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イデオロギーとしての主体性について

Cover Photo by Ankush Minda on Unsplash

「「こころ」のための専門メディア 金子書房」で公開されている「主体性とはイデオロギーではないだろうか」(解説:東京農業大准教授:鈴木聡志先生)を興味深く読んだ。

「主体性」には、それと逆の意味を持つ言葉、たとえば「客体性」はない、という考察はおもしろい。なるほど、ある言葉の意味を考察するときに、それとは逆の意味の言葉、「それであるとはいえない言葉」などを探してみるのは有効な方法だろう。たしかに「客体」という語はあっても、「客体性」とはいわない。

途中、「主体性」の英語訳についての話で、主体性が independence を訳されている例があるのに妙に納得した。読みながら、「主体性がない状態=他者の言うがままになっている状態(?)=従属的」という連想から、従属変数の対義語は独立変数だよね、と思い付いた(さすが統計が趣味!)。だから、主体性=independence はなるほどと思ったし、対義語はもしかしたら dependence=従属的、なんじゃね? とか思ったりした。

で、結局のところ一番共感したのは最後の段落である。次の文章がある。

主体的に学ぶという場合,子供が自覚的に学ばないことは含意されない。同じように子供がよく考えた末に学校に行かないことを選んだ場合,その子に主体性があると評価されることはめったにない。

主体性とはイデオロギーではないだろうか

その通りだなと思う。だとすれば、「主体性とはイデオロギーなのではないか」ではなく、「主体性を求めることはイデオロギーの発露である」としたほうがしっくりくると思った。つまり、「主体的であれ」という姿勢を示すことは、「ワタクシたちが求めている価値を慮って、自分の身体や言語で表現することが、アナタたちの使命なのですよ」と、暗に命令していることになる。学校教育現場でいえば、求めているのは教師(集団)であり、求められている対象は児童生徒である。

いや、ちょっとまて。もしそうだとするなら、そのように行動することはんもっとも「従属的」なのではないだろうか。
つまり、「ワタクシは、アナタたちが求めたように行動しています」という姿勢を見せることが、(学校教育現場でいえば、児童生徒がそのような姿勢を見せることが、教師に対する)「主体性の発露」であるとするなら、それは少しも「独立的=independent」ではないのではないか?

というわけで、この短文の愚かな結論は次のようになってしまう。
主体性とは、自ら従属的であろうとする性質のことである。「自発的隷従」という言葉をどこかで聞き覚えた気がする。