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意欲はどこからやって来る?学ぶ意欲が高まる究極の進路指導

どうしたら子供達は自ら主体的に学習する様になるのか?どうしたら将来の目標を持って自分の人生に主体的に向き合い、より良い人生を歩もうとするのか?
年々低下する子供達の学ぶ意欲や生きる意欲をどうやって高めたら良いのか?

学習塾の経営27年を通して、私はこの難問に取り組んで来ました。そして出た答えがこの究極の進路指導、ミラセカです。ミラセカとは未来と世界の略称。未来と世界の仕組みを理解し、学習がどこに繋がっているのかを理解する事こそが、学習のモチベーションを高める事を私はこの27年間の教育者人生で確信しました。逆に言えば、今行っている”勉強”と未来とがまるで繋がっていないからこそ子供達は学ぶ意味が見出せず、主体的継続的に自分の壁を越える様な学習の努力を重ねられないのです。未来や世界と繋がっていない学習。目標とするバーもないのに出来る限り高く飛ぶことを求められるのは、言うなればランニングマシーンの上で最高記録を出す事を求められるような物であり、カゴの中で回し車を必死に回すリスと同じです。ランニングマシーンも回し車も何処にも繋がっていません。ただただそこで頑張る事が求められる(様なイメージしか子供達が持てない)。それでは大人でも頑張れるはずがありません。昔はそれで良かったのですが、、、。大人や親としてはこの違いを理解しない限り、子供達の意欲の問題は解決されないでしょう。

27年前の頑張る理由は明確だった〜学歴と言う価値
27年前の1996年、私がアメリカ留学から帰って来て色々あって個別指導の学習塾に就職をした頃、学習のモチベーションはただ1つ。少しでも偏差値の高い学校に合格する事でした。バブルが崩壊し就職難に突入した当時は、その傾向は益々高くなっていきました。学歴を手に入れて安定した企業に就職し、年功序列と終身雇用で安泰な人生を送る。これこそが日本人の幸せ方程式であり、それは誰にとっても非常に解り易いモチベーションの対象だったのです。

学歴の獲得→有名安定企業への就職
だからその当時の進路指導は非常に単純でした。偏差値表を見て合格確率を伝えるだけ(残念ながら今も多くの学校や塾がこの様な進路指導をしていると思います)。学校説明会など参加する生徒はほぼいません。大学のオープンキャンパスなど誰も興味ありません。いや、まともなオープンキャンパスなど開かれていなかったと思います。なぜなら学校選択の目的は偏差値の獲得でしたから、合格基準以外学校の中身など全く知る必要がなかったのです。入学時偏差値の獲得こそ最大の関心事であり、良い(偏差値の高い)大学に進む事が、親や大人が望む一流企業という安定した人生の入り口だったからです。

そしてバブル期に日本経済は世界の頂点を極めました。Japan as No1と言うエズラボーゲル氏の書籍が世界的ベストセラーとなり、三菱地所がニューヨークの象徴であるロックフェラービルディングを買収。当時の学歴の頂点は東大であり、就職の頂点は省庁のキャリア官僚であり、それらが親や大人が考える”安定”の象徴でした。

世界と社会の大きな変化〜Japan as No1の終焉
その後バブルが完全に崩壊し、ご存じ日本は失われた30年に突入します。企業はバブルの債務処理に追われ、採用を絞り、学生の就職率は下がり続けました。派遣やアルバイトなど非正規雇用が増え、その率は3人に1人を超え社会問題になりました。一方アメリカでは1994年にAmazonが創業し、96年にMicrosoftがInternet Exploreを発売し、アメリカ経済がイノベーションを柱に復活の兆しを見せ始めたのでした。
その頃からです。日本の経済や経営に疑問の声が高まり、規制緩和で外資を受け入れないと日本経済は復活できないと言われ始めたのです。日本や日本経済の復活には規制緩和と既得権益を解放し外資の獲得やイノベーションが必要だと考えられる様になりました。

詰め込み教育→ゆとり教育へ
日本経済の低迷、就職難、外資受け入れ。この様な社会変化に呼応して教育面でも改革の声が出始めました。いじめや不登校の問題も相まって学歴偏重の詰め込み教育への疑問からゆとり教育が始まります。土曜日も休みになり、授業数が大幅に削減されました。しかしこの改革は即座に頓挫します。なぜなら受験が変わらなかったからです。受験が偏差値を計るゲームであり続ける限り、ゆとりなどとっている場合ではないと、土曜授業が復活したり、学校独自に授業数が増えたりしました。

