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3『怪談牡丹灯籠』

 法政大学の授業「創作表現論」で学生が書いた作品の中から秀作を紹介します。第3回のお題は『怪談牡丹灯籠』です。

「創作表現論」についてはこちらのページをご覧ください。

「ぼくの三枝子」  魚取ゆき

 湯島天神で上の姉の結婚式に出たあと(神前式も披露宴も湯島だった)、ぼくは歩いて上野に向かい、不忍池を一周して、本郷四丁目にあるじぶんのアパートまで歩いて帰ることにした。その途中、母から電話がかかってきた。今日、三田の実家に母方の親戚が何人か集まることになったから、今日は実家で泊まることにしないかという電話だった。
「じゃあそうする」ぼくは言った。
「果物とお羊羹を買ってきてね」母が言った。「上野の、御徒町の松屋のところの何とか通りに、大きい果物屋さんと、並んで老舗の和菓子屋さんがあるでしょう。そこで果物を何でもいいから1万5千円ぶんくらいと、栗入り羊羹を2竿、買ってきてくれる?」
「わかった」
「コウタ君がいてくれるとママも安心。親戚のおばちゃんに何か面倒くさいことを言われても、ハイハイって受け流しておけばいいからね」
「うん」
 返事をしながら、母の話をちゃんと聞いてはいなかった。本郷三丁目の「かねやす」のある交差点だった。気づくと横断歩道の真ん中で、信号が赤であることに気がついた。 
 あっと思う間もなく車にはねられた。2月の寒い冬の日だった。
 目覚めるとベッドの上にいた。病院だ。ぼくは自分がはねられて地面にたたきつけられたところまで鮮明に覚えていた。クッションのよくきいたダブルベッドの中心に横たえられ、ベッドのわきにはガラスのテーブルが、壁には40インチはありそうなテレビがしつらえてあった。ホテルみたいだなとぼくは思った。病院にしてはずいぶんきれいだった。恐る恐るベッドから起きあがり、窓ガラスに顔を近づけた。眼下で、米粒ほどの大きさの人の波がうねりを作って動いていた。東京で21年間生きてきたぼくにはすぐにわかった。渋谷のスクランブル交差点だ。
 ベッドのそばに身に覚えのない黒いトランクと、ひらひらしたレースのついた白いトートバッグと、底の厚いブーツがあった。トランクは紫と赤でレース模様がプリントしてあるデザインで、ファスナーをあけて重ねてあるトランクの胴に、赤いバラの絵が描いてあった。近づいてよく見るとバラではなくて牡丹だった。部屋の中にはぼく一人で、トランクの持ち主もいなければぼくの荷物もない。
 バスルームのドアを開けてから、部屋にバスルームがついていることに気がついた。バスルームの中はユニットバスになっていて、シャンプーやリンスのプラスチックの小瓶や、歯ブラシがトレーにセットしてあった。鏡を見てぼくは唖然とした。鏡に女の子が映っていたのだ。鏡の向こうでは、栗色の髪の毛の、ぼくと同じくらいの年頃の女の子が、唖然とした表情でこちらを見ていた。
 しばらくそこで立っていた。数分後、ぼくは動転しながらも、何が起こったのかを理解していた。2年前、男の子と女の子が突然入れ替わるという内容のアニメ映画が大流行したし(大学1年生だったぼくはそれを母と見にいった)、高校生のとき、受験古文で平安時代の「とりかへばや物語」を何度も読んでいたし、ヴァージニア・ウルフの『オーランドー』だって読んでいた。母はむかしからヴァージニア・ウルフが好きで、『オーランドー』がいちばんのお気に入りだった。
 トートバッグには黒いきらきらした財布が入っていた。財布をあけ、保険証を見た。澁谷三枝子と書いてあった。

