素朴概念について

素朴概念,という言葉があります。科学的な知識とは別に,日常生活経験をもとに形成された概念ですね。たとえば,「太陽が東から上る」というのも,科学的には不正確な表現ですから,素朴概念と言えます。実際には,地球が自転して,観察者の位置から太陽が見えるようになった,ということなのですが,日常そんな話方をする人はいません。
この「素朴概念」は,従来,「要するに科学的概念を正しく理解できていない証拠」のように扱われてきたのですが,そう決めつけることはできないよね,ということを実証してみた論文がこれです。

ここでは,素朴概念を,「教室で学習した科学的概念と日常経験知との関係性を解釈しようとする,学習者の積極的な意味づけ過程を示すもの」だという先行研究にならって解釈しています。そして,素朴概念を保持している者に対しては科学的知識を,科学的知識を保持している者に対しては素朴概念をそれぞれ示し,矛盾する2つの知識の関係についてどのように考えるかをインタビューしています。対象は公立の中学2年と3年。まず理科の課題を与えられてそれを解き,後日,研究者からインタビューを受けるわけですから,中学生にしてみればかなりプレッシャーの強い研究ですね。しかし結果はとても興味深いものでした。
問題は次の通り。

豆電球と電池を2本の導線で結んであります。このとき,電流はどのように流れるか。

当然,プラス極から豆電球を経由してマイナス極へと流れるのですが,このとき,豆電球で電流が「消費」され,電流が少なくなってマイナス極へ流れるというのが,ここで「電流消費概念」と命名されている素朴概念で,これを支持する生徒が一定数いるといいます。

科学的知識をもった生徒に,この「電流消費概念」を示すと,2つの反応があるといいます。一つは,科学的な知識を用いて,「電流消費概念」の誤りを指摘し,矛盾を解消するという反応。これは「調整」と命名されています。もう一つは,「電流消費概念」は教科書に書いてあることと違うのだとひたすら否定するという反応。こちらは「圧殺」と命名されています。そして,素朴概念をもった生徒は,科学的概念はあくまでも授業の中のことであり,日常生活とは別,というように考えたといいます。これは「すみわけ」と命名されています。もちろん,教育の目的から考えれば,「調整」ができること,すなわち,科学的知識をもとに,日常経験やそこから導かれる素朴概念を正しく説明できることが理想でしょう。とはいえ,これは大変難しいことです。

仮説実験授業の授業で「ジャガイモに種はできるか」という問題を扱ったものがあったと思います。板倉先生の書かれた絵本を読んだ記憶があります。

日常経験をもとにした素朴概念としては,ジャガイモはイモを植えて育てるので,種はない。あるいは,ジャガイモそのものが種だ,などでしょう。科学的知識は,ジャガイモに種はでき,ミニトマトのような小さな丸い果実の中に種がある,です。ただ,栽培していた経験があるのでわかるのですが,ジャガイモの花を見ることはあっても,なかなか実までは見られません。苦労して小さな実をつけ,種が熟すのを待つよりも,地下茎のイモを太らせる方が,生存戦略としては優れているのでしょう。

ここで,科学的知識を使って,ジャガイモは地下茎(地下茎の先端が肥大した「塊茎」というのだそうです)であること,ジャガイモにも花が咲くのだから,当然実が付き種ができるので,ジャガイモに種がないと思っているのは単に花を見たことがないか,あるいはジャガイモが地下茎であることを,栽培経験がないなどのために知らないのだ,と説明するのが「調整」という行動になるでしょうか。
これに対して,植物なんだから種があって当たり前,百科事典にそう書いてある(「日本大百科全書」によると,実はトマトに似た形で黄色に熟し,100~400個の種子があるそうです)からと説明するのが「圧殺」ですね。
そして,実験するときのジャガイモはそうかもしれないけど,店で売っているジャガイモってそれとは別でしょ,てな感じで,結局「どっちも正しい」,だから私も正しい,みたいな結論にもっていくのが「すみわけ」ということでしょうか。
うーん。おもしろい。

比べてみると,科学的にはどっちが正しいの? という感じの話をしているときに「圧殺」的な会話をされると確かに気分悪いですね。気を付けよう。
社会人になってから勉強すると,どうして楽しいんだろう,という話をよく放送大学の学生はするのですが,案外,このことはテストに出るかもしれない,というプレッシャーが少ないぶん,余裕をもって「調整」的な会話ができるようになるからかなあと,思ったりします。科学的知識と関連づけられる日常経験も増えてきますしね。そうすると,中学高校時代に「調整」がうまくできないのは,科学的知識と結びつけるだけの生活経験をもっていないからかもしれません。あるいは,そんな余裕がないか。

少し前に読んだ論文で,「理解」というのは,自分が所属する共同体の中で,何が求められているかという文脈に影響される,ということが書いてありました。中学生を対象としたこの論文で,「圧殺」という説明の仕方が一定の割合でみられるのは,日常経験と関連づけて,素朴概念と矛盾がないように深く理解する,という理解に至っていなくても,テストに正しく答えるには十分であって,むしろ,そのような理解に至る努力は,認知資源の無駄遣いであると考えられているようにも思えます。
とはいえ,学校で学ぶすべての科学的知識に対して,日常経験と結び付けた深い理解を得ようとすれば,当然,相応の努力が求められますし,また,どこまで理解すれば正しい科学的知識と言えるのか,と考え始めたらきりがありません。さきほどのジャガイモの種の問題でいえば,なぜジャガイモの実が熟さないのか,についての説明が本当に科学的であるかどうかは,わたしには自信がありません。もっともらしい説明だと思って書いているだけなのです。つまり,科学的知識としての「正しさ」もまた,程度問題に過ぎないともいえるわけです。
そして何よりも,私たちの認知資源は有限です。一日は24時間しかなく,人生はせいぜい100年です。すべてのことについて,正しい科学的知識をもつことは,無理です。
そうであってみれば,中学生に対して,大人が恣意的に選んだ理科の問題をつきつけて,正しく説明できるのできないのと議論していることも,大人の勝手といえば勝手なのでしょう。とりあえず表面的かもしれないがさまざまな種類の知識にさらしておく。その中から興味のアンテナに引っかかったものについて,いずれ自分で掘り下げに行く,それで十分なのではないか? という気もします。

とりとめがなくなってきた。ま,いつものことだけどね。