教育改革の必要性〜VUCA時代に必要な能力
一方で就職難や外資の流入で学歴だけでは将来幸せになれない。これからの時代は”生きる力”が必要だと、1996年に文科省がその目的を定義したのでした。その後経産省が社会人基礎力と言う概念を示し、OECDはコンピテンシーと言う概念を提示しました。総じて21世紀型スキルとかグローバルスキルなどと表現される能力であり、今で言う所の非認知能力の事です。要するに、VUCAと言う時代では点数教育は役に立たない。どんな時代になろうとも生き抜く力が必要だと言われだしたのです。

しかし、そこから実に20数年。日本の教育が変わることはありませんでした。いや、未だに根本は変わっていないかもしれません。コロナによって外圧的に少しだけ扉が開いたと言えるだけで、本質は変わっていないと思います。

世界の変化にCatch Upできていない日本の教育
しかし日本や日本の教育が変われない間に、世界や社会は大きく変わってしまいました。その事にすら気付いていない日本や日本の教育があります。学校、先生がいます。日本社会が、保護者がいます。今一度言います。世界や社会は大きく変化しました。日本は昔の様に、日本人とだけ日本で一生を過ごす事は考えられない時代です。インターネットは国境を消し去り、AIやロボットが人間の仕事を奪う様になりました。まして日本は超超少子高齢化社会の到来やその結果の労働者不足、財政難、相変わらず規制が多く、30年経済成長も無く、物価も給与も上がらず、相対的貧困率は18%を超え格差が広がるなど課題先進国です。

子供達は気付きだしている〜大人の言うことは違うんじゃないか!
こうした世界では日本だけで通用する偏差値は、何の意味も持たなくります。つまり暗記やパターン演習では世界の優秀な人材やAI、ロボットに勝てないのです。暗記やパターン演習が意味をなさなくなったばかりか、率直に言ってそのような学習は楽しくないのです。子供達はその事に気付いています。将来役に立たないし、楽しくない学習そのものは、どうやっても子供達の学習に対するモチベーションを高めてはくれないのです。

もっと厳しい言い方をすれば、その様な教育を受けて、社会にでた大人等が、楽しそうでないばかりか、苦しそうにしか見えないからです。

しかし相変わらず大人や社会、学校、保護者は”お勉強”を求めます。お勉強をする子がいい子で、しない子が悪い子です。人間の評価は点数のみで他の個性は否定される社会。

世界は変わった(っぽい)のに大人の言うことは変わらない
どうしてでしょうか?世の中や社会は多様な能力を求めているにも関わらず、日本ではお勉強(偏差値)しか求められないのです。世界に沢山学ぶ場所があるのに、日本の大学だけが全ての様に言われるのです。世界には沢山の働き方(仕事)があるのに、日本では有名企業に就職する事だけが立派に働く事であるかの様に言われます。世界では失敗してもチャレンジ出来るのに、日本では失敗が許されません。

25年前の進路指導の決め台詞は、今頑張って良い(偏差値の高い)学校に合格しておけば、将来の選択肢が広がってやりたい仕事が出来るよ、だから今は部活よりやりたい事良い勉強を頑張ろう!と言う言葉でした。その頃はそうだったかも知れません。昭和や平成の幸せ方程式はそうだったかも知れません。しかし今、令和やこれからその言葉は、、正しくありません

大人が言う幸せの定義と自分達の定義はどうやら違っていそうだ。世界には沢山働く場所があって、沢山の仕事があるようだ。勉強さえしていても将来幸せになれそうもないし、選択肢も広がりそうもない。

情報のアクセス能力の向上により子どもでもその事を知ってしまった今、大人が言う様には頑張れない。勉強しなさい、そうすれば、と言う論理は信用できない。
でも、、、それ以外の道を誰も教えてくれない。大人達の言う勉強の重要性や、良い学校や、良い会社や、良い人生のことしか教えてくれない。それではもはや頑張れない!これが今の、これ迄の進路指導であり、子供達の表には出て来ない本心です。