 翌日、ぼくは駒場東大前の駅の階段を降りてすぐ目の前の、大学の門の前にいた。受験票を手に持ったまま、もう20分も門が開くのを待っていた。門の前は受験生であふれかえり、受験生たちは分厚いマフラーを巻き、コートを着て、しっかり防寒していた。開門は8時30分。緊張とプレッシャーで、足の先から震えてきそうだった。さっきから何度も見ていた受験票にまた目をやった。受験票には、実際の彼女よりいくぶんか写りの悪い、固い笑顔の彼女の写真が貼りつけられていた。それは彼女の受験票だった。
 きのう、ぼくがいたのは渋谷エクセルホテルだった。ぼくは彼女のかばんを探って、彼女が島根の公立高校に通う高校生であること、受験のために東京に来ていること、受験のためにエクセルホテルに3泊の予定で宿泊していることを知った。そして彼女のかばんの中から、赤本と受験票、夏休みの模試の結果まで見つけだした。
 ぼくはそのとき生まれて初めて運命を感じた。3年前、ぼくは1浪の末この大学を受験し、合格を手にしていた。それはそれまでの人生でいちばんの快挙だったけれど、ぼく以上にそれを喜んだのは母だった。父と母は子どもの教育方針をめぐって、ぼくが小さなころからことごとく対立してきた。父の教育方針は一言でいうとおおらかで、子どもはのびのびと育てたいようだった。が、大手の建築会社に勤める父が、単身赴任でマニラに赴任することに決まり、マニラの次はバヌアツやサイゴンに数年ずつ赴任して、一年のうちに2、3回しか家に返ってこない状態になると、父の教育方針は母に聞き入れられなくなった。けっきょく、ぼくは中学でも(猛勉強したのに落ちて母を泣かせてしまった)、高校でも、大学でも受験することになった。姉ふたりはそんな母に冷たい目をむけていた。上の姉と下の姉は2歳ちがいで、それぞれ自分で進路を選び、上の姉はアニメーターを目指してデジタルハリウッド大学に進学し、下の姉は言語聴覚士を目指して都内の大学の看護科に進学した。母が下の姉と7歳離れたぼくの教育にこだわりはじめたのは、父がマニラに単身赴任することが決まってからだった。
 高校で成績が下がっていたぼくが(都内の、学年の4分の1が東大に、もう4分の1が医学部に入るような公立高校だった)、一浪の末はれて念願の大学に合格したことがわかると、母は泣き崩れた。一度目の大学受験も合格発表も、二度目の大学受験も合格発表も、母はぼくについてきた。自分が合格したこともうれしかったけれど、それ以上に、母がよろこんでくれたことのほうが嬉しかった。母がときどき1階のせまい畳の部屋に隠れて、父と電話しながら喧嘩して泣いていることをぼくは知っていた。
 それから3年。ぼくは今でも、受験したときの受験番号も、センター試験の点数も、二次試験の点数も覚えている。

 試験が始まると、ぼくはすっかり彼女のからだが自分になじんでいるのを感じた。プラスチックのペンケースの中に入っていた黒色のシャープペンシルには、★のデザインの飾りがついていて、答案を書きつけるたびに★はかすかな音を立てて揺れた。問題を解きながら、ぼくは不思議な安心感に包まれていた。ぼくはまだ恋愛をしたことも、恋人ができたこともなかったけれど、完ぺきな一体感というのはこういうものなのかもしれないとあたまの片隅で考えた。
 試験は1日目が国語(現代文と古文漢文)と英語、2日目が数学と社会科目(日本史と地理を選択した)だった。試験が終わった瞬間、ぼくは合格を確信した。その足で渋谷に戻ると、エクセルホテルにはもどらずセンター街に向かった。センター街の中ほど、ブックオフのそばに有名な雀荘があった。大学生のころから麻雀をやりこんでいたという父は、日本で一緒に暮らしていたころ、小学生だったぼくに麻雀の手ほどきをしてくれた。母はそれをよく思っていなかったようだけれど、父は赴任先から一時帰国するたびに、母の目を盗んでぼくをあちこちの雀荘につれていった。
 一人で雀荘に入るのは初めてだった。店長に年齢をきかれたので、21歳だと答えた。「高校生かと思ったよ」店長は言った。ハンチャンでお願いしますというと、店長が常連さんらしいおっちゃんたちと卓をセッティングしてくれ、そこで今までにないほど大勝ちした。お嬢ちゃん若いのに麻雀するんだねえと、最初にこにこしていたおっちゃんたちは、負けがこんでくると額から汗を流しはじめた。ほかの卓のお客さんたちもこちらの卓を見にきていた。
「ツイてんなあ、このお嬢ちゃん」見物していたおっちゃんが言った。
「いや、この子はついてるんじゃない。実力だよ」ずっとそばで見ていた店長が言った。
「見てみろ、打ち筋がしっかりしてるし、手役の作り方にもハイの捨て方にも迷いがない。子どものころから仕込まれたんだろうな。この子はプロになれるタマだよ」
 何杯飲んだかわからない飲み放題のメロンクリームソーダの上にのっかったさくらんぼを眺めながら、ふいに母のことを思いだした。島根に帰る飛行機は、明日の14時発だ。今日は夜更かしして、明日の朝はゆっくり起きればいい。澁谷三枝子は島根に帰れるだろう。でも、ぼくは? 母に会いたいとは思わなかった。けれど、母のことを考えると不思議となつかしさがこみあげた。
「ロン」
 ぼくはまた上がった。
「メンゼンチンイツ、サンアンコ、トイトイ、サンカン、タンヤオ、ドラ3。役満」
 なぜか母の泣いている顔が目に浮かんだ。

