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ひらがなか、漢字か。それもまた問題だ。

Cover photo UnsplashWolfgang Hasselmannが撮影した写真。どうして象なのかは記事の最後で。

三宅香帆さんのこの本を読了。

本文の話をせずにこんなことを書くのはどうかと思うのですが、「あとがき」に書いてあったことに私はとても共感してしまいます。

文章の”内容”よりも、文章の”外見”—それはつまり「テンポ」だったり「構成」だったり「つながり」のこと―のほうが好きなのかもと思ったりします。

三宅香帆、前掲書、あとがき

三宅さんのような様々な視点からの興味や関心ではまったくないのですが、私は、「この人はこの言葉をかなに開くのか」とか、「この人はこのテーマを敬体で書くのか」とか、「何か違うと思ったら、この人は指示代名詞をわざと使わずに書いているんだ」とか、そんなことをよく覚えていたりするのです。

敬体で書かれた道徳教育論

教員をしていたころ、宇佐美寛先生の道徳教育の本を何冊か読みました。宇佐美先生は舌鋒鋭い、といった感じの論客で、道徳教育のみならず、教育全般に関しても鋭い批判を展開されていました。
その宇佐美先生が、道徳教育の本を敬体で(です、ます調で)書かれたことがあったのです。いまはもう、本のタイトルすら思い出せないのですが、こういう論理的思考を要する本は、常態で書くのが普通だとされているが、敬体であっても論理的な記述は可能なのだということを示したい、みたいな趣旨が、まえがきに書かれていたように記憶しています。肝心の道徳教育についての論は覚えていないという体たらくなんですけどね。

あえて「これ」と言わず同じ用語を何度も書く

社会心理学者の山岸俊男先生は、私がもっとも尊敬する心理学者のお一人ですが、先生の新書を読んでいて、とても気になったことがありました。それは、けっこう長い専門用語、たとえば「ヘッドライト型知性」という、山岸先生が説明のためにつくり出した用語があるのですが、この言葉を、山岸先生は、繰り返し、そのまま「ヘッドライト型知性」と書かれていたのです。どういうことかというと、「ヘッドライト型知性」のことを書いていると明らかな文脈でも、「これ」とか「この知性」とか、指示語で書いていないのです。このこと(指示語!)に気づいて、なんだ、さっきから感じているこの文章の違和感(ネガティブな意味での違和感ではなく、いつも読んでいる本とはなんとなく違うんだけどなあ、でも読みやすいよなあ、という感じ)の原因はこれ(指示語!)だったのかあ!と思ったのでした。
やってみればわかりますが、上の文の「このこと」「これ」を、指示語を使わずに書くとものすごく長くなります。そのかわりに何が得られるのかというと、たぶん「誤読可能性の低さ」だというのが私の仮説です。
「可能性の低さが得られる」なんていう書き方も、まあ、やらしいというか、インテリぶってるというか、見せびらかしているみたいで、よくないのかなあと思いますけどね。でも、「何が得られるかというと」と書いてしまったので、それを消したくなかったんです。はい。

「考える/思う」か「かんがえる/おもう」か。それも問題だ

とくに誰の文章ということはないのですが、「考える」「思う」と書きがちな人と、「かんがえる」「おもう」と書きがちが人がいるように感じています。「かんじる」のほうがいいのかなあ、とおもったりして。ちょっとひらがなおおすぎますけど。
ある言葉を、とくに和語の動詞や形容詞が多いと思うのですが、漢字で書くかひらがなで書くかは、書き手の好みが分かれるところなのだろうと思います。それ以上に、パソコンで漢字変換が使えるようになったことも大いに影響しているように思います。
パソコンで書いていると、キーを押すだけで漢字を出してくれる。とっくに忘れているような感じでさえ、「この漢字だよね?」といって画面に出してくれる。だからつい、「誤読可能性」とか、漢字を五つも並べた言葉をへいきで書いてしまう。パソコンが出してくれた表記を、「こうじゃないんだよなあ」といって、バックスペースで消して、もういちど書き直すのは、けっこうめんどうな作業です。それでも、自分の書きたい表現になるようにあれこれ手直ししてしまうのは、「この言葉はこの書き方で書きた~い」という欲があるからなのでしょう。

三宅香帆さんの「●●力」は?

さて、最後に、著者の三宅さんに敬意を表して、本書のスタイルを思い切りパクって、三宅さんの文章から感じられる「●●力」について、語ってしまいたいと思います。
いえ、嘘です。そんなことは。恐れ多くて。

でも一言だけ。ここ、好きです。

きょ、興ざめだと思いません!? 好きとか書いちゃだめでしょ。

三宅香帆、前掲書、「井上都の冷静力」から

井上都さんの文章を冷静に分析した後、ご自分で「改悪」しておいて(三宅さんは本書の中で何度も「改悪」例を見せてくださっています。超おもしろい)、この「自分ツッコミ」です。
私は、文章として「きょ、興ざめ」みたいに書く人を、三宅さんのほかにお一人だけ知っています。
桜庭一樹さんです。
桜庭さんの「読書日記」シリーズの何冊目か忘れましたが、小川洋子さんの「猫を抱いて象と泳ぐ」のタイトルを思い出せず、「象を抱いて猫を泳ぐ」とかん違いしたあげく、「お、溺れるだろう」と書いておられたのを読んで腹をかかえてわらったことがあります。
こんな断片的なことだけ覚えてなくてもいいのにねえ。
あと、みなさんは、くれぐれも象を抱いて泳ごうと思わないでね。(誰が思うか!)

ということで三宅さんには、今後も、パワフルな「自分ツッコミ」を見せていただきたいと思っています。