未来と世界の仕組みを知る事で自分の人生は自分でプロデュースする
働くことや仕事の中身には重要性を見出していなかった。大事なことは公務員を筆頭に有名企業に就職し安定した人生を送ること。そういう意味では未来の選択肢は1つでした。その達成手段は、勉強して良い学校に入って学歴を手に入れる事。誰もが疑わない現実が長年日本の、日本人の常識で、そのレールから逸脱する事には大きな勇気と決断と覚悟が必要でした。

しかし今は違います。仕事も自己実現の仕方も幸せの定義もそれらの叶え方も、人の分だけあります。そして人間はどんな仕事を選んでも、どこで働く事を選択しても、到達の仕方も人それぞれであること、あっていいこと。だとするならば、自分が進んでいく社会や世界の仕組みや、そもそも、働く事の意味、学ぶ事の意味、そして人生の意味を理解せずして自己決定はできないでしょう。初めて旅行に行く地域の事を調べずして、旅行先で効率的効果的に楽しむ事ができないのと同じ。ディズニーランドは行けば行くほど楽しくなる。それは行けば行くほどディズニーランドの何たるかを理解できるからではないでしょうか?エルメスで、ケリーやバーキンという希少価値の高い商品は、自ら店員さんに聞かないとほぼ陳列されていないと言う現実。そうした社会の仕組みを知らずして、暗記とパターン演習のスキルだけで社会に突っ込んで行く日本の子供達。社会や世界に出て初めて知ります。大人が言っていた世界と違うじゃん!

世界が単一ではなく、複雑になった今。価値観が多様化し、選択肢が増えた今、本当の幸せの定義も変わりました。世界や社会が単一で、単純で選択肢も少なかった時代の事は理解出来ます。でもそれを今子供達い当てはめる事の危険性を大人は理解すべきです。本当の幸福はお金や安定ではありません。物質的豊かさや安定が手に入っても死ぬほど嫌いな事であったり奴隷的であった場合、大人としてその道を子供に薦めるでしょうか?

人間にとって最も幸せな状態は、自由選択ができ、自己決定し、自己責任が取れる状態にある事だと私は思います。つまり、自分で好きな事が選べて、頑張れば実現出来る状態にあって、失敗しても頑張ろうと思える状態や能力のことだと思います。そう言う状態を与えられた時にこそ人はやる気(モチベーション)が高まるのだと確信しています。

そう考えた時に、今の日本や日本の子供達は、強制であろうとなかろうと、どれだけ自己選択の自由を与えられているでしょうか?自分で考えてプランを決めて自分で準備をするからこそ旅行は楽しいはず。行き先も旅程もやる事も全て決められている旅行は楽しいのでしょうか?

未来はこれだけの事が待っているよ。社会や世界の仕組みはこうなっていて、この仕組みの上を歩くのも自由だし、嫌なら仕組みを変える事も出来る。人生は自分で創るものだし、その為に学び、人生の一つの重要な要素である仕事との関わりを自分の中にどう位置付けて行くのか?そんな事を伝える為に私は自分が教育と言う世界と教育の結果が現れるビジネスの社会を繋げる仕組みとして、今後このミラセカで世界や社会の仕組みを伝えて行きます。

勉強は手段です。目を瞑って首を振ってひたすら猛ダッシュをしていたら突然光が見えて来た。勉強だけしていたら突然幸せになった。もはや世界はそんなに単純ではありません。大人が責任を持ってその事を伝えましょう。

学習指導要領も受験すらも変化に適応して変わった事実を知らない
おまけですが、実は学習指導要領は既に上記でお話しした様なこれからの時代を生きる力の育成を主眼として改訂されました。前回まで学習指導要領は受験が変わらなかったので、実践される根付く事がありませんでしたが、今回は受験の仕組みが変わって来たので、教育内容そのものも変わる、とは思います。
しかし、学習指導要領はあくまで日本の教育を質的に一定程度担保する為の指針です。よって大事な事はこの指針に沿って学校現場がどれだけ教育内容を時代に沿って解釈し、実践できるかが問題です。また、学校が大きな変革に向かって舵を切る為には社会や親が共感し、賛同しなければ話が進みません。ですが、残念ですが、その進みは遅い様です。個人的にはここでも教育格差が開いている様に思います。つまり、変化や情報を知っている人、知らざる人の差。その象徴として大学入試は実は・・・・・・・

この先はまた別の機会にしたいと思います。