 翌朝、目覚めると体に重苦しさを感じた。エクセルホテルのベッドは柔らかく、思ったよりも長く眠ったようだった。今、11時くらいだろうか。ホテルをチェックアウトして、羽田空港に向かわないといけない。起きあがろうとして、体に激しい痛みが走った。痛みのあまりうめき声が出て、上半身が勢いよく跳ねあがった。
「うわっ」
 よく知っている下の姉の声がきこえた。目を開けると、やはり下の姉だった。うすよごれたクリーム色の天井と、点滴の袋が目にはいった。顔の上には呼吸器がとりつけられ、わけのわからない管がからだじゅうにつながれていた。下の姉はぼくを見、数秒間固まったあと、ナースコールを押した。
 下の姉から聞いたところによると、車にはねられたぼくは3日間生死をさまよい、一命をとりとめたらしかった。
 下の姉が帰ったあと、やけにリアルな夢を見たと、さりげなく看護師に聞いてみた。「よくあるんですよ」何でもないことのように看護師は言った。「生死の境をさまよった患者さんはときどき変な夢を見るんですよ。いい夢を見たって人も多いですよ」
 ぼくはトイレに行きたいんですけどと看護師に言った。カテーテルがはいっているからその必要はないと看護師は言った。でもどうしても行きたいんですと頑なに言うと、看護師は困った顔をして、主治医と相談するから明日の朝まで待ってくれと言い、翌朝、ぼくは点滴以外のからだについている管を外され、アルミ製の歩行具につかまりながら震える足でトイレに向かった。
 トイレの鏡には頬のこけた、無精ひげがまだらに生えた鏡に映っていた。ぼくは思わず力がぬけて大きな音を立てて倒れ、看護師と見舞いに来ていた下の姉に助け起こされながら、「合格したと思ったのに」ひとりごとを言った。

 本郷の校舎で授業が終わったあと、クラスメートたちと別れ、上野の街を歩いていた。今日はこのまま不忍池を一周して、本郷に戻り、裏通りにある「もつ焼きじんちゃん」に行くつもりだった。退院したのは前の日曜日だった。けっきょく駒込病院に17日間入院して、退院の手続きを済ませると、ぼくは迎えにきていた母に荷物をもたせ、一人でタクシーに乗って赤門の前で降りた。ちょうど正午を過ぎたところだった。図書館を過ぎて弓道場のそばに、人だかりができていた。倒されないように気をつけながら、人ごみをかきわけ、掲示板の前に進んでいった。
 番号をみた瞬間、やっぱり夢じゃなかったんだと確信した。ぼくの番号、いや彼女の番号があった。けれど同時に、印刷されたその数字を見ると、ぼくと彼女がすでに同じではなく、別々の人間になってしまったことをはっきりと感じた。まわりを見ると、嬉しそうに泣きながら抱きあっている母親と息子や、ラグビー部の集団に胴上げをしてもらっている受験生たちがいた。
 上野にむかって、湯島のあたりを歩きながら、彼女のことを考えていた。澁谷三枝子は生きている。彼女は今どこにいるんだろう。クラスメートと何度か行ったことのある韓国料理屋の前にさしかかったとき、ぼくの目は前方に吸い寄せられた。ひと目でわかった。ほんの2日半のあいだだけ、ぼくだった女の子がこちらに向かって歩いてきた。すれちがう瞬間、彼女をまっすぐ見ていた。彼女はこちらを見なかった。気を取られて歩いているうちに、横断歩道の信号が赤になったことにぼくはまたもや気づかなかった。
 そして車にはねられた。
 目を開けるとベッドの上にいた。病院だ。車にはねられ、地面にたたきつけられたところまで鮮明に覚えていた。体に力をこめ、慎重に起きあがった。病室ではなく、水玉模様のカーテンのかかった8畳くらいの洋室のベッドにいた。目の前には見覚えのある牡丹の柄のトランクがあった。もう驚かなかった。
 ぼくはまた澁谷三枝子になったのだ。

