナカイのお化けを見たって」
 もくもくと食べていてだれよりも先に食べおわったウラジミルが言った。
「それはトナカイじゃないの?」
 ユカが不服そうに言った。
「那么【ナマ】,在日本呢【ザイリーベンナ】(じゃ、日本では?)」
 ジヨンが聞いた。
「コンビニとか、駅のトイレ、裏路地とかとか。山の近くとか、沼地とか、大きな事故があった場所とか。まあ、昔から日本でもけっこう人死んでるし」
「人が死んでるだけでお化けがでるなら、世界中お化けしかいないでしょう」
 ミーシャが言った。
「そういえば、延吉のこの校舎でも、人はけっこう死んでるよ。山のほうは自殺スポットだって、前に母さんが延吉に来たとき言ってた」
 麻辣麺【マーラーミエン】を食べ終わったDKが急に話に入ってきて言った。
「おれも聞いたことある」
 お化けの話から自殺の話になるとなぜかヴィクトも話に加わった。
「大学の目の前の、ショッピングモールの空きテナントで、2年前くらいにも自殺があったらしいよ。正門前から上がったところの、白い石のベンチが並んでるところでも5、6年前に何件か、たて続けにあったらしいし」
「やめようよそういう話。おれそういう話怖いから」
 黙って炸醤麺【ジャージアンミエン】を食べていたヴァレリャがいきなり反対した。DKとヴィクトが顔を見合わせて黙った。
「まあ、ていうかこのあたりは絶対そうだよね。このへん、満州国のときに日本人だけで5万人くらい死んでるし。ソ連軍が起こしたやばい事件もいっぱいあるし。朝鮮人も中国人も韓国人もロシア人も日本人もみんな……」
 ミーシャは首をすくめて見せた。ヴァレリャとジヨンはもくもくと五花肉(ウーファーロウ)を食べていた。
「ていうか、ここの大学のキャンパス、関東軍が使ってた建物、そのまま使ってるらしいですよ」
 ユカはその手の話にも詳しかった。22歳のユカはわたしと日本語でしゃべるときは丁寧な口調になった。

  試験シーズンでも毎日バレーをすることはやめなかったのに、試験シーズンが終わり、夏休みが近くなると、わたしたちは外が暑いのを理由に、自然とバレーから足が遠のいた。冬のあいだはマイナス20度、30度、ひどいときには40度まで冷えるらしい延吉も、夏が近づくといっきに気温が上がり、日中は30度ちかくに達するようになっていた。
 わたしたちはバレーコートのかわりに、留学生宿舎の三階にある図書室(ほとんど本はなく、空き教室みたいな感じだった)でたむろするようになり、そんなときユカが見つけてきたのが、大学の開校70周年を記念した学生演劇大会のチラシだった。ユカはそれを留学生課の学生掲示板で見つけ、押しピンでとめてあるのをそのままむしり取って、留学生宿舎の図書館にもってきた。
 チラシを見て、やろうといいはじめたヴィクトもウラジミルもジヨンも、脚本を探してくるでもなく演劇のアイデアを出すでもなく、何もやろうとしないのにしびれを切らして、ユカは自分で脚本を書いた。やる気がでないと言いながら2日たち、それからユカは留学生宿舎の図書館に、キャンパスの図書館から借りたのだという『オイディプス王』の大判の絵本をもってきた。そして20分くらいで雑な脚本を書いた。
「大家好【ダージャーハオ】!我是俄狄浦斯【ウォーシーエーディープゥスー】。底比斯的皇帝【ディービースダファンディ】。」(みなさんこんにちは! 私はオイディプス。テーバイの皇帝。)
 書き出しはこんな感じだった。平素本なんか読まないのに脚本なんか書けるわけないっすよ、と脚本を読み聞かせながらユカは自分の脚本に文句を言った。演じると全部で15分くらいの短い演劇だった。
「配役のオーディションでもしようかなあ。面倒くさいからいいや。主人公のオイディプス王はDKね」
 DKはにこにこ笑っていた。だれも異を唱えずそう決まった。ユカは次々に配役をその場で決めていった。DK以外は、男女がめちゃくちゃの配役だった。オイディプス王の妻のイスカリオテはミーシャが、預言者のテイレシアスはヴァレリャが、それぞれ女装してやることになり、サーシャは羊飼いの男、ヴィクトは神官、ウラジミルはコリントスからの使者とイスメネと兼ねた(コリントスからの使者もイスメネもほとんど立っているだけだった)。ユカは少し悩むと、わたしは余っていたカルロスの役をあてがった。わたしのセリフは最初と最後にセリフを一言ずつ、「It’s not me(なぜか英語だった)」「交给我吧【ジャオゲイウォーバ】!(おれにまかせろ!)」だけだった。脚本を書いたユカは、最後に出てきてすぐいなくなる、オイディプスの娘のアンティゴネ役を兼ねることになった。

