チクセントミハイの「フロー」概念について

やはりチクセントミハイのもともとの本にあたってみるべきだと思い,やっと重い腰を上げて本を買い,このごろ読み進めている。これ。

チクセントミハイの著書(訳書)はいくつもあり,どれが一番いいかわからないのだが,とりあえず書店にこの本は並んでいて,実際いくつかの論文で引用文献になっていたので買った。

本を買ってでも読もうと思ったのは,いくつかの論文で,「楽しさ=フロー」みたいな理解で議論が進んでいくことに,少々違和感を感じていたからである。ずっと以前に,チクセントミハイの著書を少しだけ読んだ時の印象では,「楽しさ=フロー」というように単純に等式で結べるようには思えなかった。実際,鹿毛(1994)は「内発的動機づけ研究の展望」で,

フローとは,内発的動機づけによる行動のうちで,特に自己目的性の高い一過性の状態を記述する語であるととらえたほうがよい(p.353)

と論じており,このような感情をもって内発的動機づけを定義するのは不適当であるとしている。

さて,読み進めていくと(まだ全然始めの方なのだが),第3章が興味深い。「楽しさと生活の質」と題されたこの章で,チクセントミハイはフローについてかなり細かく記している。よく知られているように,フローとは,達成見通しのある課題に取り組んでいる,自分のしていることに集中している,明瞭な目標があり,直接的なフィードバックがある,など8つの主要な構成要素によって特徴づけられる活動状態である。そして,「これらすべての要素の組合せが深い楽しさ感覚を生む」(p.62)という。
注意したいのは,ここで「楽しさ」とは,フローを特徴づける要素の組合せによって,活動主体が感じる感情のことであり,フローそのものではない。そして,著者がここにだけ注意深く「深い楽しさ感覚」と書いていることにも注目すべきである。
これより前の数ページに,快楽と楽しさの対比が書かれており,そこでは,快楽が消えやすく,自己を成長させないこと,楽しさが前向きの感覚や達成間隔によって特徴づけられることが述べられている。快楽に比べ,楽しさのほうが,心理的な成長をもたらし,自己に複雑さを付け加えること,また,実際に行っているときには快いものではないが,後で顧みたときに,面白さや楽しさを感じるとも記している。

つまり,(1)フローにおける楽しさというのは,活動が終わったときに,活動を振り返ったときに感じられる感情であり,活動中に感じられるものではない。また,(2)こうした活動には心理的エネルギーの投射が必要であり,それなしには,要するに努力なしには,楽しさを経験することはできない。そして,(3)楽しい活動は自己を成長させ,自己を複雑にする。自己概念の複雑さを成長とみれば,これは同じことを言っている。

次に,統制感に関してチクセントミハイは興味深いことを述べている。たとえばルーレットを楽しむとき,ルーレット盤の回転を制御することはできないため,勝敗は運に任せるしかないのだが,これを楽しむ賭博者は,ルーレット盤の動きを自分が制御できるという信念を持っているという。そしてこの(偽の)統制感覚は,フローに似た活動として体験されることがあるという。

人は楽しい活動を統制する能力に溺れて他のことを顧みることができなくなると,究極的な統制,つまり意識の内容を決定する自由を失うことになる。かくしてフローを生み出す楽しい活動は,潜在的に否定的な面をもつことになる。(p.79)

自分がルーレット盤を自由に操っているのだ,自分が世界を統制しているのだという感覚は,「全能感」とでもいうべき感覚なのだろうか。全能感に浸ってしまい,世の中を冷静に見られなくなる。マッドサイエンティストみたいな? 確かにアブナイ世界になってしまう。

もう一つ,自意識に関しても同じようなことが述べられている。フローの構成要素として,活動中とは関係のない刺激に無関心になるという要素がある。テニスの試合に夢中になっていれば観客の様子は目に入らず,読書に夢中になっていれば来客にも気づかないようにである。同様の例として,チクセントミハイは暴走族を挙げている。仲間と走っているとき,みんなの心を一つになり,一体となってスピードに酔った瞬間はすごい,という。この一体となった感覚はフロー体験の本質のひとつであるという。そこには大きなやりがいもあるが,危険性も含まれている。このような極端な例として,チクセントミハイは,原理主義者たちの活動や大衆運動などをもとりあげ,「自己境界の喜ばしい拡大,個人が偉大で強力な何者かに包み込まれるという感覚をもたらす」点でフロー活動と共通点があるという。

チクセントミハイが,フロー体験のネガティブな側面について,それなりの文字数を費やして記していることは重要である。「楽しさ=フロー」のような,等号で結びつけるような理解が,いかに表面的なものであるかが,これらの,フロー体験のネガティブな側面についての記述からよくわかる。
であるならは,フローは,あるいはそこで経験される楽しさは,少なくとも次のような連続体としてとらえられるべきであろう。すなわち,

(1)もっとも浅い,表面的な楽しさ(すなわち)快楽をともなう活動
(2)活動の継続に努力(心理的エネルギーの投射)が求められ,自己の成長をともなう「楽しい」活動(すなわち肯定的な意味での「フロー」)
(3)フロー体験の要素の一部分だけが肥大化し,自己あるいは他者に対してネガティブな作用をもたらす可能性のある「(主観的には)楽しい」活動(すなわち一般的には「病みつきになっている」「酔っている」「中毒である」ような活動) (筆者による整理)

のようにである。そして,

フロー体験も絶対的な意味で「良い」わけではない。それは生活をより豊かにし,魅力と意味のあるものにする可能性がある時に限って良いのであり,自己の力と複雑さを増大させるから良いのである。(p.89)

とはいえ,自分が夢中になっている活動が,ほんとうに「生活をより豊かに」しているかどうか,主観的な評価だけで見分けることは可能だろうか。暴走族のメンバーが,仲間と走ることは自分の生活を魅力的なものにしていると主観的に評価した場合,それは「良い」活動になるのだろうか。新型兵器の設計をしている科学者が,自分の完璧な設計に酔いしれるとき,それによって自己の力と複雑さを増したと主観的に評価しないといえるだろうか。
そうは言い切れないならば,やはり活動の良し悪しは,社会的な承認,社会的に共有された価値との比較によって判断されなければならないだろう。
また,フロー体験の構成要素のうち,一部分だけが肥大化した状態がネガティブな体験につながるようにまとめたが,これは妥当なまとめなのかよくわからない。もしそうであるなら,フロー体験を尺度(があったと思うが)によって評価するとき,その得点の個人内変動にも注目する必要があるだろうし,全体的な得点が高すぎることも,ネガティブな特徴としてとらえる必要がありそうだ。しかしこの考えは正しいのか?