「わたしは三枝子」  魚取ゆき

 あのさあ、前から思ってたこと言っていい? 前から思ってたんやけど、特に言う機会もなかったし、わざわざ言うことでもなかったけん、言わんかったんやけど、今言うな。まあ、今言うことでもないような気がするけど、ほかに話すような話もないし、告白されると思ってなかったけど急に告白されて、明日からまた今まで通りふつうの友だちに戻ろうっていうのも、ゆくゆくはそうできるんかもしれんけど、今ははどうしても難しい気がするけん。雨ふっててもう一時間も止まんし、近くに傘買えるコンビニもないし、さっきお店の人が傘貸してくれるって一本、そこに置いてくれてるけど、でもなあ、今告白されて断っての、まさかの二人で相合傘はさすがになくない? さすがに私もそれは無理やわ。え? 傘は私にくれるから先帰るって? ほなけど飯島くんの家、駒込やろ。しかも、飯島くん、自転車やん。本郷の金魚坂から、自転車でどないして駒込まで濡れながら帰れるん? それやったら向ヶ丘に住んでる私が飯島くんに傘譲って帰ったほうがまだマシやわ。それでも二十分歩かなあかんけどな。え? 傘さし運転は危ないけん、やっぱり傘は私に譲るって? まあまあ、もうちょっと二人で話そうよ。別にとりたてて何か話すようなこともないし、今から言うことも適当な時間つぶしみたいな話やけど、このざあざあ降りんなか、自転車押してズブ濡れで帰ることもないやん? 追加でもう一個ケーキとお茶でも頼んで、あと三十分でも一時間でも、雨小降りになるまで話そうよ。え? お金ないって? いけるいける、私がおごるから。えっ? いやなになに、女におごってもらったら男がすたるとか私が思うわけないし、そもそも私ら、前からふつうに友だちやん。いやいや、むしろ告白を無下にしてしまって申し訳ないし、じゃっかん気まずい気もしてるから。まあ、ここは私に払わせて。気になるんやったら、またいつか、おごりかえしてくれたらそれでいいし。ということで、今日は、おごるから。あ、ほんまに大丈夫。実は私の実家、徳島でめっちゃでかい和菓子屋なんよ。聞いたことない? ××××堂っていうところ。ないか。まあとにかくそれで、私実は大学入ってから今までバイトもしたことないし、仕送り、家賃含めて月に25万もらいよるけん、実はけっこうお金持ちなんよ。知ってた? 知らんかったやろ。