 脚本が配布されて4日後、ろくに練習もしないうちに、学生演劇大会の日はやってきた。演劇は体育館で行われた。体育館はキャンパスのいちばん中心部にあり、600人くらい収容できそうな大きさだったが、シートの上に並べられたパイプ椅子に座った学生は60人くらいだった。演劇の出場者らしい中国人学生たちのほかに、散歩をしているついでに立ち寄ってみたらしい、大して興味のなさそうな近隣住民や幼児たちも何人か混ざっていた。
 DKのオイディプス王は怪演だった。わたしたちのうち何人かは、棒立ちでおぼえてきたセリフを言うだけだったが、DKの演技は堂に入っていて、大げさな身ぶりや表情で感情を表現し、怒るシーンでは顔を真っ赤にして怒り、涙を流すシーンではほんとうに涙した。ろくに練習をしていなかったので、舞台に立ってはじめてDKのあからさまな才能を目にしたわたしたちはあっけにとられていた。ユカは舞台袖で得意そうな顔をしていた。
 DKをふくめ、わたしたちの格好はみなジャージや、Tシャツにサンダルといった格好だった。衣装にまで凝る時間がなかったのだ。
 留学生部門から演劇を出したのは、わたしたちのほかにはもう一グループだけだった。延吉のカトリック教会で活動しているらしい韓国人留学生たちの、詩人のユン・ドンジュを主人公に、彼の詩作のストーリーと抗日の歴史を重ねあわせたオリジナルの劇だった。劇は中国語で演じていたが、ところどころセリフに韓国語をはさむので、何を言っているのか聞き取れず、並んで座ったジヨンだけがしきりにうなずいて聞いていた。
 留学生部門のほかに、中国の学生たちの劇は十いくつエントリーされていた。毛沢東の若いころの逸話を演劇化したやつとか、60年代の中国の新青年たちのさわやかな恋愛模様を描いたオリジナリルの演劇とか、体操科の学生たちがアクロバティックに演じる西遊記とか、女性バレーボール選手が子どもを事故から救いヒーローになるとか、そういう感じだった。中国の学生の劇の中で優勝したのは、体操科の学生たちの西遊記だった。
 留学生部門は留学生だけの参加資格だということが、審査されている途中で判明し、中国人学生のDKが主役のわたしたちの劇は選考対象外になった。それで、自動的に韓国人留学生たちの劇が優勝し、けれどそのリーダーが留学生部門の優勝スピーチで、「ユン・ドンジュは朝鮮族です。中国朝鮮族ではない」と言ったので、その優勝もとりやめになって、けっきょく優勝者はなしになった。
 ユカは大して気に留めてもいない様子だった。

 みなで打ち上げを兼ねて、大学の正門から歩いて15分ほどの朝鮮式の焼き肉屋に行き、白酒【バイジウ】や米酒【ミージウ】を飲みながら焼き肉を食べた。まだ肉もろくに食べていないうちに、酔っぱらったのかDKはなぜか泣いた。
「優勝できなくて悔しいのか」
 ミーシャが聞くと、
「うまく演技ができたから自分で自分に感動した。母さんに見せてあげたかった」
 DKが言った。みんなからDKと呼ばれていたが、DKの本名は王迪可【ワンディーケー】だった。お酒が進んでくると、ユカが日本語でわたしに言った。
「うち、たいした大学も行ってないし、学もないしあれなんですけど。親がむかしからオイディプス王好きなんですよ。学生のときに習ったと言って。うち、小さいころからミステリがー好きなんで、親が教えてくれたんです」
「へえ」
「あれって、預言に従って、真実がわかってくるみたいな感じじゃないですか、でもリアルに考えて預言とか、あると思います? うちの解釈は別にあるんです。ほんとうはみんな知ってたんですよ。一種のリンチみたいな感じなんです。オイディプス以外は、みんな最初から知ってて、よそ者のオイディプスを追い出そうと思って仕組んでるんですよ。ほら、日本じゃなくても村社会的なやつって、世界各国であるじゃないですか。うちも日本では転勤族なんで、名古屋に住んでるんですけど、のけものにされたりとかもあって」
「へえ」
「それは関係ないんですけど、その考えが心に残ってて、何となく作ったんですよね。あの脚本」
 留学生たちでしゃべるとき、ユカはだれよりも早口の中国語をしゃべり、気の強いリーダーのような雰囲気をもっていたけれど、わたしと日本語でしゃべるときは、急に年下のようになってわたしに対して敬語でしゃべった。
 深夜の一時だった。ミーシャもヴァレリャもサーシャもジヨンも酔っぱらってもう宿舎に帰ってしまって、残っているヴィクトとウラジミルもそろそろ帰りたそうにしていた。ユカはテーブルの上で半分眠っていた。DKは、感極まったように一人でまた泣いていた。
 わたしは不意に眠気を感じた。そして何となく自分の腕を見た。この一週間のうちに大きな腫れはひいていて、赤黒い線が手首のところどころに残っていた。
「そろそろ帰りますか」
 ユカが言った。
「このへん、夜は治安悪いですから、人さらいとかもいるらしいですよ。男連中がいるうちにさっさと帰りましょう」
 わたしたちがいる町は中国の、北朝鮮との国境にある朝鮮族自治区の延吉という街だった。 
「走吧【ゾウバ】(行こう)」
 ユカが立ちあがって言った。ヴィクトとウラジミルともつられて立ちあがった。まもなく期末テストの結果も開示され、2か月の夏休みに入るのだった。わたしたちは朝鮮語と中国語が二列になり溢れだしている町を歩き、宿舎の自分の部屋にもどった。


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