 それでな、さっき、飯島くんは食い下がったやん、私と飯島くん、けっこう仲いいのに、なんで告白は断るんって。それなんやけどな、なんて言うか、結論から言うと、飯島くんが悪いわけじゃないんよ。ほかに好きな人も、つきあってる人もおらんし、今ぜんぜん恋愛っぽい話もないんやけど、何て言うかなぁ。ちょっと言いにくいことなんやけどな、なんかな、私、調子悪いときにいつもぜったいに見る夢があるんやけど、飯島くん、その夢の中に出てくる男にめっちゃ似てるんよ。はじめて会ったときからずっと思ってた。大学の国文学科に進学することが決まってから、進学が決まった人たちで集まるガイダンスあったやん、そのときから思っとったんよ。うわ、この人あの人にめっちゃ似てる。似てるって言うか、生き写しや。生き写しっていう言い方はおかしいけど、なんか飯島くん、とにかくその人にめっちゃ似てるん。私はゲジ原ゲジ三郎って呼んでるんやけど、もちろんそれはあだ名なんやけどな、その男の顔がめっちゃゲジ眉で、眉だけじゃなくて顔全体にちょっと毛が生ええて清潔感がなくて、何かこう全体的に、雰囲気がゲジゲジっぽいっていうか……。あ、飯島くんのほうがもちろん全然かっこいいよ? でもまあ、顔つきというか、オーラと言うか、全体的には、やっぱりめっちゃ似てるんよな。
 ごめん、変な話してしまって、気分悪くない? え? 大丈夫? それどころか興味がそそられる? わかった。じゃあ、続けるな。
 それでな、最初に私がその夢を見たのは幼稚園の年中のときなんよ。姉と母親と花火しよって、足に火花が飛び散って大やけどしたことがあるんやけど、救急車で運ばれて、病室で痛みで一晩中うめいて、横で母親が涙ぐんみょった。そのときからなんよ、その夢を見るようになったんは。その夢を見るんは、きまって熱あるときとか、調子が悪いときだけなんやけど、夢の中で、私は根津のじめじめした平屋の家に女中さんと一緒に住んでるんやけど、あ、時代設定は江戸時代な、私はお侍さんの家のお嬢さんで、年齢は十六歳くらい、趣味が梅の木の盆栽いじりなん。それで、ある日梅の花いじっているときに、どっかの男にのぞかれて、ラブレターが何通も届くようになるの。ラブレターはもちろん、女中が読まずに捨ててまうんやけど、毎晩夜になったら生垣の外にその男がやってきて、外から声をかけられるん。「もしもーし、もしもーし」って。いやらしいない? しかも、女中が見にいったらガサガサ音立てて逃げるんよ。今でいうピンポンダッシュみたいな感じやな。で、女中さんも気が強いから、女中さんはオミネさんって言う名前なんやけど、腹たてて、とうとうその男を捕まえようとしたん。でも、オミネさんが言うには、その男、捕まえようとしても捕まえられんかった。全身に血の気がなくて、がりがりで、腰から下が透明で、要するに、幽霊やったということなん。嘘やと思うやん? むしろ、言われたこっちとしては、その男がめっちゃイケメンで、私の貞操をまもるために、オミネさんが嘘ついてるんかなとか思うやん? でも、ちがった。その男が来たときに、私もこっそり顔見たんよ。その男は見てひとめではっきりわかるくらい、明らかにこの世の人じゃない感じやった。腰から下が透けとって、正真正銘の幽霊やった。でな、その男の顔がめっちゃゲジ眉で、顔全体に毛が生ええて、何かこう全体的に、雰囲気がゲジゲジっぽいっていうか……それでかつ、腰から下が透明だったと、まあそういうことなわけ。
 でな、その男、つまりゲジ原ゲジ三郎が毎日凝りもせんと来るもんやから、怖あなって、オミネさんと相談して、先祖代々よくしてもらってるお寺の住職に相談に行ったんよ。そしたら、住職はお札を何百枚もくれて、それを私とオミネさんが手わけして、平屋の周りに貼りめぐらせたわけなんやけど、その日から、その男、もうぴたりともこんようになって、ああ、幽霊だろうが何だろうが、好きな女のためになら、いやだ来るなと言われても、通ってくるのが男ちゃうの? 私はなんか、失望した。つまり、源氏物語で言ったら、私は薫より匂宮が好きやし、光源氏に口説かれるんやったら、うまいこと捨てられてまう六条御息所とかよりも、朝顔の君とか朧月夜の君とかでありたいわけ。でも、ちがったな。ゲジ原ゲジ三郎はゲジ原ゲジ三郎やった。ゲジ原ゲジ三郎それっきり二度と現れへんかった。……長くなったけど、今言ったような話を、体の具合が悪いときはいつも、繰り返して夢で見さされるの。まあ、そういう感じなんよ。え? なんか牡丹灯篭っぽい? そうやな、牡丹灯篭に似てるよな? 私も牡丹灯篭の話は好きよ。でも、今話したことは作りごとじゃなくて、ほんまやけんな。幼稚園のときは牡丹灯篭や知らんかったし、そのときから見よった夢やから。外みたら、雨止んできたな。長くなったけど、そろそろ行こか。え? 納得できんて? 何が? ふられる理由として納得がいかん? いやでも、こればっかりは、しょうがないんよ。まあ、とにかく、もう行こう。とにかく今日はありがとう。今日は雨降りに見舞われたけど、久しぶりに学校以外でゆっくり話できて、何だかんだで楽しかったわ。それにしても、さっき告白してくれたこの手紙、いったい何なん。

三重三枝子さんへ
み みをつくし
え 笑みし妹をば
み 見しものを
え 枝の折れたる
こ 恋の行く先
あなたを思って詠みました。
飯島太郎

 リアクションに困ってしまうんやけど、この和歌はいったい何? なんで折句なん? しかも、それ、後朝の文やん。まあええわ。私もう帰るわ。ほなまた、気をつけて。明日は古事記の授業やな。海幸山幸のところやな。ほな、明日また大学で。ほなね。

「ハムスター」  やえ

 絶妙にツイてない日って、マジである。朝から寝坊するし、やっとのことで間に合ったと思った電車は遅延。何故だか取引先の機嫌がヤバヤバに悪いし、ついでにヒールが折れた。一か月前に買ったばっかじゃんかよ、もうちょい粘れ。まあでも一番最悪だったのは、愛しいハムスターが亡くなってしまったことだ。昨日から餌食べてないなぁ、とか思いながら帰ってきたら、もう動かなくなっていた。
 あんなに可愛かったのに、死んじゃったと思うとなんか怖い。ビニール袋越しに触っても手がちょっと震えた。
 ほんとは捨てなきゃなんだろうけど、やっぱり嫌だ。うちのポムちゃんは大切な家族だ、ゴミにはしたくない。それじゃあ、秘密で山に埋めてあげようか。ここばかりは幸いだが今日は金曜日。遅くまで起きていたってバチは当たらないだろう。
 それなりに夜が更けるのを待ってから、外に出る。最悪アパートの人にバレなきゃ問題ない。一応のためくるりと辺りを見渡すと、
「あれ、吉野さんじゃないですか。」
 こういう日はタイミングまで悪いのだろう、お隣さんが同時に出てきた。23時半に外に出るヤツなんているのか。他でもないアタシが出てるわけだが、そこは置いといて。
 「ど、どうも住野さん。ご無沙汰してます。」
 「今朝会ったばかりじゃないですか。吉野さんは随分急いでいたから、気づきませんでしたか。」
 「あ、いや、気づいてました。今思い出したっていうか。あはは。」
 「ふふ。そのケージ、ハムスターですか。」
 住野さんが指を指す。夜中に一人ケージとビニール袋を抱える女がいたら、指摘したくもなるものだろうか。
「あー、はい。今日亡くなっちゃったんですけど。」
「それは残念ですね。今からお墓でも作りに行くんですか。」
「そんな感じです。」
「夜に女性一人、というのも大変でしょう。一緒に行きましょうか。」
「や、そんなに気を使わなくても。すぐそこの山で埋めたげるだけですし。」
「遠慮しないでください。幽霊よりも不審者の方が怖い時代ですよ。さ、どうぞご一緒に。」
 住野さんは柔らかな笑みを浮かべたまま、ぐいぐい話しかけてくる。ほとんど話したことのないお隣さんと墓奉行とはいかがなものか、と思ったが不審者が怖いのは確かだ。足の無い女の人や首の取れた犬も怖いが、酒に酔ったホームレスに出会う方に命の危険を感じる。もうオバケに怯えるような歳ではない。親切心に甘えて、一緒に行ってもらうことにした。
 電柱の光と月明かりだけが心の支えとなる夜。田舎は夜になった瞬間ガラリと姿を変えてしまうから苦手だ。人間が動いていいのは昼間だけなのに、何故今起きているんだと言われている気分になる。何かに食われてしまいそうなのだ。隣に人がいるだけで随分心地いい。
 ふと見上げると、住野さんが微笑みながら見つめ返してきた。特別顔が整っているのではないが、緩やかに下がった目じりや可愛らしくできるえくぼには親しみやすさを感じる。いつも穏やかで、何気ないところで気が利く人だ。なんとなく嫌いじゃない。今だってポムちゃんのケージ持ってくれてるし。なんなら車道側を歩いてくれてるし。頼りになる大人的なイメージが強いかな。友達が住野さんのこと好きって言ってきたなら、ノリノリで応援するだろう。
「なんでハムスターなんですか?」
「え?」
「一人暮らしなら、猫ちゃんとかの方が多いじゃないですか。どうしてハムスターにしたのかなって。」
「そんな特別な理由じゃないですよ。ペット禁止のアパートで、一人寂しく暮らす女が簡単に飼えるものっていうと、ハムスターしか浮かばなかったんです。ようやっと仕事の初任給が出て浮かれてて、やっぱ一人で寂しいし、アタシの相棒にはハムスターしかいないっしょ!って思っちゃって。単なるノリです。ま、いつもこんな感じでいろんなこと決めちゃうんですけど。」
「なるほどなぁ。お金はかからなそうだし、可愛くていいじゃないですか。」
「うーん、どうだろ。ポムちゃん自体は二千円でお迎えできたんですけど、飼ってみたら案外手がかかるというか。アタシがチョロいというか。ケージだけだと可哀想だからとか言ってやけにでかい迷路買っちゃうし、美味しいもん食べさせてあげたいなと思って高い餌あげちゃったりもしたし。なのにあの子、その辺に生えてるタンポポが一番好きだったんですよ。飼い主に似て変なとこ安上がりかよ!って。春になるとタンポポしか食べなくなっちゃうから、ほんと大変で。」
「あはは。大好きだったんですね。」
 そうです、と返事をしようとしたのにうまく声が出せなかった。住野さんが片手に抱えるケージを見て、ポムちゃんはもういないのだと、今更ながらに実感してビックリしてしまった。ビニール袋の中で揺れる物体を想うと胸が苦しい。ずっと仲良くやってきたはずなのに、今はもう他人のような感触がする。アタシのポムちゃんはどこに行ってしまったんだろうか。
「僕も飼ってたんですよ、ハムスター。」
「住野さんもですか。」
「ええ。小さくてころころしてて、一番飼いやすい種類を。僕の彼女が選びました。」
「アタシと同じかな。せっかく飼うなら、懐いてほしいですもんね。」
「そうですね。彼女が手の上に乗せてあげるとウットリした感じで撫でられるのを待っていて、なかなか可愛かったです。」
 目的地について、穴を掘りながら住野さんは話を続ける。夏だから空気がむわっとしていて蒸し暑かったが、土はひんやりとしていて心地いい。穏やかに眠れそうだった。
「もちろん苦労もしてましたよ。彼女がネイルをしていると、餌と間違えて思いっきり噛んじゃうんです。女の人だからネイルくらいしたいだろうに、全然しなくなっちゃったなぁ。」
「めっちゃわかります!ピンクだとか、美味しそうな色はダメなんですよ。木の実だと勘違いしてたのかなぁ、あの子。住野さんのハムスターは、今どうしてるんですか?」
「残念ながらもう死んでしまいました。」
「あ、すいません。気軽に聞いちゃって。」
「いいんですよ。あの子が悪いんですから。彼女が餌を忘れた時には代わりにあげたり、ちゃんと世話をしてあげたのに、僕の抱っこは嫌がり続けるんです。男と女じゃ違うだろうって言い聞かせて我慢してやったのに、彼女が連れてきた頭の悪そうな男にはすぐに懐いて。僕のことを馬鹿にしてたんですよ、あの役立たず。金ばっかり無駄にかかるくせに。でもまぁ、彼女があれのことを好きだから、優しくしてやってたんです。今日も寝坊したせいで何もできなかったみたいだから、せめてお水くらい替えてやろうかなって。なのにあいつ、僕に噛みついてきやがって。」
 ぐりんと私に顔を向けて、住野さんが笑う。
「ムカついてケージに殴りつけたら、動かなくなりました。はは。一生懸命ピクピク震えてんのとか、気持ち悪かったですよ。下等生物のくせに頑張ってて。」
 蝉の声がやけに頭に反響していた。氷漬けにされたようにアタシは動けないのに、住野さんはどんどん饒舌になっていく。どうしてそんな顔をしていられるのだろう。だって、つまり、それは。アタシのポムちゃんは。
「吉野さん、あなたも悪いんですよ。僕という人がありながら、その辺の男にほだされて。あなたは確かに素敵な女性ですから、蠅が群がってくるのは致し方ありませんが。」
 住野さんはお隣さんだ。今まで挨拶くらいしかしたことはない。アタシは彼について何も知らないのに、彼は隅々までアタシを監視していたみたいだ。どこまで知ってるのかな。どこまで見られたのかな。
「僕だってもう限界なんです。どんどん蠅は群がってくるし、あなたは優しいから、勘違いする輩も現れてくる。そうだ、一緒に住みましょう。あなたは会社なんかやめたらいい。あのハムスターみたいに大切にしますよ。食事に入浴から排せつ。全部僕がお世話してあげますから。」
 ヤバい。もうなんかいろいろあるんだけど、とにかくヤバいしか出てこない。腰が抜けちゃってズボンは泥まみれだ。涙か汗か、それとも鼻水か。全身から水という水が湧き出てて、今のアタシは死ぬほどダサいだろう。てかこの状況で告白まがいのことをしてくるとか、わけわかんないな。絶対風呂上りにプロポーズとかしてくるよ、この人。あー、誰か助けてくれないかな。死にたくない。
 住野さんはもう完全に目がすわってて、無理やり肩を掴んできた。振りほどくのも怖い。幽霊よりも不審者、不審者よりもお隣さんが一番危なかった。本当にいい人だと思ってたんだけどな。
 アタシのことはお構いなしで、住野さんはにっこりと笑って唇を近づけてくる。いやマジで、この状況でどうしてそうなるのかな。キスするシーン、少なくとも今ではないじゃん。今の自分が冷静なのか錯乱しているのか、最早アタシにもわからなかった。ただただ息苦しい。
 なんでもいい。どうにかこの状況から逃げたくて目を瞑ると、情けない悲鳴があがった。ビックリして目を開けると、何かに襲われている住野さんがいた。別に何かを見たわけではないが、虫のように手足をバタつかせる彼を目の当たりにして、そう直感した。
 はたから見れば、住野さんにおかしなところはない。けれどその表情や苦しみ方から察するに、想像を絶する地獄を経験しているのは確かだった。彼は今窒息しているのか、首を吊られたのか、はたまた焼かれたのか。骨をグチャグチャに砕かれているのかもしれない。足から少しづつ皮を剥がされているのかもしれない。近づくことすら許されぬような、苦悶の表情がそこにはあった。
 そして唐突にその時間は終わった。水に打たれたかのように住野さんは起き上がると、一目散に駆け出して行った。ちらりともアタシの方は見ていない。
 あとにはアタシとケージ、ポムちゃんの亡骸だけが残った。息がしづらく、まとわりつく空気がうっとうしい。一気に百年の時を過ごてしまったかのように疲れていた。
 どうして助かったのかはわかっている。甘えたがりのあの子があんな力を出せるはずがないだろうとは思うが、この手のひらの感触は嘘じゃない。手のひらに宿る氷のような冷たさが、あれは現実なのだと伝えていた。
 目に見えないそれをそっと撫でてみると、嬉しそうに震えてくれた。幽霊になっても、やっぱり愛しい。
「ポムちゃん、ありがとね。」
 一瞬温かくなったと思うと、それは解けるように消えてしまった。もう少し一緒にいてくれてもいいのに、こんな時だけせっかちなのか。もうあの子がどこにもいない世界の空を見上げると驚くほどキレイで、不思議と涙がこぼれた。おやすみなさい。


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